子育て・私流

子供を三人育て、孫も五人になった。
男親の私がどのように考え、子供や孫に接してきたかを書く。

吸血虫と戦争 12

2006年09月29日 | 60年前の戦争体験

 今回は、人間に取り付き生きる ”吸血虫”のはなしです。  戦争が激化した最中、我が家の中では「もう一つの戦争”吸血虫”との戦い」がありました。   ”吸血虫” の名前は次のとおり。

 A 蚊 (か)

 B 蚤 (のみ)

  C 虱 (しらみ)

  D 南京虫 (なんきん虫)

  E ダニ 

     戦時中の低所得者の家庭では、「石鹸」というものが、手に入りませんでしたから、普段は身体を洗うにしても、手拭を水で絞って、ごしごし擦って身体の垢をおとすだけ。  風呂屋さんにいって、風呂に入れるのは、一週間に一回程度あるかどうか。  よくても、家の前のタライに水を汲みいれて、行水すればよいほう。  

   下着類も、お袋が洗ってくれますが「石鹸がないのでタライに水をいれて洗濯板でごしごし」するだけ。

    この程度ではだめ。そこで、身体に吸い付く”吸血虫”のお出ましとなる。

   A  一番目は  (か) だ。

   暑くなると、はやばやと、”蚊” のお出まし。  

 栄養の不足している、細い身体であろうとものともせず、ところかまわず、身体に吸い付く。

 夕ぐれになると、しつこく「耳元で”蚊”が唸る。」  今なら、香取り線香 ということになるだろうが、そんな便利なものは、当時家にはない。

 親父が、火鉢のなかで煙のでる「枯れ草や木の小枝」を燃やして、やりすごすが、根本的な解決策とはならない。

 対策は、夕飯を食べたら、電気代も もったいないから、早く寝ること。  ”蚊” を防ぐのは、「蚊帳」だ。

 「布団を敷いた、周りに 蚊帳 を吊るす。」  この「蚊帳吊りの仕事は私の仕事」

  蚊帳の中に入るときに気を付けることは、蚊帳の裾をバタバタとよく掃って”サーット”入らないと、いけない。

 よくみると、 ”蚊” は、蚊帳の布に点々と纏わりついていて、なんとか人間と一緒に蚊帳のなかに、もぐり込こもうとしているのだ。

  一匹でも、”蚊” を、蚊帳の中にいれてしまうと、”ブーン・ブーン”といつまでも、身体に纏わりついて、五月蝿くて寝られないことになる。

 こうなったら、蚊帳をはずして、また蚊帳の張りなおしだ。  また、私の仕事が増えてしまう。「かんべんしてくれ。」  

   

  B 二番目は、 ”” (のみ)だ。  

蚤は、そおーと内緒で身体に纏わりつき、人間が知らない内に、「身体の血を吸って」逃げてしまう。  そういう意味では、”蚊” ほど、わずらわしくない。

   対策は、「猫を飼うことだろうか。」  我が家では、メス猫を一匹飼っていた。

 「名前は 三毛 」名前のとおりの三毛猫で、そこそこ、かわゆくて利口だ。  ねずみもよく取り、頼もしく、家族にも懐いている。  

 さて ”蚤” だが、をたまたま家の中で、”蚤”を見つけても人間の手ではほとんど捕まえられない。 

 事実、私も家の中で”蚤” を見つけて追いかけたことがあるが、「ピーヨン」と跳ね飛んで行ってしまって、一回も捕まえることが出来なかった。

   夕方、食事も終わり、親父か母親が「三毛」(ねこ)を抱えてなにかやっている。

 最初は、ねこの背中をよく拭くように、撫ぜていたが。

 やがて今度は、頭の辺りを撫ぜる。

  さて、ここが大切なところ、

 「三毛」をくるっと、ひっくり返した。

  お腹を上に向けると、”蚤” がそこに、何匹もうろうろ集まっている。

 ねこの、お腹の辺りは、毛 が薄いので、そこえ、蚤が集まっている。”蚤” がよく解り、捕まえやすいという寸法なのだ。

 ひょつと、親父が ”蚤”を指先で摘んで、両手の親指の甲で「ブチュー」と潰す。

   なるほど、”蚤” 取りはこうやるのか、一つ勉強になった。

 たまに、私も「三毛」を相手に ”蚤” 取りをやってみたが、なかなか取れない。こうなると猫の「三毛」解るとみえて、私の懐から逃げだす。

  そのうち、”蚤” 取りも上手になってきて私も「三毛」と仲良くなれるようになった。

   C さて、三番目は ”” (しらみ)だ。

 この ”虱” は、二種類いて、

 ① 身体の 虱    と  

 ② 頭髪の 虱    

 身体に寄生している ”虱” は、人間の着ている衣服から離れず、昼も夜もその中で活動している。  とくに、肌に近い場所「下着」に一日中くっついていて、厄介な”吸血虫”だ。   

