「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想「後白河院政の攻防」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 19:26:32 | 温故知新


「後白河院政の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。


「歴史の回想・土岐氏一族の群像」グーグル・アマゾン・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 15:54:05 | 温故知新

「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。


歴史の回想・「小田原征伐の攻防」グーグル・電子書籍紹介。アマゾン・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 14:49:21 | 温故知新


「小田原征伐の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。
 後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。
「小田原征伐」は、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させた戦い。後北条(ごほうじょう)氏は戦国時代の風雲に乗じた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲(そううん))を祖とし、5代にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であったが、中央の政治情勢の推移から独立し東国を抑えていた。
しかも、250万石の石高を有する大大名であった。秀吉の上洛を応じず関八州の支配を主張した。
 すでに九州を平定して全国統一に乗り出した秀吉はしばしばその上洛(じょうらく)を促したが、氏政らは肯(がえん)じなかった。
 上州(群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう)の帰属をめぐって真田(さなだ)氏と対立した氏直が出兵したことを機として、秀吉は前年1589年末に天下に北条討伐を命じ、西国の大名や水軍をも動員し、先鋒(せんぽう)には徳川家康をあてて東海道、東山道から進攻させ、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻(いわつき)、鉢形(はちがた)、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)などの支城を包囲、攻撃させた。
 秀吉は、1590年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え、籠城(ろうじょう)策をとる北条方を陸海から包囲して武威を示した。
 3月末から約100日に及ぶ攻撃のため、北条軍の士気は阻喪し、とくに重臣松田憲秀(まつだのりひで)らの内応もあったため、6月末についに北条氏政以下が降伏した。
 秀吉は、氏政と弟氏照(うじてる)を自決させ、当主氏直を許して高野山(こうやさん)に追放、松田憲秀、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の重臣を斬(き)った。
 また戦後、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。この戦陣中、伊達政宗(だてまさむね)も秀吉に来応して屈服、この戦(いくさ)によって天下統一が完成した


歴史の回想・「山名氏一族の群像」グーグル・楽天・アマゾン・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 12:02:15 | 温故知新


「山名氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
南北朝から室町時代の武家。清和源氏。新田義重の子義範が上野国山名郷に住したことに始まる。室町時代は侍所所司を出す家格(四職)となった。山名時氏のとき、丹波・丹後・因幡・伯耆・美作の五カ国の守護職を幕府に認められたからは、幕府における地位が上昇、山名氏一族の領国は一二カ国(山城の守護職を含む)にのぼり、日本六十六州の六分の一を占めることから「六分の一殿」と呼ばれた。山名氏の勢力に危惧を抱く将軍足利義満は明徳元年(1390)一族の名有分に介入、翌年、明徳の乱にかくだいした。乱により山名氏清らが敗死し、山名一族の領国は但馬。伯耆・因幡の三カ国のみとなった。応永六年1399)の応永の乱で大内義弘が滅ぼされると、安芸国に満氏が守護として入部する。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱に際して、山名宗全(持豊)が赤松満祐追討の功により、赤松領国にすると訴台に勢力を回復し、細川氏と並ぶ守護大名になった。応仁。文明の乱では持豊は西軍の主将になる。この乱以降、戦国時代を通じて山名氏は後退していった。天正八年(1580)に但馬の出石城を豊臣秀吉に攻めらえて、山名氏の宗家は滅亡した。しかし,庶家の山名豊国が徳川家康から但馬七味郡に6700石知行を与えらえ、以降幕末に至る。





歴史の回想・「戦国大名・敗将の有終」アマゾン・グーグル・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 11:59:55 | 温故知新

