ステージの狭さ、というのは僕の錯覚なのかも知れないが、しかし、ワンマンでは過去最大級のライヴ「巨大天下一メタル武道会」であったにも関わらず、ごくごく限られたスペースで3姫は「演」奏していた、これは、映像を観ると、間違いないことだ。
あるいは、あの三角形のステージの「鋭角」が、そうした印象を与えるのかも知れない。
『Red Night・Black Night』や『Live in London』と比べて、実際のステージでの「可動域」が狭いということはないのかもしれないが、もうそれ以上先に行けば落ちてしまうという限界線がそこにありありとあることで、「ギリギリ」の緊迫感を感じてしまうのだろうか。
そうした空間的な制限「枠」を設定することで、BABYMETALの3姫の舞踊の緊迫感が増し、観ている僕たちに、「ギリギリ」の、「ストイック」な、「タイト」な、といった印象を与える、ということは、たぶん間違いない。
そして、その印象は、まさしくヘヴィ・メタルがもたらす興奮・緊迫感なのだ。
観ているだけで全身が汗ばむ(目には涙がにじむ)。
そんな反応を起こさせる彼女たちの舞踊は、単に高速・轟音ヘヴィ・メタル音楽を奏でるバックの楽器隊の演奏に載って、美少女3人が歌い・踊っている、というのではない。
彼女達の身体の動きそのものが「ギリギリ」を体現している、のだ。
つまり、SU-・YUI・MOAの舞踊それ自体がヘヴィ・メタルの体現、としての「演」奏、すなわち、目で見て(も)感じるヘヴィ・メタルなのだ。
これこそが、”メタル・ダンス・ユニット”BABYMETALの本質だ。
彼女達が「METAL」を名に冠していること、そのことに、(俺たちの)METALをアイドルのネタにされた!、と、侮辱されたかのような憤りを感じた方も少なからずいただろうし、今もいるだろう。
しかし、彼女達の「懸命」な(まさに、命を削った)「ギリギリ」のステージを目にすれば、数十年来のメタルヘッズであっても(いや、むしろ、そうであればあるほど)「これは俺たちの愛してきた本物のメタルだ!」と(鳥肌を立てたり、涙を流したりしながら)笑顔でうなずくことになるのだ。
それも、まったく今までに見たことのない、そんなことがありうると想像すらしたことのない、超絶美少女3人の歌・舞踊・合いの手というかたちでのヘヴィ・メタルの体現、が。
そんな、ヘヴィメタル「魂」の唯一無二の権化、それがBABYMETALなのだ。
サーカスの綱渡りや空中ブランコではないが、YUI・MOAの舞踊は、単に高速なダンスという以上に、「極限」を感じさせる「ギリギリ」の動きが満載だ。
例えば(わかりやすい典型例をあげるならば)、
「メギツネ」の扇風機ヘドバン。
「ヘドバン・ギャー!」のジャンプ。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の駄々っ子ヘドバン。
等々。どの楽曲にも、こうした「ギリギリ」のスリリングな動きが蔵されている。
YUI・MOAの「Danscream」のいちばんの機能(目的)が、観客を「煽る」ことにあるとすれば、彼女たちのそうした「ギリギリ」のスリリングな動きはまさに「煽り」だ。
僕たちはそれによって、常に体温があがり、精神的に昂揚した状態でステージに接しているのである。
(そして、恐ろしいことに、彼女たちの超絶美少女ぶりまでもが、「煽り」としてたいへんに機能している。単に可愛い少女たちがメタルを演じているのではなく、可愛いことが先鋭なヘヴィ・メタルとしての「極悪」な機能を果たしているのだ。まさに、なんじゃ、そりゃ?だが、でも、事実そうなのである。とりわけ、最近のMOAMETALの凄さ、には驚嘆させられっ放しである。これについては、近いうちに探究したい。)
ステージの「狭さ」、空間的な「ギリギリ」の話に戻ろう。
武道館の”あの事件”があったにも関わらず、今回の「巨大天下一メタル武道会」のステージには、柵などは見えない。
もちろん、それなりの安全策はとってあったのだろうが、<落ちないように安全にしています>なんていうのを見せるのは、「ギリギリ」感を削ぐ。それが全くない。逆三角形のステージの上で、「ギリギリ」のタイトな動きを「演」じてみせるのだ。