   学校などの外の場所では、身体が痒くても、裸になって探すわけにもいかず。  家に帰ってから、すぐに ”虱” 潰しをやる。

   どんな風にやるのかというと、まず「一番下の肌下着」を脱いで、肌着の縫い目を丹念に探っていく。

 ”虱” は、肌着の縫い目の奥に隠れるように口で張り付いている。

 この ”しらみ”を見つけて、蚤 を潰したと同じ要領で、両手の親指の爪の甲で゛「ブチュー」とつぶす。

  肌着の上から下へ向かって、丹念にこれを繰り返す。  今日、着ていた、肌着類は「パンツ」まで全部。

 本来、これで全部 ”虱” 退治が済むわけもない、取りあえずの対策だ。

  今度は、セーターなどの、上着類。

 これの”しらみ”取りは、一人では出来ず、二三人共同でやる。

 夜食が終わって、手が空くと、火鉢の周り三人程あつまり、”虱” 取りがはじまる。

 この ”しらみ取り” のやり方はこうだ。

 「火鉢のうえ10センチほどの宙に、セーター」を二人で広げてかざす。

  しばらくすると、 ”虱” は、暑さに逆らえず、「セーター」の表面にのこのこと出てくる。

 ここを、すかさず もう一人が ”しらみ” を捕まえて「両手の親指の甲で潰して殺す。」

 「セーター」の表面を順番にずらしては ”虱を潰し” を繰返す。

   この「根本的な解決方法」は、 ”虱” の取り付いた肌着や洋服を 「熱湯で煮てしまうことだそうだ。」

しかし、このようにすると繊維が弱くなって、永く使えないのだと言う。戦時中のこと品物が足りないから「熱湯漬け」は無理と訊かされた。

   ついで、頭髪にたかる ”虱” だ。

 男の自分は、子供時代「頭は丸坊主」なので、頭に ”虱” が喰い付くという記憶がない。

 私の二人の妹が「頭髪の中に”毛じらみ」がついて、大変な思いをしていたことを、思いだす。  

 この「毛じらみ」は、人間の頭の毛根に頭から喰い付いて、爪先で捕まえて引っ張っても、離れない。  無理に引っ張ると、”虱” は自分の頭を毛根に残したままにして、胴体以下がちぎれてとれてくる。

   頭髪の ”虱” は、身体に居る ”虱” より、一回り大きく黒い色をしている。

 こんなことから、私は、”虱” は「二種類」いるのかと思っているが ?。}どうなのだろうか。    

 さて  D ”南京虫” だ。

 ”南京虫” は、身体に住み付くのではなく、家のなかに潜んでいて、夜中に人間の血を吸うため這い出てくる、”吸血虫” だ。  

  朝起きると、腕や足に ”南京虫” に食われた跡がついている。

 これに、食われた跡は、腕や足に小さく 二箇所 の食い跡が付いているので、”南京虫”に食われたことが解る。

 一匹の ”南京虫” が、上の口と、下の口の二箇所で血を吸うために、二箇所に跡が付くのだ。と親父が言う。

 ”南京虫” の身体に、二箇所の口があって、同時に「血を吸う」とは、私には思えないが、

 これを打ち消すものを持っていないので、今でもそのまま疑問になって残っている。  

  、”南京虫” の棲み家を見つけたぞ。  

 夜寝る前に、布団の外側に「うどん粉」まいておく。

 ”南京虫” は、夜中にぞろぞろ這い出てきて、人間の血を吸う。

 夜明け近くになると、南京虫は仕事を終えてぞろぞろと、自分の棲み家にもどる。  

 ここが味噌、棲み処に戻るとき「うどん粉」をつけたまま、棲み処に向かうので、”南京虫” の棲み家を「うどん粉」で示すことになる。  

   さて、あなたは、家の何処に ”南京虫” が向かったと思いますか。

 一つは、畳と畳みの境目。

 二つ目は、柱の割れ目。

 本命は、2の柱の割れ目だと私は思っている。

 なぜか。”南京虫”が ”卵” を生み付けた所(場所)を見つけたから。

 狭い柱の割れ目の奥に点々と、白い小さな粒が張り付いている。親の ”南京虫” が、卵を守るように寄り添っている。

 母が、長い木綿針を持ってきて、「親の ”南京虫” を潰して、 ”卵” をかきだせ」と言うので、一生懸命にそれにしたがってやってみたが、 ”親の南京虫”は、狭い奥へおくへと、入ってしまいどうにも取れない。

 畳に、逃げた ”南京虫” は偶に「畳みを起こし」をすることで何とか退治できる。

  現在なら、「殺虫剤」を吹きかけておくか、「煙の殺虫剤」を焚くことで済む話だと思うが。 戦時下のこと、どうにもならない。

  最後は、E ”ダニ” だが、こればかりは、小さすぎて人間の目では、捉まえられなかった、ので書けなかった。

   こんなことを、書いている時ではない。

 こんな、話をしてみても現在では通用せずにムダなことだと思うが、戦争中に子供達がこのような生活していたのだ、と言うことを知ってもらいたかった。

  次回に書くが、まもなく「東京大空襲で壊滅的な打撃」を受けて、我が家も焼けてしまうことになる。    


戦時中の子供の遊び 11

2006年09月27日 | 60年前の戦争体験

  中学生での学徒動員まで書き進めてきましたが。

 ここでは、少し戻って”私の小学生から中学生時代”に、戦時中に下町の子供がどんな遊びをしてきたかを書いておきます。

  この時の、道路事情を先に話しておきますと。

 当時の大通を通っている”荷物の運搬車”は、馬が曳く”荷馬車”。  たまに、”ボンネットのバス”が通るが。その他は”大八車リヤカー”を人が曳いて歩いていく程度。

 そうそう。”ボンネット・バス”は、バスの後ろに釜を載せて、木炭をたいて多くの煙を出し、やっとこ・さっとこ にはしるバスでした。

 子供は、この”荷馬車の荷物の後ろ”にブラ下がって、大通りで遊んだものでした。  

 我々の住宅、裏長屋の狭い路地には、たまに自転車に乗った人が通る程度で、路地の道は子供達の遊び場天国です。

  私が遊んだやり方 ”子供の遊び

  A めんこ(丸いめんこ・長方形のめんこ)