「戦国大名・敗将の有終」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

飛鳥奈良時代から四〇〇年間も長期にわたって平穏な時代から、武家天下への鎌倉時代の百四十年余りを経て、再び京都の室町幕府の二百四十年から江戸時代の天下泰平の江戸時代までの間に、安土桃山時代の前に、日本史上に例を見なかった下剋上の親、主君を斬殺する逆罪・裏切り・騙し討ち・兵糧攻めと農民を含め全員を焼き殺しや日干し攻めなど一般の農民も交えた皆殺し・容赦ない卑怯な戦法がまかり通るのが戦国時代であった。華々しく天下取りの戦国武士は野山を駆け抜け、大きく時代を変えて、秩序を踏みにじって天下取りに血道を上げて京都を中心に諸国を駆け巡った。勝者と敗者の勝敗をかける明け暮れに、勝者の大名は後世にその名を残し、その雄姿を日本史上に標榜を立てた。だが、戦国大名の敗将を語られることは少ない。僅かの隙を突かれて、運悪く散った武将、敗将の要因は様々、運も家臣も天候にさえ見離されて野山に朽ち果てた武将も少なくない。ここに、勝者に焦点を合わせるのではなく、敗将にも焦点を当てることによって戦国時代の非情さを描いてみた。


歴史の回想・「小笠原一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 09:27:44 | 温故知新

「小笠原一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
中世信濃の武家。甲斐源治加賀美遠光の次男長清が、甲斐国巨摩にすんだのに始まる。長清は父と共に源頼朝に従い軍功を挙げたのが始まりと言う。信濃国伴野荘を得、阿波の守護になった。守護職は孫の長房の子孫に伝えられ、阿波に勢力を持った。長清の子孫長経は将軍源頼家の近臣として企比氏の乱に連座し北条氏に疎んじられた。小笠原貞宗は足利尊氏に仕えて信濃守護となった。彼は弓馬の儀礼の儀礼典故に通じ、後醍醐天皇の師として「神伝糾法修身論」を著して武家礼法として有名な小笠原流の中興の祖となった。信濃の小笠原氏は相続争いが原因で起こった嘉吉の内訌で1446年を契機に松尾と府中に分かれた。松尾小笠原氏信嶺の時武田信玄に属し、近世は大名となり、元禄4年(1691)以降は越前国勝山にうぃ領した。府中小笠原信玄に敗れて長時の代に信濃を去った。長時の子の貞慶は天正10年(1582)に府中を回復したが、1590年に秀政は下総国古河に封ぜられ、のちに信濃国飯田に移封された。大坂の陣で秀政父子は戦死すると、次男が忠真に播磨国・明石10万石、更に寛永9年(1632)豊前国小倉15万石に転じて幕末まで続いた。秀政の三男忠知は1632年豊後杵築4万石にのちに、三河吉田45000石、子孫は武蔵国岩槻、遠江掛川、陸奥棚倉の転封、文化14年(1817)長昌の時に肥前唐津6万石になり幕末まで続いた。



歴史の回想・「幕藩禍根の清算」グーグル・アマゾン・楽天・角川・電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 09:22:37 | 温故知新


