「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想・「土佐勤王党」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WA

2020-02-22 09:24:30 | 温故知新

「土佐勤王党」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA
土佐勤王党の下士(郷士、足軽等)庄屋(村役人)階層を基盤として結成された尊攘派同盟。文久元年(1861)8月、江戸遊学中の郷士武市瑞山(半平太)らが水戸・薩摩・長州の尊攘志士らと京都に集結を約束、帰郷して190余名の血盟者110余名の支持者を得た。参政吉田東洋は公武合体路線をとり、主張は退けられた。武市らは反吉田の保守的門閥派と結託し1862年4月登用を暗殺し、朝廷から土佐勤王への国事周旋の命をを得、藩主山内豊範を擁して入京、薩長に並ぶ勤王藩の名声を得た。盟主武市は土佐藩勤王派の代表として朝廷政府に影響力を行使、攘夷督促の勅使(三条実美、姉小路公知)に随行し幕府に攘夷実行を迫った。しかし、幕府準顧問の隠居山内容堂は1863年2月に腹心の吉田を殺した勤王党への復讐を開始、八月十八日の政変を機に武市ら幹部は収監、東洋暗殺事件を厳しく糾明、慶応元年(1865年)5月、武市を断罪した。同志多数が迫害を受け脱藩、坂本龍馬も中岡慎太郎が代表となって薩長同盟の周旋するなど幕末動乱期最終局面での重大な運動に尽力し、王政復興の方向性に甚大な影響を与えた。



「歴史の回想・石山合戦」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-02-22 07:57:38 | 温故知新

「歴史の回想・石山合戦」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
石山合戦は本願寺に率いられた諸国の門徒が織田信長と対決して、1570年(元亀元年)~1580年(天正8年)まで行った戦い。一向一揆の一つ。石山は当時大坂にあった本願寺の、寺地所在地の地名と伝承されている。本願寺が足利義昭・信長の新政権を警戒し、教団を護るため、信長と対立する諸勢力と結んだことが合戦の大きな原因である。戦いは第一期から四期まで区分ができる。①1570年の戦いで、旧将軍足利栄を擁立した三好三人衆の一派に本願寺が味方した戦い。足利義昭を擁して入京した織田信長に追われる三好三人衆は義栄死去後も、六角・朝倉と結んで義昭政権に抵抗を続け、野田・福島に進出した。これを撃破すべく出陣をした義昭・信長の軍勢に対して本願寺は挙兵した。これとともに浅井・朝倉勢が比叡山と結んで京都をうかがい、近江織田勢を攻撃の、信長は苦境に陥り、義昭の斡旋により浅井・朝倉と和睦した。②1571年(元亀2年)~1573年(天正元年)まで。和睦は破れ、信長は浅井・朝倉と抗争を再開。近江門徒は浅井・六角を支え、越前門徒は朝倉を支えて戦った。やがて義昭は信長と対立、義昭は武田信玄を味方につけて信長の同盟を断行し蜂起した。しかし信長の攻撃に屈して和睦。義昭は信玄の病死後再び放棄するもはブレ、京都を追われた。浅井・朝倉も相次いで滅ぼされ、本願寺は信長に和睦を請い承認された。③1574年~1575年まで。義昭は京都を追われた後も幕府を再興を意図して抵抗をし続け、本願寺はこれにこたえて蜂起、また朝倉滅亡後織田方の支配する越前門徒が蜂起し、一国を制圧。信長は軍勢を大坂にはけんして本願寺を攻撃する一方、自ら門徒の拠点伊勢中島を攻撃し、立てこもる門徒を大虐殺し手一揆を壊滅させた。さらに翌年越前に大軍で攻め込み、一揆勢を全滅させた。本願寺は和睦請い、信長も承認した。
④最後は1576~1580年まで、毛利氏に扶助された義昭は、諸国の大名に幕府再興を呼びかけた。毛利・上杉・武田が呼応して籠城し、諸国の門徒が兵士を送ったり、武器・金銭・兵糧を送るなど戦いを支えた。信長は軍勢を大坂に派遣、5年にわたる石山籠城戦始まった。しかし上杉謙信の死去や、当初優勢だった毛利の水軍の敗北などもあり、本願寺をめぐる戦況は悪化した。この状況のなかで信長は天皇に本願寺と和睦を願い出、天皇の斡旋によって本願寺顕如は信長に寺地を引き渡して1580年4月に退去した。これに反対した顕如の嫡子教如は義昭と結び抵抗を続行しようとしたがならず、4か月後8月に大坂の寺地を退去した。この戦いの結果、織田政権と本願寺教団とが強固になり、以後豊臣政権になっても関係は引き継がれた。