  B ベーゴマ

  C かくれんぼ    

  D なわとび・ (一人の二重とび・ 大勢でやるなわとび) 

  E トンボ取り や セミ取り

  F 竹馬 

  G 缶けり

  H お手玉 

  I おはじき

  J 水泳

  ”めんこの遊び方”  

  A めんこ 

 この遊びは、子供が二~三人集まり、自分の持っている”めんこ”で、勝負するというもの。

 まず、ジャンケンで、先攻めと後攻め をきめます。

  後攻めの人が、路上(土の上)にめんこを置き、先攻めの人が相手の”めんこ”を裏返しにしたら、勝ちで、相手の”めんこ”を貰います。  というもの。

 子供同士の戦いであるが、”めんこ”にも”王様”というのがあって、最後の ”切り札”として、大事にされる。

 ”めんこ”は、子供達の宝物。沢山持っている子供が尊敬され・信頼される。

   B ベーゴマ   この遊びは、子供四~五人でやる遊び。

 近所から「樽」などを見つけてきて、この樽の上「シートかござ」を被せて、  樽の上のシートの中心を少したるませる。   

 鉄製のべー駒を、”セッセのせー”の掛け声で、一斉に樽の上目がけて廻し投げる。

 「樽の上のベー駒、中心に近寄ると、相手の駒と激しくぶつかり合い、相手の駒を外へ飛ばそうとする。」  この場面で、外え飛ばされた暇は、飛ばした駒を持っている人の物となる。  

 この戦いも、強い駒沢山持っている人が”王者”だ。  強い駒を、作るために「駒の尻を尖らせる。駒の上部に角をつくる。」これが大切。

 表通りのコンクリートで、この作業をこつこつとやった者が強い駒を沢山持てるのだ。

  C かくれんぼ   5人以上の子供が集まると、この遊びが面白い・ 

  まず、ジャンケンで 鬼を決める。  鬼が数を 10 数えるまでにそれぞれ、自分の好きな場所に隠れる。  

 この辺のところは、今現在でも同じやり方だと思うが、戦時中ての場合、路地が狭く、家も小さい。  その辺で、隠れていても、すぐに見つかってしまい。隠れる場所が難しい。

 私の、一番の隠れる場所は、材木置き場だ。置き場の一番奥の高いところに隠れれる。

  材木店の、親方さんが下の広場で夕方まで仕事をしているので、鬼になった子供はうっかり近寄れない。

 ただ、そこの材木屋の親方に見つかったら、自分の家まで連れて行かれて、両親に言われて怒こられるしまう。

 ここの、ところが「怖くて、楽しくて、見つけにくい」場所なのだ。  

 友達と二人で、3時間以上、夕暮れ暗くなるまでじっーと、黙ったまま、鬼に見つからずに、材木置き場に隠れていたこともあった。

 現在では、「材木置き場であっても、塀をめぐらして、子供がやすやすと入れる様な所は無いだろう。」  と思うが。 どうだろう。

   ここで ”水泳” のことを書いておきたい。

  J 水泳  戦時中、私が通っていた、学校には「プール」がなくて、水泳という時間割りがなかった。

 いや、私が通っていた学校だけでなく、戦前当時の学校には、ほとんど「プール」はなかったと思う。

 なんで”水泳”のことを書く気になったかというと、「成人する20才まで、私は泳げなかったのだ。」 から。

    しかし、近所の子供友達の中には”泳ぐ”ことが上手な子供も少なくいたのだ。  

 なぜ、私だけが泳げなかった。 というと。

 夏になると、近所の子供たちは、「越中ふんどし」と言って、”さらし布”をもって、荒川(旧の荒川方水路)え、水浴びに行っていた。

 私も水浴びに行きたくて、母親にお願いしたが許してもらえず。

 「荒川」は、我が家から北方 2.5Kmぐらいの距離で、歩いて30分くらいだ。

 近所の子供仲間は、さらし褌を肩にして、勇んで並んで我が家の前を通る。

 私も内緒で、家の中で さらし褌になる布を探したが、相撲力士と同じように腰に巻けるほど長い布が見つけられなかった。

 それでも、水浴びに行きたくて、なにも持たずに、近所の子供達について「荒川」に行ったが、「フルチン」での、水浴びもならず。

 すごすご、一人で帰ってきた。

 ズート後のこと、終戦後の20才すぎ、高校の仲間と海水浴にいっても”泳げない”ため、さんざん友達にいじわるされ、海水を飲まされ悔しい思いをしたことを、今でもハッキリ記憶しているから。