その「ギリギリ」をとりわけ象徴するシーンが、三つ。
オープニングの「BABYMETAL DEATH」での、狂乱。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」での、YUI・MOAバトル。
最後の「Road of Resistance」での、高みでのWOWWOWの指揮、だ。
「BABYMETAL DEATH」
始めはいつものそれ、三人の立ち位置のトライアングルと舞台の三角形がシンクロして、美しささえ感じさせるむしろ静謐さに満ちたパフォーマンスだが、後半、ブレイクダウンの後、三角形の各頂点に3人が位置し、飛び跳ねはじめると、途端に「ギリギリ」感が沸き立つ。
そして、「狂乱」の駆け廻りのシーンになるのだが、武道館やロンドンのそれに比べても、このヒヤヒヤ感は群を抜いている。
最後に「DEATH!DEATH!」と腕を振り上げて観客を煽りながら、ステージの端を歩き回る姿も、まさに、「ギリギリ」感満載である。
ライヴ当日は、Cブロック後方だったからステージが見えなかったし…というのは言い訳で、たとえしっかり見えたとしても、ライヴがはじまったという昂揚感の爆発のためにそんなことは気がつくはずもないのだが、こうして映像化されると何度でも見返すことができ、改めて、このステージのとんでもなさを痛感しているのだ。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」。
この巨大天下一メタル武道会のステージがとてつもなく狭い、と気づいたのが、やはり(このブログ主だからこそ)この曲のあのバトルシーンだった。YUIと同時にMOAが”決め”のポーズをつくるのだが、そこで(フォースの?)力を溜めるような全身の盛りをつくった後、YUIMETALに襲いかかる。
他のヴァージョンならば、MOAMETALが上手に大きくハケて、そこから駆けてきてキック!等でバトルがはじまるのだ。しかし、今回のステージではその助走の距離をとることができない。必然的に、接近戦・肉弾戦の様相を呈する。より精神的な緊迫感のある(まるでコーマック・マッカーシーの小説内でのリアルな「斬り合い」を思わせるような)バトルである。
「Road of Resistance」
両端のYUI・MOAと、舞台中央のSU-が、リフト(?)で高みまで昇り、WOWWOWの合唱を煽るのだが、YUI・MOAの台には支えと転落防止用の鎖があるのが見てとれるが、SU-METALの台にはそうした柵や支えは何もない(ように見える)。
仁王立ち。
「巨大メタル天下一武道会」の謳い文句(冒頭の紙芝居で宣言される)は、
「あの~天下一メタル武道会ファイナル~から再び、己のの限界が試される時が来た。巨大魔法陣によって動き出した時計の針は、もう誰にも止める事は出来ない。すなわち、MCも無ければアンコールも無い。武道会に召喚された瞬間から、既にバトルは始まっているのである。そう破滅へ向かって・・・」
というものだが、
その掉尾を飾る楽曲であり、さらには、BABYMETALという存在そのもののマニフェストとも言うべきこの曲で、はるかな高みにSU-METALが柵なし支えなしですっくと立っている凛とした姿は、まさに「女王」のそれ、である。
これも、単に舞台中央に立つのではなく、ちいさな面積の台座に立ち遙か高みに位置しながら、という「ギリギリ」感が、よりいっそうSU-METALの崇高さ・女王ぶりを高めているように感じるのだ。
(僕もその2万5千分の1だった)大群衆観客の、息のそろった合いの手やモッシュやWODの(埃っぽい)スケール感と、いつものように溌剌と魅力をふりまきながら、とんでもなく汗だくで、とんでもなく狭いステージで歌い踊りまくる3姫の(キラキラの)精妙な「ギリギリ」感との、アンバランスのバランスによって、この「巨大天下一メタル武道会」の映像は、BABYMETALの他のライヴ映像にはない独特の「熱さ」を発している。
(つづく)