歴史の回想・「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-02-22 07:03:22 | 温故知新

「毛利氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
戦国時代に中国地方の覇者に、その名を馳せた毛利氏(もうりし)は、日本の武家の氏族で、本姓は大江氏。鎌倉幕府政所別当大江広元の四男・毛利季光を祖とする一族、したがって大江広元の子孫ではあるが、嫡流ではない。
名字の「毛利」は、季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の神奈川県厚木市毛利台の周辺)を本貫としたことによる。
その系譜は、鎌倉時代末期に、越後国刈羽郡(旧称:三島郡)佐橋庄(さはしのしょう)南条(みなみじょう)の南條館を領した毛利経光は、四男の時親に安芸国高田郡吉田荘(よしだのしょう) 高田郡吉田村吉田、現・広島県安芸高田市吉田町吉田)を分与し分家を立てる。
時親の子・貞親、孫の親衡は越後に留まり安芸の所領は間接統治という形をとったが、南北朝時代に時親の曽孫・元春は安芸に下向し、吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)において領地を直接統治するようになる。
吉田荘に移った毛利氏は、室町時代に安芸国の有力な国人領主として成長し、山名氏および大内氏の家臣として栄えた。
戦国時代、毛利元就が世に出ると一代で国人領主から、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には山陽道・山陰道10か国と九州北部の一部を領国に置く最大級の戦国大名に成長した。
元就の死後、孫の毛利輝元は将軍・足利義昭を庇護し、織田信長と激しく争ったが、のちに豊臣秀吉に従属して、安芸ほか8か国を安堵された。また、本拠を吉田郡山城からより地の利の良い広島城に移す。
しかし、慶長5年(1600)、輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったことで、敗戦後に毛利氏は周防国・長門国の2か国に減封される。
江戸時代には、萩に居城を新たに築城し、長州藩(萩藩)になり、外様大名ながら国主(国持ち)大名として官位や江戸城の席次などで幕府から厚遇を得た。
江戸時代末期には、藩主毛利敬親の改革が功奏し長州藩から数々の志士が現れ、明治維新を成就させる原動力となった。明治維新後は公爵、貴族院議員などを輩出している。




「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK」

2020-02-22 06:56:26 | 温故知新


「歴史の回想・嘉吉の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK」
室町時代6代将軍「足利義教」が赤松満祐の自邸に招かれて暗殺した事件。義教は鎌倉公方足利持氏や、一色義貫、土岐持頼らの有力守護大名を圧迫する専制政治を続けるとともに山名氏、斯波氏、京極氏らの相続問題にも積極的に干渉したり、比叡山に対して弾圧を加えた。「万人恐怖」と言われた義教のこの政策は、四職家の一つ赤松氏についても例外でなく、領国の播磨・美作2か国没収の噂が流れ、実際に満祐は、機先を制して1441年(嘉吉元年)6月24日、結城合戦祝いと称して義教を自邸に招いて謀殺した。同席した管領は細川持之、斯波義康らは逃走したが、山名煕貴、京極高数、大内持世らがその場で殺された。事件後、赤松追討軍がなかなか派遣されず、満祐は自宅に火を放ち、一族を率いて領国播磨に引き上げた。その後、7月に至って、大手に細川持常、赤松貞村、武田国信、搦め手に山名持豊と一族を配した幕府追討軍が派遣された。山名軍の攻撃により9月10日に自害、子の教康は伊勢で殺害された。赤松氏の領国は播磨を山名持豊、備前・美作両国もそれぞれ山名一族に与えらえ、赤松氏は一時没落し、代わり山名氏の勢力が増大した。この政治的混乱期をついて機内に大規模など一揆が起こり、「嘉吉の土一揆」が起こり室町幕府の解体の遠因になった。