   戦争がだんだん激しくなるとともに、”食料”とくに”米”がなくご飯が食べられなくなってきた。

  「成長期のわが身のつらさを感じる」 少し大袈裟かな

  次回は、”少しの米を求めて四千里”このへんの、苦労話をしてみよう。  やがて、「東京大空襲で壊滅的な被害」 に遭うがそんなことは、その時には知るすべもない。

  我が家は、合いかよらずまだ東京の下町で「疎開もせず」 親子5人 頑張っているぞ。


学徒動員 10

2006年09月26日 | 60年前の戦争体験

  中学生2年の 半ば「カツパ先生」から学徒動員の命令があった。  今回は、学徒動員の話をすすめます。  

 カッパ先生というのは、我がクラスの担任先生のことです。 

 頭毛をオカッぱ型にしており、黒い太いふち眼鏡で、やや背が低く、ニック・ネームが「カッパ」と言われている先生です。

 戦争も激しさを増してきて、多くの先生方も兵隊に出ていて、教える先生も大変。「カツパ先生」我がクラスの全教科を一人で全部担当しており苦労している。

 とくに、英語が苦手と見えて、英語の時間は「軍事教練」に変更になり、一回も英語の時間がないまま、1年6か月を経過した。

  私が、中学生になってから  空襲警報が鳴ることが、やや少なくなったように思えるが。

 近所の大人の人の話では、”南方での戦争が激しく、爆撃機が日本に向かう余裕が無くなった。 のだそうだ。

  或る日、朝礼が終わって教室に戻ると「カツパ先生」がら、全員「学徒動員」に参加してもらうことになった。

  {戦争が激しさを増してきたおり、お上から 学生として軍需工場へ出て働いてもらいたい。 と言う要請があり、大変だが協力してもらいたい。」

  なんのことか判らず、生徒全員が キョトン としていたが。  

 「カッパ先生」の説明では、戦地では 兵隊さんが一生懸命 日本の国を守るために、働いているが、物品が足りない。

 「軍需工場」では人手が不足しており、工場の生産が間に合わず、「今回の要請」となった。  一  

 グループ、5~6人に分かれて、明日からにでも工場で働いてもらいたい。  

ただ、好い事もあるぞ

 一つは、工場で朝のうち「勉強時間」を少し貰えることになっていること。 

 二つ目、昼食が食べられるということ。  

  ただし、無給だぞ。  我々生徒にとって、「一番の魅力は昼食が只で食べられる。」 と言うことで、  普段十分に食べていないので、全員喜んだ。  

  ”後日談。”

 一つ目の、朝のうちの 「勉強時間」 は、全部自習でどのようにしていいのか、班長の私以下、戸惑うまま、まもなく勉強は中止となってしまった。

 二つ目の、「昼食」これは、一年近く続いた。     

  ただし、ご飯は、”鰊いりの混ぜご飯”一膳のみ。   

 次第に、さつま芋交じりになり、軽く一膳。     

 最後は、お粥となったが、茶碗に少々。         

 その後は、昼食は、なしとなった。

 それでも、自宅では 「食べるもの」 が無いので喜んで軍需工場へ通った。

 この工場では、”滑車”というものを、製造していて、40センチ程の丸い鋼鉄を旋盤で「ロープを通す場所」を加工する仕事だ。

 一個が、10Kgぐらいあり、我々中学生では取り扱いが難しいし、危険だ。

 機械の傍で、切りくずを清掃したり、袋に詰めたりが主な仕事。

  この時期、自宅では、普段の食事にも、不足し困るようになり、食べ物の調達が、生活の優先事項となつた。   

  もう一つ、中学3年生の卒業年月、1945年3月を軍需工場で迎えた。 

 しかし、学校からの連絡は何も無く、このまま工場へ真面目に通う。

   そうこうしているうちに、この年の 3月10日 ”東京大空襲”に遭遇し「我が家も学校も」火災で焼けてしまう。

 「東京大空襲」の前に、わが身に巣食う「毒虫」”吸血虫”で苦しんだことを、話を少し年代を戻して 次回に書いておきたいと思う。


中学時代と学徒動員その2 9

2006年09月20日 | 60年前の戦争体験

 中学生となってはや3か月。この年私は12才になっていた。   一学年は、二クラス。一組には25人位いたと覚えている。   カッパ先生に「級長」を命令され、朝礼での整列の号令「気お付け、前に倣え」の掛け声にも慣れてきた。  教室では、先生が教壇に立つたら「起立、礼い、着席」の掛け声をやる。   この時代の決め事は、「時間や手間ひまを費やす」のが、戦時下もったいない。ということで上から決めて「命令してくる」というのが当然という時代であった。  私の性格は、「引っ込み屋で、気が小さく、照れ屋」人前で話すことなど、とても出来ない人間だ。  しかし、気が弱いので 頼まれると断れない性分。  命令された「級長」も、真面目に勤めて、はや、3か月。  はじめのうちは、おろおろ、どきどき、まごまご。  

  中学一年生も順調になってきた。  カッパ先生も、授業に慣れてきて快調。教室での授業は「国語」の時間が多く、たいてい、「カッパ先生」は一番先に、私に「昨日の続きを読め」と指示する。 大体こんな、授業が毎日続く。  また、読まされるとおもうので、家に帰ってから、「国語の教科書」出して復習することにした。  このことが、「人前で話す」ということが、嫌と感じなくなったのかも知れない。     或る日。「英語」の時間でのこと。  この戦時下「英語」より、体力を付けることが重要、この時間は校庭で「軍事教練」をこれよりおこなう。  全員校庭え出て整列せよ。カッパ先生の命令。  生徒一人ひとりに六尺棒を持たせ、二列に並んで「えい・えい」の掛け声で相手に突き出す。  しばらくして、「この六尺棒を担いで」行軍。次いで「早足」。

   カツパ先生は、私が一年生と二年生のあいだ、一回も「英語」の授業はせず、何時も「軍事教練」。「英語」の時間はこんなことですべて消えてしまった。  たぶん、カッパ先生は「英語」が苦手だったのだろう。  今なら、先生が゛「全科目」を一人で受け持ということ。さらに、時間変更を勝手にしてしまうようなことは考えられないことと思うが。  