あるいは、あの三角形のステージの「鋭角」が、そうした印象を与えるのかも知れない。
『Red Night・Black Night』や『Live in London』と比べて、実際のステージでの「可動域」が狭いということはないのかもしれないが、もうそれ以上先に行けば落ちてしまうという限界線がそこにありありとあることで、「ギリギリ」の緊迫感を感じてしまうのだろうか。
そうした空間的な制限「枠」を設定することで、BABYMETALの3姫の舞踊の緊迫感が増し、観ている僕たちに、「ギリギリ」の、「ストイック」な、「タイト」な、といった印象を与える、ということは、たぶん間違いない。
そして、その印象は、まさしくヘヴィ・メタルがもたらす興奮・緊迫感なのだ。
観ているだけで全身が汗ばむ(目には涙がにじむ)。
そんな反応を起こさせる彼女たちの舞踊は、単に高速・轟音ヘヴィ・メタル音楽を奏でるバックの楽器隊の演奏に載って、美少女3人が歌い・踊っている、というのではない。
彼女達の身体の動きそのものが「ギリギリ」を体現している、のだ。
つまり、SU-・YUI・MOAの舞踊それ自体がヘヴィ・メタルの体現、としての「演」奏、すなわち、目で見て(も)感じるヘヴィ・メタルなのだ。
これこそが、”メタル・ダンス・ユニット”BABYMETALの本質だ。
彼女達が「METAL」を名に冠していること、そのことに、(俺たちの)METALをアイドルのネタにされた!、と、侮辱されたかのような憤りを感じた方も少なからずいただろうし、今もいるだろう。
しかし、彼女達の「懸命」な(まさに、命を削った)「ギリギリ」のステージを目にすれば、数十年来のメタルヘッズであっても(いや、むしろ、そうであればあるほど)「これは俺たちの愛してきた本物のメタルだ!」と(鳥肌を立てたり、涙を流したりしながら)笑顔でうなずくことになるのだ。
それも、まったく今までに見たことのない、そんなことがありうると想像すらしたことのない、超絶美少女3人の歌・舞踊・合いの手というかたちでのヘヴィ・メタルの体現、が。
そんな、ヘヴィメタル「魂」の唯一無二の権化、それがBABYMETALなのだ。
サーカスの綱渡りや空中ブランコではないが、YUI・MOAの舞踊は、単に高速なダンスという以上に、「極限」を感じさせる「ギリギリ」の動きが満載だ。
例えば(わかりやすい典型例をあげるならば)、
「メギツネ」の扇風機ヘドバン。
「ヘドバン・ギャー!」のジャンプ。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」の駄々っ子ヘドバン。
等々。どの楽曲にも、こうした「ギリギリ」のスリリングな動きが蔵されている。
YUI・MOAの「Danscream」のいちばんの機能(目的)が、観客を「煽る」ことにあるとすれば、彼女たちのそうした「ギリギリ」のスリリングな動きはまさに「煽り」だ。
僕たちはそれによって、常に体温があがり、精神的に昂揚した状態でステージに接しているのである。
(そして、恐ろしいことに、彼女たちの超絶美少女ぶりまでもが、「煽り」としてたいへんに機能している。単に可愛い少女たちがメタルを演じているのではなく、可愛いことが先鋭なヘヴィ・メタルとしての「極悪」な機能を果たしているのだ。まさに、なんじゃ、そりゃ?だが、でも、事実そうなのである。とりわけ、最近のMOAMETALの凄さ、には驚嘆させられっ放しである。これについては、近いうちに探究したい。)
ステージの「狭さ」、空間的な「ギリギリ」の話に戻ろう。
武道館の”あの事件”があったにも関わらず、今回の「巨大天下一メタル武道会」のステージには、柵などは見えない。
もちろん、それなりの安全策はとってあったのだろうが、<落ちないように安全にしています>なんていうのを見せるのは、「ギリギリ」感を削ぐ。それが全くない。逆三角形のステージの上で、「ギリギリ」のタイトな動きを「演」じてみせるのだ。
その「ギリギリ」をとりわけ象徴するシーンが、三つ。
オープニングの「BABYMETAL DEATH」での、狂乱。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」での、YUI・MOAバトル。
