ケルベロスの基地

三本脚で立つ~思考の経路

BABYMETAL探究(「天才は育てられる」考②)

2016-12-13 23:15:59 | babymetal
さあ、WOWOW「RED NIGHT」放映まで、もうすぐだ。
ひょっとしたら、自分の顔も映っているかもしれない(花道前の最前列だったから)、という気恥ずかしい楽しみもあるが、何より、巨大ステージの全貌を高画質で眺めることができること、これが何とも待ち遠しい。
LVには参加できなかったので、この目で「あの日」の全貌を目撃するのは、初めてなのだ。
ワクワクがとまらないぜ!

またまた、久しぶりのブログ更新になってしまった。

「天才は育てられる」の続きである。

そもそも、BABYMETALの3人は、天才なのか?

SU-METALを「天才」と呼ぶことには、BABYMETAL(のライヴ、あるいは映像作品であっても)を体験された方の多く(ほとんど全員?)が賛同されることだろう。

その歌声やステージ上での凜としたたたずまい・表情等(「天才」ヴォーカリストぶり)に魅了されながら、さらに、そのあまりにも「純」な人柄・魅力的な逸話の数々を知れば知るほど、まさに彼女こそ、日本歌謡界に(初めて)降臨した、その人柄も含めて世界レヴェルの「天才」である、ということを痛感するはずだ。

しかし、どうだろうか?
YUIMETAL、MOAMETALを「天才」と呼ぶのには、かなりのためらいを感じてしまうのが普通ではないか。
さすがに、それは贔屓の引き倒しではないか、と。

確かに、YUIMETALのダンスの正確無比なキレ、MOAMETALの観客を惹き付ける表情や躍動感、それは凄いけれど、それを「天才」と呼ぶのは、やはり盛りすぎだろう、と。
例えば、YUIMETALよりも凄いダンサーなんて、日本国内だけでもごろごろいるじゃないか、と。

いやいや、そうではないのだ。
YUIMETAL、MOAMETALの「天才」ぶりは、それが余りにも唯一無二であるがために、(SU-METALを「天才」ヴォーカリストと呼ぶことへの抵抗のなさに比べて)そう呼びにくいだけである。

メタル・ダンスの天才。
KAWAII-METALの天才。


それは、もう絶対的にこの2人なのだ。
世界の70億人のなかでもこの2人だからこそ可能なのが、あのパフォーマンスだ。
メタル・ダンスの、KAWAII-METALの、嚆矢でありながら最高峰、究極の完成形
人類が想像すらできなかった、圧倒的・悪魔的な最終形態、それが、YUI・MOAなのだ。

YUIMETAL、MOAMETALはYUI・MOAの天才モイモイの天才なのだ。
いや、正しくは、BABYMETALの天才と呼ぶべきなのだろう。

SU-METALの代わりもいないが、それ以上に、YUI・MOAの代わりなど全くいない。 

例えば、WEMBLEYアリーナでのライヴ映像。
どの瞬間でもよいのだが、たとえば「4の歌」の煽り部分「オーバー・ゼア、レッツ・ゴー!」のところだけでも、この世にこんな可愛くてカッコよい多幸感に満ちたものがあろうか、と、観ている僕たちオッサン(ロッカー・メタルヘッズ)を破顔させ、時には(その見たことのない可愛さ/カッコよさによって)落涙させる、なんてとんでもなことを成し遂げる。

そして、『GJ!』。
いまだに、観る度に鳥肌が立つ。
なんだ、これは・・・。

3人での「演」奏が、どの曲のどの瞬間も素晴らしいのは言うまでもないが、

紅月→GJ!
4の歌→蒼星


という組み合わせによる、僕たち視聴者の情動の揺さぶられときたら、他に類をみない。
どんなジャンルのどんな映像作品にもない、唯一無二の至高のものだ。

いや、ほんと。こうやってBABYMETALというかたちで現実に実際に存在し、毎日視聴できるから、「こういうものだ」と思ってしまっているけれど、こんなものは、アニメでもCGを駆使した映画でもありえないレヴェルのもの・あるはずのない質のものなのだ。

美少女のポニーテールやツインテールの黒髪の先の波打ちが・閃きが、激しく美しいヘヴィメタル楽曲の「演」奏としてステージに映える。楽曲の機微を観客に体感として伝える。

こんなことはありえるはずのない事態なのだ。

そんなありえるはずのない事態を実際に具現しているYUI・MOA(もちろんSU-も)を、天才と呼ぶのにためらう必要なんてないのである。
彼女たちこそ、まさに「天才」なのだ。

さて、そこで・・・、である。

そんな悪魔的な可愛いさという天才ぶりをどのライヴでも徹底的に見せつける、YUI・MOAは(水野由結、菊地最愛は)、はじめから「メタル・ダンスの/KAWAII-METALの天才」だったのか、と言えば、そんなことはないし、皆が認めるSU-METALですら(もちろん歌い手としての才能は幼いころからたっぷりあっただろうけれど)今のような圧倒的な「天才」ではありえなかった。

天才は「(時代や土地に)育てられる」。

天才という言葉の定義の問題ではあるが、しかし、それが現実にいる人間のことを指す言葉だとすれば、「環境にまったく関わりなく、天からのみ与えられた才能を一方的に他に対して発揮する」、そんな「天才」などいるはずがない。