  ABC、「英語」を一つもやらなかったことが、成人して就職した後に苦労する種になった。  ただ、このカッパ先生に「級長」を任命されたおかげで、性格も太くなり成人したのちの私にすごく大きな力を与えてもらうことになる。  

   中学生2年の半ば、カッパ先生から「学徒動員」の命令が下 る。     

   この話は、次回にする。


中学時代と学徒動員 8

2006年09月19日 | 60年前の戦争体験

前回は爆弾の直撃を近所で眼の辺りにした話をした。  一週間前に親戚の空家に、引越しをした先で直撃で亡くなった、母と娘二人。  さらに、別の爆弾の直撃で、防空壕から外の通りの電線まで飛ばされて、その電線に引っかかって亡くなった、小学生の女友達。

  こんな出来事があわただしく続いていた、東京の下町で「私も中学生」になつた。  こんどは、学校も替わって、今までの小学校とは反対方向で、家から歩いて10分くらい。  家からは、北西方向にある中学校だ。

  近所の家族は「疎開」した家も多くなり、中学校へ行くのは、このあたりでは私一人。  戦争が始まらなければ、もっと沢山の友達とにぎやかに、中学校に毎日通えたのにと思うが。

  こんなことは、口に出して少しでも言えない。「言えば親父に酷く怒られる。」  

   こんどの中学校は、小学校と併設されている中学校で、今までの小学校より規模がやや大きい。   担任の先生は、K先生。

  ニック・ネームは「河童」カッパ先生。  頭の毛を、おかっぱの様にしていて(現在で言えば南海キヤンデーズの 山ちゃん風の髪型をしている)、ふちが太きく黒い眼鏡で、背もそれほど高くない。

 当時は、先生方も戦争に狩り出されていて、少ない数しか先生は残っていない。  勉強する時間割には、国語・算数・英語・体育、などの科目があるが、K先生一人で、全科目を担当していた。

  これでは、カッパ先生は大変だ。不得手な科目もあろうに。  

    初めての朝礼では、どうしても小学校からの習慣からか、列の前のほうにいて、うろうろしてしまう。

  カッパ先生から、私に「お前が一番前に並べ」と命令された。

 小学校の時から、一番前の「最前列」級長の脇に並んでいるのは慣れているから、なんの抵抗もなく「はい」と返事して一番前に並ぶ。

 カッパ先生が私に「号令を掛けて、整列させろ」との命令。

  「気お付け・前に倣え」 こんなことは、小学校で6年間も隣の級長のやっているのを見てきたから簡単。  

    朝礼が終わって、教室に入って座ると、カッパ先生が全員に向かって、級長を決める、という。

 皆んな、誰もこんな役目はやりたくなくて、下を向いている。

 小学校の経験からいえば、「勉強が出来て・休まず・家柄も良い子」が級長に選ばれるのが普通だ。

  当然私の出番はあるわけが無い。平気な顔で座っていたら。

 カッパ先生級長は、「お前がやれ」という命令がいきなり私に下りる。

 当時は、上からの命令で、一方的に決めてくる。  

   反対などできない。  「勉強も出来ない・家柄も良くない」 私がと思ったが後の祭り。     級長という仕事が、私の成人になるために、大きな力になる。

   中学校での、学業状況と学徒動員の話を書きたかったが、長くなったので次回にする。 


疎開 7

2006年09月14日 | 60年前の戦争体験

  爆弾が近くに本当に落ちて、被害が実際に起きて大騒ぎ。  親戚や知人が田舎などの安全な場所で生活している人は、そこを頼って疎開し始めた。  「疎開」 7 

   当時の疎開を少し整理してみよう。

 1.親戚へ疎開する。

 2.知人・友人の家に疎開する。

 3.学童疎開に参加し疎開する。

 4.疎開先がなく東京に残る

  疎開と言っても、住む場所や食料などの生活基盤をそっくり移動しなければなら ないわけだから、受け入れ側の家族に相当の負担がかかる。 かなり近い親戚でも躊躇するであろう。自分の親の家ならば引き受けてもらえるだろうが。これも何時まででもというわけにはいくまい。

  1.親戚へ疎開する。

 A 親戚でも両親の家になら、子供連れでも受け入れてもらえるだろう。

 B 親戚でも両親が亡くなった後の兄弟・姉妹の家ということになると、寝食を共にするわけだからすんなりとは受け入れてもらえるか。

 C 遠い親戚となると、疎開はますます困難になる。  でも、頭の上には「爆弾」が落ちてきている。小さな子供が心配だ。

  2.知人・友人の家に疎開する。  親戚の人の先でも、疎開するのに大変なのに「知人」や「友人」となるとかなりむずかしい。それでも、上手く頼れる先を見つけて疎開していく。

   3.学童疎開(小学生が対象)  親戚、知人・友人先にも疎開する先がない。いても、その家に疎開の了解がもら えないなどで、子供さんがいる家族が困っている。 

  こんなことから、役所と学校の配慮で「学童疎開」が始まった。

 小学校で、疎開できない子供をまとめて疎開させようというものだ。

 どこの地域(主として区単位と聴いている)は、何々県の何地区というように割当てられて、学童疎開をするのだ。  疎開先に子供達は、少人数づつに、お寺・公民館・温泉旅館などに分散されて疎開してい った。

   4.疎開先が無く、東京に残る。  私は、この時期には、中学生に進学していたので「学童疎開」の対象になっていなかったと親父から言われた。  しかし、我が家には、私の下に二人の妹が小学生で「学童疎開」の対象であるのに、親父は二人とも学童疎開をさせなかった。 この辺の事情については今でも判らない。 

