「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「尼将軍・北条政子の群像」ウーグル・楽天・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」

2020-02-10 07:02:17 | 温故知新

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北条政子(1157年~1225年)北条時政の女。源頼朝の正室。頼家、実朝、大姫、乙姫の母。尼子台所、禅定三品、二品禅尼などと呼ばれている。21歳の時、伊豆配流中であった31歳の源頼朝と婚姻、この頃劇的な恋のさまは、後の白拍子静御前の舞を見たとき、自分も父の反対を押し切って闇夜、深雨をものともせずに頼朝と結ばれた回想が述べられている。1180年(治承4)頼朝の挙兵の2か月後鎌倉に入り、1182年(寿永元)頼家、1192年(建久3)実朝を生ん。御台所時代には、頼朝の留守中の家を守る役割を果たし、将軍頼朝と御台所による種軍家を形づくることに成功した。1199(世治元)寄りとが死ぬと出家し。頼家・実朝が将軍時代にも、氣比氏の乱、牧氏の変などを重要な裁決を行い、内乱を未然に防ぐことが数度に及んだ。その過程で政子で政子が重視したのが、将軍職独裁ではなく、重臣の合議制を拠りつつ政治の採決を重事似ついてい行っている。実朝が頼家の遺小公暁に殺され、源家の嫡子断絶という事態を抑えつつ、ついで承久の乱が起こるに及んで、幕府危機存亡の時に招来された。このことき政子は御家人たちを頼朝遺体の御恩を大きさを解く演説をなし、御家人たちの心を一つにまとめ、派遣軍の進め方について裁可した。実朝死後、、政子は関東の棟梁として位置にあった。乱後の論功行賞も政子が行った。ついで幕府の基礎の形づくった新補地頭の設置と、その制度の基礎固めに努めた。1224年(元仁元)政子を支えてきた弟北条義時の死後、義時の後室、伊賀朝光の娘の女の兄伊賀光宗らが幕府の実権を握ろうとした伊賀氏の変をも処理し終えて、1225年(嘉禄元)7月、69歳の生涯を閉じた。