「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「歴史の回想・承久の乱」グーグル・楽天・電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」

2020-02-12 06:13:54 | 温故知新

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承久の乱・1221年(承久3年)後鳥羽上皇が討幕を図った挙兵した事件。鎌倉幕府成立によって勢力範囲内が狭めらえていた朝廷で王権の優位を唱える後鳥羽上皇が、幕府の内紛をついて滅ぼそうとしたもので、直接の前提は前々年正月の将軍源実朝の暗殺にある。暗殺の数年前には、実朝の後継者として上皇の皇子をを関東に下す約束が、上皇の側近卿二位藤原兼子と実朝の生母北条政子との間で合意されていた。実朝は後鳥羽上皇に恭順な態度で一貫して保持し来ており、後鳥羽上皇の近習の源仲章侍読として側近に加えていた。実朝を受け皿にして皇子を将軍となし、幕府の服属させていくのが後鳥羽の考え方得た方向であったろう。しかし実朝の死によって目論見が崩れたことから、上皇は幕府からの皇子の下向の要請を断り、さらに寵愛する白拍子亀菊の所領である摂津長江・倉橋荘地頭を改めるように幕府に求めて様子をうかがっていた。しかし幕府はこの要求を拒み、結局、九条家から幼少の三寅を将軍候補に迎えることになった。この時点で上皇は実力で幕府を倒す決意を固めたと考えられる。場k府は北条氏勢力の巨大化につれて、反北条勢力の台頭しつつあったこと、西国を中心に朝廷の勢力が回復してきたこと、多くの西国の守護や御家人の挙兵への協力を求めたことなどが、討幕の確信をたかめた。1221年4がつ、順徳天皇即位させ、仲恭天皇を即位させた鳥羽上皇は、天皇の代替わりを理由に5月14日に鳥羽の城南宮寺の流鏑馬揃えと称し兵を集め、翌日執権北条義時に追討の宣旨が発するとともに、誘い込んだ京都守護の伊賀光季を討った。北条政子は御家人を結束を訴えるとともに遠江・信濃以東の東国の武士に檄を発した。北条泰時・時房の率いる東海道10万騎、東山道5万騎、北陸道4万騎の大軍が京に向けて進軍した報せを入った時点で、上皇側の敗北は明らかであった。上洛を阻止するために軍勢を美濃に派遣したが防戦むなしく、京方逃げ戻った。上皇は武装して比叡山に上ったものの、支援を断られ、氏川の防衛線も突破され降伏した。幕府は、後鳥羽、順徳と土御門の3上皇を隠岐に・佐渡・土佐に流すことを決定。仲恭天皇を廃して後鳥羽の兄守貞親王を上皇に据えて、その子後堀河を即位させて朝廷の体制を一新し、京都に六波羅探題の監視下に置いた。乱の首謀者とみられる藤原光親らは関東に護送される途中で斬られた。