  我が家は、親父の田舎も豊かでなく、子供も多くて疎開させる状況にないそうだ。  では、お袋の田舎は、ここも親父のところと同様だめと言われてしまったそうだ。 では、「学童疎開」させればと思うが、親父が「うん」といわない。

  我が家は、結局終戦まで東京に留まることになった。  

 このあと、戦争も激しくなると同時に、疎開が進み「東京はゴースト・タウン」 となる。

  衣類・食料に困りも果てることになるが。  

  このへんの、ことは次回に。


爆弾が家の近所に三発落ちた 6

2006年09月13日 | 60年前の戦争体験

  昼間の空襲警報が続いた或る日、私の家の直ぐそばに三発 の爆弾が落ちた。 

   私の家の近く

   左側 150メートル に一発目 

   右側 100メートル に二発目 

   北川 500メートル に三発目

   実はこの爆弾が近くに落ちたことで、悲しい出来事が身近に出来てしまった。  我が家の直前の長屋に住んでいた親子三人が挨拶に来て。  「大変お世話様になりましたが、親戚で疎開して(一軒屋)家が空いたので、よろしかったらお使って下さい。」と親戚に言われましたので、近いのでそこえ引越しし たいと思います。と言って帰った。  しばらくして、前の長屋の親子は引越しして行った。  この親子の家庭は、お父さんが兵隊に採られていて不在で、母親と娘二人の三人家族である。  上の娘さんは、私の一つ下で小学校も同じだったので、よく一緒に遊んだ、遊び仲間だから良く知っていた。

  前の家族が引越しして、一週間くらい経った頃。

  空襲警報がなった。  「ヒュウー・ヒュウー」と爆弾の落ちる音がする。こんどの爆弾は近いぞと言う間もなく、私の頭上に「ドカン」と大きな音とともに爆弾が落ちた。  「ナミアミダブツ」 これで私の人生も終わりか。

   母親が言う。  爆弾の落ちる「ヒュウー」という音を聞いて、さらに「ドカン」と落ちてから  「ナミアミダブツ」 はないだろう。  「爆弾の落ちてくる音と、ドカンと落ちた音を聞いたら、これで終わり。もう大丈夫だよ。」  なるほど、そんなものかと感心する。   防空壕から、そおっと外を見るが、砂埃りでなにも見えない。  少し静かになってきたので、そろりと外え出てみる。  路上には、瓦片や材木・石コロ・砂がごろごろしていて歩けない。まだ空からゴミが空から降って来て危ない。

   母親も外へ出てきて、「凄かったね、どのへんに落ちたのかね」という。  我が家の前を慌てて通りすがった人が「大通りの向かい側らしいよ」といって走りすぎて行った。  母親が慌てて言った。「前の家族の引越し先が近いぞ」左側 150 メートルだ。

  行ってみるからお前も来い。母親が慌てている。  狭い路地を母親と、爆弾で落ちてきた路上の材木や石・瓦を取り除きながら大通りに向かった。

    大通りは、さらに凄いゴミで歩くのに苦労する。「藍染川」を渡って「私鉄電車」の高架を潜って、やっと爆弾の落ちた現場に着いた。  大勢の人が大きな穴を見ている。直径15メートル位もあろうか。  近所の人らしい方が三人ほどで、話しているのを聴いて驚いた。  その話はこうだ。「最近ここの家族が疎開したので、親戚の親子三人が引越してきたその家族が爆弾の直撃で亡くなったらしいのよ。」

  「急に母親が泣き出した。しばらく泣いていたが。」穴に向かって手を合わせて拝む。    ぽっんとつぶやく「あの家族は、あそこに死に行ったのかね。」

   右側の爆弾 100 メートル にも落ちた。  翌日、学校へ行く道筋でも「爆弾が落ちた」と騒いでいる。  友達と立ち止まって、周りの人の話を聴いているとこうだ。  「年寄り夫婦と孫娘が畳みの下の、防空壕に入っていたところへ”爆弾”が落ちて三人が飛ばされて亡くなったのよ。」

  「ほら、上の電線を見てみなさい、孫娘が飛ばされてあの電線に引っかかったのだそうよ。着物の切れ端と肉片がぶら下がっているでしょ。」  怖くて、翌日から通学路のこの道が通れなくなり、別の道で学校に行くことにした。   「電線に赤い着物が引っかかって、肉片が残っているでしょう。」という、近所の人の言葉が耳に残っていて悩まされる。

   三発目の爆弾は、母が「見に行くのは、怖いからやめなさいよ。」と言うので、やや遠いこともあり、行くのを止めた。   次回は「疎開」の話をしてみる。


爆弾が昼間近所に落ちる ⑤

2006年09月10日 | 60年前の戦争体験

 私は小学校6年生。もうじき卒業になる。

  少し前までは、爆撃機は夜間しか来襲しなかったのに、最近は、昼間も飛んできて爆弾を落とすようになってきた。  北西方から東京の空に現れてくるのは、いままでと同じだが、こんどは昼間に飛んできて、夜間よりやや低空で爆弾の投下地点を探しては、爆弾を落とすようだ。  かなり、命中率も上がっているようで、いままでより怖い。  飛行機の姿が遠くに見えてきて、爆音がだんだん近くなってくる。”ドン゛”ドン”と日本の高射砲がうなる。  その合間に、”ドカーン”という音とともに、遠くで爆弾の砂ボコリが何条か揚がるのが見える。