こうした知見を実証的に述べているのが、『世界天才紀行』だ。いくつか引こう。

私たちはふつう、天才と聴衆は関係ないと思っている。聴衆というのは、天才が授ける贈り物をうやうやしく受け取るだけの存在にすぎない、と。ところがじつは、彼らにはもっと大きな役割がある。聴衆とは、天才を正しく評価するものであり、イギリスの美術評論家クライヴ・ベルが言うように「高度文明社会に欠かせない特徴とは、想像力ではなく鑑賞力」なのである。その意味で、ウィーンは世界をいろどる最高の高度文明社会だった。

モーツァルトという「天才」が、ウィーンという環境にいたからこそ、その「天才」ぶりを発揮できた、という文脈での一節である。そのいちばんの要因が、レヴェルの高い「聴衆」の存在だった、というのだ。

BABYMETALにおいても「聴衆」がBABYMETALの「天才」ぶりを育んだのだ、なんて言い方をするのは、僕自身もその「聴衆」の一人だから何ともおこがましい限り・僭越の極みなのだが、しかし、BABYMETALがなぜこんなにも凄いBABYMETALになったのか?と言えば、国境を超え言葉の壁を超えて、メタルヘッズたち、ロックファンたちの前でパフォーマンスを見せつづけた、ということが大きく寄与していることは疑いない。

時には(というか、しばしば)たいへんなアウェィの状態(「けっ、アイドルが、日本人の少女たちが、なにしに来たんだ」と斜に構えるメタルヘッズやロックファンのおっさんたち)を前にしながら、そんな観客たちを自分たちのパフォーマンスで、ノセてしまう、ということ。

そうした試練・チャレンジ・戦いの連続が、彼女たちのパフォーマンスをとんでもないレヴェルで高めた、つまり結果として「天才」になるような育みを行ったことは間違いない。

音楽は上流階級だけのたしなみではなかった。ウィーンには音楽愛好家があふれていた。たとえば、数えきれないほどの手回しオルガン奏者が楽器を路上に持ち出し、街の大半の人が楽器を演奏できた。アパートメントが密集した一画では、たがいの音をかき消されないように、住民同士が練習時間を調整したという。

こうした質の高い「聴衆」が、モーツァルトを「天才」にしたのと似た構造を、BABYMETALの場合にもみることができるはずだ。

もちろん、メタルヘッズたちが、音楽的に教養が高いというわけではない。
そうではなく、彼ら(僕ら)の、激しく・強く・速い音楽・演奏・ステージを求める「切望」が、3人を、今あるBABYMETALに高めたのいだ。
これも、確かな「事実」だろう。

モーツァルトはウィーンを愛した、その音楽性だけでなく、懐の深さと、無限に湧くように思われる可能性の大きさに。思うにモーツァルトは、あらゆる面での水準の高さに、とくに心を惹かれたのではないだろうか。フィレンツェと同様に、ウィーンの人たちも芸術にうるさかった。「ごくふつうの素朴な市民でさえ、領主によい暮らしを求めるのと同様に、吹奏楽団に質の高い音楽を求めた」と、シュテファン・ツヴァイクは回顧録で語っている。「つねに忌憚のない注目にさらされているという意識が、ウィーンのあらゆる芸術家に全力を尽くすエネルギーを与えた」のである。音楽家を受け入れたからこそ、この街は彼らの能力を最大限引き出せたにちがいない。

この一節には、今年の米国ツアーでの、MOAMETALの「今日のお客さん、よくわからない」という発言を想起してしまう。
お客さんに向かって全身全霊・全力でパフォーマンスするのだ、とは、ジャンルを問わずステージに立つ人たちの共通の思いだろうが、BABYMETAL、とりわけMOAMETALは、その「お客さんの思いを感じ取る、酌み取る」という志向、能力がとりわけ高い「天才」なのではないか。

YUIMETALと比べても、(特にこのところの)MOAMETALのブルータルでアグレッシヴな舞踊、その荒々しさは、メタルの・ロックの・観客の「お客さんの思いを感じ取る、酌み取る」ことによって育まれたものだろう。(アイドルファンを前に活動を続けてていたら、それはそれでその要求に応える、今のMOAMETALとはまったく別の菊地最愛が今いたはずだ)。

困難は人を強くするだけでなく、創造力をより高めもする。「制約の力」が個人単位で作用するのである。

メタルという縛り”、によって、3人の「天才」がこんなとんでもない高みにまで研ぎ澄まされた。
そのことを考えると、本当に総毛立つ思いだ。
なんて奇跡的な出会い、配置だったのだろう、と。

モーツァルトやベートーヴェンといった作曲家が、この地で才能を開花させたのも不思議ではない。街全体に応援されていたからだ。いや、応援以上のものだった。当時の聴衆は、今夜の聴衆のようにただの観客にとどまらなかった。音楽家を駆りたて、鼓舞し、さらなる高みへ引き上げた。”すぐれた”聴衆は天才とセットなのだ。聴衆に認められなければ、天才はさらに成長しようとする。そして成功したときに得られる、耳の肥えた聴衆の心からの拍手喝采ほど甘美な褒賞はない

願わくは、BABYMETALとライヴ会場の僕たちとの関係もこのようなものでありたいし、僕たちの心からの拍手喝采が、3人にとっての最高の甘美な褒賞であってほしい。
来たるWOWOW放映で、そんな絵を確認することができたら、と思う。
また、このところの立て続けの前座ツアー。
これが、BABYMETALをさらにさらにより大きな「天才」にするための、さらに多様な「お客さんの思いを感じ取る、酌み取る」場になっていることは、疑いようがない。