「幕藩禍根の清算」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
江戸時代に美濃国郡上藩で発生した大規模な郡上一揆と石徹白騒動である。
 郡上藩は延宝年間に年貢の引き上げから、藩内部で藩政の方針に対立が生じ一揆が発生した。 郡上藩主金森氏は改易され、老中、若年寄といった幕閣中枢部の失脚という異例の事態を招いた宝暦騒動(ほうれきそうどう)を言う。
 郡上一揆の発端は、年貢徴収法で定免法から検見法(けんみほう)に改められ、更に農民らが新田開発していた切添田畑を洗い出して課税を行うものであった。
 従来の年貢徴収法は、年毎に収穫を見てその課税の量を決めるものから、定免法では、過去五年間、一〇軒の収穫高の平均から年貢率を定めるもので、享保の改革で導入されたものである。 郡上藩の財政も苦しく財政難に陥っていた。財政難に解消に、一揆が生きる前から徐々に賦課が増大していった。
一揆は当初は豪農層や庄屋などの富農民や、郡上で比較的豊かな農民が主導で起こった。郡上八幡中心より長良川の下流域の村々が一揆を主導していた。郡上藩は激しい農民らの激しい抵抗に藩側は、一旦検見法採用を取り下げた。
 ところが藩主金森頼錦(かねもりよりかね)の縁戚関係からの支援を得て、幕領である美濃郡の代官から改めて郡上藩の検見法の採用を持ち出し、一揆が再燃した。
 しかし藩側の激しい弾圧や懐柔などで庄屋など豊かな農民層から一揆のから脱落者が続出した。その後は中農、貧農層が一揆運動の主体となり、一揆勢は藩主への請願を行い、更に藩主の弟に取り成しを依頼するが、藩側は一揆農民の切り崩し図り、弱体化した一揆側に、強硬な弾圧がなされた。
 郡内では、寝者と呼ばれ、一揆を止めて藩側の言う事聞き、立者といった一揆強硬派が情勢困難の中、老中への駕籠訴を決行するに至った。
 老中への駕籠訴が受理されたことによって、郡上一揆は幕府の法廷で審議されることになった。一揆勢は再び勢いを盛り返した。
 一揆の団結と連帯化を示すために「傘連判状」が各村々の決起する農民らの連判状が作られていった。
 しかし当初は進めらえていた審議中断し、問題は解決の方法を見いだせないまま長期化した。そのような中、一揆勢は組織を固めて、犯の弾圧を避けるために郡上以外に関にに拠点を設け、闘争用費用を地域ごとに分担して献金していった。
 献金によって賄う制度を作り上げるなど、優れた組織に構築していった。郡上一揆と同時期に郡上藩の領地である越前国大野石徹白で、野心家の神主の石徹白豊前が郡上藩役人と結託して石徹白の支配権を確立しようとしたことが主因である石徹白騒動が発生し、郡上藩政は大混乱に陥った。
 最終的に郡上一揆と石徹白騒動は共に目安箱への箱訴が行われ、時の将軍徳川家重が 幕府中枢部関与の疑いを抱いて、老中の指揮下、寺社奉行を筆頭とする五名の御前議懸かりりによって幕府評定所で裁可が下された。
 裁可の結果、郡上一揆の首謀者とされた農民から厳罰が下されが、一方領主であった郡上藩主の金森頼錦は改易となり、幕府高官であたt老中、若年寄り、大目付、勘定奉行らが免職となった。
 江戸時代を通じて百姓一揆の結果、他に類を見ない領主、幕府高官らの大量処罰は行われた例はない。 また将軍家の意を受けて郡上宝暦騒動の活躍した田沼意次が台頭する要因となり、年貢増収により幕府財政の健全化を図ろうとする勢力が後退し、商業資本の利益への課税が推進されるようになった。


歴史の回想・「佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 08:08:43 | 温故知新

「佐竹氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
中・近世の武家。新羅三郎源光が常陸介となり下向、子の義業が久慈東部佐竹郷を領し、その子佐竹昌義が吉田清幹の娘と結婚して土着、常陸国那珂川以北の奥七郡を支配し、佐多氏を名乗る。治承4年(1151~1226)佐竹秀義は平氏に属し源頼朝に敵対、金砂山(茨城県久慈郡金砂)で攻防戦展開するが敗れて所領の大半を失う。その後、奥州合戦、承久の乱で戦功をあげて所領の一部を回復し、獲得した。足利氏、二階堂氏らと婚姻を通じて勢力を回復の基礎を固め、南北朝内乱では佐竹貞義(1287~1352)・義篤(1311~1362)父子が足利氏に属して南朝側と戦い、常陸守護に任じられ、多くの一族を分立させた。しかし一族中の最も有力な山入氏は、鎌倉公方と親しい惣領家に対し、将軍方に属して対立、15世紀末には佐竹義舜(1470~1517)を追って太田城を占拠した。間もなく義舜は岩城氏の支援を得て太田城を奪回し、その子佐竹義篤(1507~1545)は弟佐竹義元(?~1540)を排して白河に進出した。義昭・義重父子は常陸、下野東部、陸奥南部に跨る分国を形成、豊臣秀吉から54万石余りの知行を認められた。関ケ原の戦いで佐竹義宜が石田方に属し、出羽国秋田20万石に減封されたが、大坂の陣で戦功をあげて秋田藩主として一四代にわたっ。三代義処は弟義長に2万国を分与し、秋田新田藩(岩崎藩)が成立。戊辰戦争では政府側に味方して本藩の12代藩主佐竹義堯が従三位・参議、秋田県知事に任じられた。