  とくに怖いのは、爆弾の落ちてくる音だ。 遠くで聞こえていた、飛行機の爆音がだんだん近寄ってきて、「ヒーュウ・ドカン」爆弾がすぐ近くに落ちたようだ。  うまく言い表せないが、爆弾の「ヒーュウ」と飛行機から投下され地表に届くまでの音が命を縮まらせる。  この爆弾の落ちてくる音は、いつでも私の頭目がけて一直線で飛んでくるとしか思えない。   この音は、私が寝たあとも、夢の中でわたしを追いかけてきて離れない。

  空襲警報が鳴ったら「防空壕に入れ。」また、親父に叱られた。  さらに、数日後、私の家の近くに「爆弾が3発」おちた。    「ヒーュウ・ヒーュウ」「ドオン」私の頭上だ。  「親父の言うことを聞かないで外で爆音をきいてい祟りだ。」これで私の命もお終わりか。「ナムアミダブツ」。  目を開けて回りを見るが、砂ボコリばかりで、身の回りのものは何も見えない。「やっぱり地獄に落ちたのか。」

   しばらくして、私の目の前が少し見えるようになってきた。 近所の人や家族も表に出てきて「助かりました。よかったですね。」と話し出す。 「やや、私も助かったんだ。」死んだと思っていた、などと家族にも言えないので、だまって近所の人の話を傍で聞いていたら。  「爆弾はね」「ヒーュウ」とおとが聞こえたらまず大丈夫。「特にドカン」と音がしたらもう落ちた後。自分の上に直接落ちるような時には、なにも聞こえないでお陀仏よ。  「なるほど、そんなものか。」と感心する。

  前の長屋に住んでいた家族が、親戚が疎開した後の一軒家に一週間前に引越した家で「爆弾の直撃に遭った」ときいた。 私の学校友達も一緒だ。

  この話は、次回に。  


東京大空襲とサーチライト ④

2006年09月09日 | 60年前の戦争体験

 東京大空襲とサーチライト 

  昭和十七年の後半。私は12になった。

  このところ毎日のように「空襲警報」のサイレンがなるようになってきた。  午後7時頃になると、必ずといってよいくらいに、「空襲警報」が発令される。部屋の電気を消して家族全員防空壕に潜り込む。  我が家の防空壕は、玄関脇の二畳間の畳みの下を掘って、周りと下を板で囲んだ簡単なものだ。  こんな防空壕でも、空から落ちてくる落下物を「屋根と畳み」で防いでくれるので有効なのだそうだ。

  私は親父に隠れズルして、外で家のトタン屋根に上り、飛行機の爆音が聞こえてくる方向を向いてじっと待つ。  飛行機の爆音は、何時も、東京の西北方面から聞こえてくる。   しばらくして、空に閃光が光る。「来たぞ」私の心臓が恐ろしさと、見てみたいという気持ちで縮む。  「サーチライト」だ。爆音がだんだん私の近くに迫ってくる。  一本のサーチライトの光が高い空にむかってのびる。さらに、もう一本2本目のサーチライトが別の角度から空を照らす。さらに、もう一本3本目のサーチライトが空にのびる。  三本のサーチライトが、お互いに協力しあいながら、右や左えと角度を変えながら飛行機の姿を探している。  

   「やつた」一本のサーチライトが高い空の中から、飛行機の姿をとらえた。  残りの二本のサーチライトも、急いでこの光線に向かう、三角形の光の頂点の中に取り込まれ飛行機が逃げる。  すこし逃げてサーチライトの光が届かなくなると、次の場所から別のサーチライトに照らされて、飛行機を捕らえる。  よく見ると、逃げる飛行機の周りで小さな影がまっわりつく、日本の戦闘機が空中戦を交えているのだそうだ。

  相手はB29と言う爆撃機だそうで。  5機くらいで、南方の基地を明るいうちに飛び立ち、富士山を目指して日本へ向かい。相模湾の上空で右旋回、丹沢山塊に沿って東京方面に爆撃に来る。  東京上空に着くころは、どうしても午後7時頃になってしまうのだ。と近所のおじさんが私に教えてくれた。 

   飛行機は、荒川「旧荒川放水路」に沿って東京湾から南方の基地に戻るのがルートただと教わった。

   こんな、「サーチライト」の光景を毎晩見ていると、怖さも忘れてしまう。  毎日、空襲警報がでると急いで、梯子でトタン屋根に上る。  この様子が、親父に判り、しどく叱かられた。

 でも、 「やめられない。」

   こんなことが続いた。ある日、  飛行機が「昼間」に来襲し、爆弾を投下するようになってきた。  我が家の近くにも落ちて、近所でも被害が出始める。

   この話は、次回にします。 


当時の衣服 3

2006年09月08日 | 60年前の戦争体験

 当時10才の私に、2才年上の兄が居ました。昭和十七年のことです。  学用品も、衣服も、何時も日常は兄のお古。学生服から下着までお古ででした。  破れたり、ほころびしたところは、母がつくろってくれて着せてくれました。  こんなことで生活が成り立っていた時代です。  新しい下着を買ってもらえるのは、盆か暮の一年に一度か二度でした。

  そのときの様子を少し詳しく書いて見ますとこんなふうです。

  12月31日、お父さんが、夜る8時頃帰ってきました。何かニコニコしています。家の前では職人さんが三人ほど世間話しをしながら、親方の帰りを待っています。  そう、父は職人さんたちの親方で「レンガ職」です。工場の大型釜戸やボイラーの工事を請け負っています。