最後の「Road of Resistance」での、高みでのWOWWOWの指揮、だ。
「BABYMETAL DEATH」
始めはいつものそれ、三人の立ち位置のトライアングルと舞台の三角形がシンクロして、美しささえ感じさせるむしろ静謐さに満ちたパフォーマンスだが、後半、ブレイクダウンの後、三角形の各頂点に3人が位置し、飛び跳ねはじめると、途端に「ギリギリ」感が沸き立つ。
そして、「狂乱」の駆け廻りのシーンになるのだが、武道館やロンドンのそれに比べても、このヒヤヒヤ感は群を抜いている。
最後に「DEATH!DEATH!」と腕を振り上げて観客を煽りながら、ステージの端を歩き回る姿も、まさに、「ギリギリ」感満載である。
ライヴ当日は、Cブロック後方だったからステージが見えなかったし…というのは言い訳で、たとえしっかり見えたとしても、ライヴがはじまったという昂揚感の爆発のためにそんなことは気がつくはずもないのだが、こうして映像化されると何度でも見返すことができ、改めて、このステージのとんでもなさを痛感しているのだ。
「イジメ、ダメ、ゼッタイ」。
この巨大天下一メタル武道会のステージがとてつもなく狭い、と気づいたのが、やはり(このブログ主だからこそ)この曲のあのバトルシーンだった。YUIと同時にMOAが”決め”のポーズをつくるのだが、そこで(フォースの?)力を溜めるような全身の盛りをつくった後、YUIMETALに襲いかかる。
他のヴァージョンならば、MOAMETALが上手に大きくハケて、そこから駆けてきてキック!等でバトルがはじまるのだ。しかし、今回のステージではその助走の距離をとることができない。必然的に、接近戦・肉弾戦の様相を呈する。より精神的な緊迫感のある(まるでコーマック・マッカーシーの小説内でのリアルな「斬り合い」を思わせるような)バトルである。
「Road of Resistance」
両端のYUI・MOAと、舞台中央のSU-が、リフト(?)で高みまで昇り、WOWWOWの合唱を煽るのだが、YUI・MOAの台には支えと転落防止用の鎖があるのが見てとれるが、SU-METALの台にはそうした柵や支えは何もない(ように見える)。
仁王立ち。
「巨大メタル天下一武道会」の謳い文句(冒頭の紙芝居で宣言される)は、
「あの~天下一メタル武道会ファイナル~から再び、己のの限界が試される時が来た。巨大魔法陣によって動き出した時計の針は、もう誰にも止める事は出来ない。すなわち、MCも無ければアンコールも無い。武道会に召喚された瞬間から、既にバトルは始まっているのである。そう破滅へ向かって・・・」
というものだが、
その掉尾を飾る楽曲であり、さらには、BABYMETALという存在そのもののマニフェストとも言うべきこの曲で、はるかな高みにSU-METALが柵なし支えなしですっくと立っている凛とした姿は、まさに「女王」のそれ、である。
これも、単に舞台中央に立つのではなく、ちいさな面積の台座に立ち遙か高みに位置しながら、という「ギリギリ」感が、よりいっそうSU-METALの崇高さ・女王ぶりを高めているように感じるのだ。
(僕もその2万5千分の1だった)大群衆観客の、息のそろった合いの手やモッシュやWODの(埃っぽい)スケール感と、いつものように溌剌と魅力をふりまきながら、とんでもなく汗だくで、とんでもなく狭いステージで歌い踊りまくる3姫の(キラキラの)精妙な「ギリギリ」感との、アンバランスのバランスによって、この「巨大天下一メタル武道会」の映像は、BABYMETALの他のライヴ映像にはない独特の「熱さ」を発している。
(つづく)
しかも2013年卒業間際のラジオで友人に無理矢理ジェットコースターに乗せられて怖かったなどと答えてた子が。
同じラジオでMOAが英語が5⇒4に下がって悔しいと答えてたら私は2だったと言わなくてもいいことをしゃべる、今は海外で英語でインタビューに答えている。
とにかくSUはMIKIKOが言うようにすべてがぶっ飛んでいる特別な子だね。