子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

焦土の東京で 14 土方で夜間中学入学

2007年05月18日 | 60年前の戦争体験
昭和21年4月。昼間は、親父の仕事を手伝い、夜は一年遅れの中学3年生として二足のわらじを履く生活になった。

どうしてかというと、中学の2年生の半ば、14才の時に、戦争が激しくなり勉強どころで無くなり、「学徒動員」の名目で自宅近くの「軍需工場」に無給で駆り出されて学業が中断されていた。

その年、昭和20年3月に「東京大空襲」となり、「学校も自宅」も焼失し、中学3年生に進学することができなかった。

なぜって、本来この年の4月に中学の3年生に黙ってもなれるのに、学校が無くなってしまったのだ。学校にも数回行ってみたが「建物も無く、先生の影もない」

「取り付く場所が無い、」仕方なく、自宅と自宅周辺の焼け跡整理を手伝えといわれ、親父と一緒に、もっぱら焼け跡の整理をするより他なかったのだ。
こんなことを毎日している中、8月には「終戦」になり、我が家も近所の人もただ呆然とするばかり。

《仕事と夜間学校》

終戦で、疎開していた人々も東京に戻り始め、「軍需工場に徴用」されていた人、「兵隊」に出ていた人が戻りだし、東京も少しづつ復興の槌音が響くようになった。

親父の仕事も、だんだん忙しくなり、我が家では軍事工場に徴用されていた「次兄20才」が早々自宅に戻ってきた。
次兄の「住み込み先の彫金師宅」も焼けてしまって、親父の仕事を手伝うほかに当面これしか、「飯を食う」ための生活方法が無い。

次兄と親しい近所のW大學生が、「荒川区で焼け残っている中学校があって、生徒が少ないので困っている。」と言う。この中学には「中学の夜間部もあるぞ。」

ここに、「弟さん(私)を通わせたらいいのでは」と言ってくれたのだ。

この時に大學生がもう一つ言った。「新聞の社説を出きるだけ読めよ。」

どう言う意味か良く解らなかったが、取りあえず、たまに社説を読んでみるが。
なにを言わんとするのか、15才の夜間中学3年生には、意味不明だった。
このあと、私はずーと気になり、暇をみては社説を読むが、内容について長い間だ、解らないで過ごしてしまった。

年令を重ねて40才近くになってから、初めて社説の意味が多少解るようになる。

「ははん、社説というのは、世間で言う大切なことが書いてあり、中庸な意見なのだ。」
社説が解るようになるには、新聞全体をよく読むことが必要で、自分自身の善悪の判断が出来るように成るときに、初めて社説の意味がわかるのだ。
社説が解って、初めて大人の仲間入りが出来る人といえるのだ。
これが、私流の結論となる。

1年送れだが、待望の中学3年生になれた。
昼間の自分の姿は、レンガ職人の親父の仕事を手伝う仕事(主として、土方仕事)をして、私は午後4時に先に仕舞わせてもらって家に帰る。
一度家に戻って手と顔を洗い、洋服を着替えて、学業カバンを持って、歩いて30分の距離にある夜間中学に毎日通う。

夜間中学(高校)は、始業時間午後5.30分。終業時間午後9.30分と記憶している。
土曜日も、授業があるが、通常より終わりの時間が一時間早い。

昼間、労働者の私は9.30分まで「お腹が空いて」とても耐えられない。

お袋にこの事を言うと、私が学校に行く支度をしていると、「餅かせんべい」を一つ食べさせてくれる。
なにもないときには、「糠みそ樽をかき回して、大根かキュウリ」を出してくれる。
わたしは、学校に向かう道すがらにこれを食べながら歩く。

なんと言っても、学校に行けるようになったことが嬉しい。

中学校3年生のわし達の生徒数は、30人くらいで、一クラスだ。
このうち女子生徒が、10人程と記憶している。

年令も、ばらつきがあり、どう見ても30才近いと見られる生徒もいる。

職業も、ばらばらなようだ。入学当初は相手の職業が直ぐにはわからない。
だんだんと、解ってくるので、その時まで少し待って下さい。
解り次第に、記事にします。

先生や、学業の内容などは、次回に。