歴史の回想・「南都・北嶺の僧兵の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 08:04:15 | 温故知新


「南都・北嶺の僧兵の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
平城京から平安京に遷都され、仏教の朝廷への影響が一挙に比叡山の天台系に主導権が移って行き、宮中の御斎会は仏事の覇権争いが日々激しくなっていき、武力を持って自分たちの言い分を押し通すために朝廷に押しかけていった。
 興福寺は藤原氏の氏寺として権力を行使、春日社の神木を持って京都に狼藉を働いた。
 それを屈し、南都の言い分を聞き入れた朝廷に、比叡山延暦寺側は大挙僧兵が日吉神社の神輿を持って京都に押しかけ、神々の威光を持って朝廷の大臣や上皇に強訴を繰り返した。
 有力寺院は財力的にも力をつけ、武力もそれぞれの寺院に僧兵を南都の興福寺・比叡山延暦寺も常時三千人を下らなかったと言われている。 武力すなわち朝廷への発言力となり、興福寺の春日社の神木や、延暦寺の日吉社の神輿で都に押しかけて狼藉を働いた。
 京都の役人や公家は神の威光の神罰を恐れて手出しができず、僧兵の強訴拡大に拍車をかけていった。
 ところが、北嶺の比叡山にも内紛が勃発、円仁派と円珍派に分裂し、円珍派は坂本の園城寺を拠点に寺門派を形成し、僧兵を持っての焼討の応酬を重ねた。
 一方、南都では興福寺と東大寺が双方僧兵を持って南都の主導権廻り僧兵の攻撃の応酬が繰り返され、複雑に南都六宗は荘園と僧兵の武力をもって戦いが続き、多武峰の拠点を持つ談山神社の僧兵は比叡山延暦寺派に組み込まれ、中国地方の大山寺まで強大な僧兵を持つ勢力へと成長していった。


歴史の回想・「三好一族の攻防」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WAL」

2020-02-28 06:42:22 | 温故知新

「三好一族の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
下剋上の風雲児三好長慶が京都を支配し、一時期政権を掌握した。父の主人細川晴元と対立したが和解して晴元と戦ったが、叔父政長と対立を機に、晴元と決裂し戦う、晴元と傀儡将軍足利義輝は敗れ京都を離脱、細川氏綱を擁して上洛、京都を支配した。摂津国芥川城を本拠に政権絶叫期を迎えるが、一族の相次ぐ戦死に自身も河内国飯森山で病死した。後を引き継いだ三好三人衆が長慶の家臣松永久秀と畿内で抗争し、一向宗らと連携したが、内紛化や信長の台頭に弱体化し離合集散を繰り返し、歴史の舞台消えていった。


歴史の回想・「日本神道の神々」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・角川・BOOK★WALKER

2020-02-28 06:22:18 | 温故知新

「日本神道の神々」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

日本の神道は仏教や儒教の伝来前には古神道が存在し、純神道、原始神道、神祇信仰は自然崇拝、物体、磐座や洞穴や奇岩、巨木に巨大岩石に峻険な峰々に精霊を感じ信仰されていった。また大自然の海や川、山岳に畏敬の念をもって祀られていた。それぞれの地域に集団で氏族が形成され、一族の崇敬する祭神が氏族の団結を高めていき、古神道が生まれていった。『記紀』が成立し、神話の世界から天地創造の神々が生まれ、いち早く地方へと神々の伝播されていった。仏教伝来と同時に、時代を経て融和、同化していった。それが「神仏習合であった。千年以上も神仏習合の歴史文化が明治維新の神仏分離令を持って、分別されていった。今や神社数、仏教寺院数はほぼ同じ勢力を持って棲み分け作って共存している。再び過去の日本神道は振り返って神道はどう進化と変化をしてきたか検証して見た。