 今日は、大晦日といって。いままでの仕事の計算・請求・清算のため、早朝から仕事をしたお客様のところへ出向き、代金を現金で頂戴し。  その足で、工事で使ったセメント・煉瓦・砂・砂利の材料費を材料屋さんに回って支払いして、やっといま家に帰ってきたところなのです。

  家の外で待っていた職人さんを、母が家に招じ入れ親父との宴会が始まります。宴会の中ほどに親父から、それそぞれ三人の職人さんに今月の給料と今年の賞与が渡され、まもなく宴会がお開きになります。

  宴会の残り物を子供も頂いて終わりになる頃。親父が「さあいくぞ」と言いました。 

 もう夜の十時過ぎです。母や子供を引き連れて、商店街の用品店に向かいます。  商店街もまだまだ賑やかです。

   ここで、一年に一度の下着・下駄・タビなどを買って貰います。

  後で分かった話しですが。実は、親父と母は小学校にも行けずに育ち、読み・書き・ソロバンが不得手だったそうです。

  その知恵でしようか、毎年大晦日に集金・支払・家計の順に現金を分けて、最後に残った「現金」が今年一年の自分の儲け「稼ぎ」ということになるのだそうです。  なるほどと、私しは感心しました。

  年に一度しか、下着類を買ってもらえなかった訳がわかったでしょうか。

  次回は、爆弾とサーチライトの話です。


学校のこと ②

2006年09月07日 | 60年前の戦争体験

  小学校のこと

 朝礼  A  昭和17年、当時の私は11才、小学校6年生

  B  背が小さく、学校での朝礼では、いつも最前列、右は級長が並ぶ。

   小学校の 1年生 から 6年生 まで、何時も最前列で。級長の左側にならんでいた。

  朝礼は前方に、担任の先生がこちらを向いているので、後ろの生徒のように騒げない。

  遠足などの「郊外授業」があって、ならんで駅などに向かうときには、最前列で”旗”持ち役。  こんな生活のせいか、真面目これを曳きづり、くそ真面目 6年間。  このまま、成長する。

   当時の朝礼のやり方を書くと。

  1 まず     「国旗掲揚

  2 次いで     「国歌・君が代」を全員で歌い

   3 校長による  「教育勅語」の音読

  4 学校からの  「連絡事項

  5 それから全員で「校歌」を歌い

  6 ラジオ体操、と2 で運動す。。 

    通常の朝礼は、これで終わる。

   しかし、記念日には、(何の記念日か忘れたが)。

  7 全員で   「起源は二千6百年」の歌を歌う。

  8 この後、学年ごとに行進の隊形で教室に入り授業が始まる。

   次は、当時(当家)の衣服事情を話します。  


60年前の戦争体験 ① 住宅

2006年09月06日 | 60年前の戦争体験

 私は現在、東京の城北地区に住んで77年になります。東京大空襲があった当時私は14才でした。 

 この年齢10才から14才前後の我が家の戦時中の生活状況を書き残して置きたいと思いたった。

  自分でも思いますか、65年前の10才前後のことを、これほどまでもよく覚えているのかなあー、と、現在でも自分に感心しています。

   今、書いている文章も「パソコン」にむかって、下書きなしで記憶を辿りながら打ち込んでいます。

 これは、書き残して置けという、ことでしょうか。

 こんな、昔の話を私の子供にしてみても、子供が真面目に時間を割いて聞いてくれることはない、と思うからだ。

 私が死んで、この世に存在しなくなったら、戦時中に食べるにも困って生活してきた、この苦労話は消えてなくなる。

 しかし、このような生活から、立ち上がった、私や私の家族もいたということを私の子供達に知っておいてもらいたいと思う。

   ”ちょつと、湿つぽかつたかな。”  

   まず、私が11才「小学6年生」ころの住宅事情などの生活を書いてみます。

  「当時の低所得者」の住宅事情は、次のようなものでした。

 当時の低所得者の住宅事情について3つ記してみます。

    A 「九尺二軒の棟割り長屋」一つの平屋建の建物を棟屋根を中心に壁で仕切り、八軒で使うもので、片側に四軒、反対側に四軒の八世帯で使うようにできている。

 俗に周りの人は「千軒長屋」とよんでいる。

 こんな建物が一角に五~六棟並んで建っている場所である。 

  一所帯当たりの間取りは。家に入ると土間の玄関で台所兼用で二畳ほどの広さ、左に二畳間の畳み部屋、奥に六畳の居間。

  これた゜けの大きさが一世帯分。

 便所、水道は外にあり。八軒で共同で使用する。

   一番低所得者の住まいである。  

  B 次の住宅は、四軒建ての平屋で、便所・台所は屋内に在るが、水道は外部にあり、四軒共同で使う。

 各家庭ではバケツに水を汲んできて屋内で使用する。

 この住宅は、棟割でなく一棟なので裏からも出入りできるようになっている。       

  部屋割りは、「千軒長屋」と同じ構造で A よりやや広い。   

  こんな間取りの平屋住宅が付近に、六軒ほど一塊に並んで建っている。

   C もう少し、上級の住宅は一戸建てで、台所・水道も便所も内部にあり玄関も居間ももう少し全体に広く作られている。   

 上記の三種の住宅は、いずれも風呂は無く、夏はタライで行水。十日に一度程度「銭湯」に連れて行ってもらえた。

    私の生まれ育った家は、 B だった。  

 次は、戦時中の小学校の状況を書いてみます。