「尼将軍・北条政子の群像」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
北条政子(1157年~1225年)北条時政の女。源頼朝の正室。頼家、実朝、大姫、乙姫の母。尼子台所、禅定三品、二品禅尼などと呼ばれている。21歳の時、伊豆配流中であった31歳の源頼朝と婚姻、この頃劇的な恋のさまは、後の白拍子静御前の舞を見たとき、自分も父の反対を押し切って闇夜、深雨をものともせずに頼朝と結ばれた回想が述べられている。1180年(治承4)頼朝の挙兵の2か月後鎌倉に入り、1182年(寿永元)頼家、1192年(建久3)実朝を生ん。御台所時代には、頼朝の留守中の家を守る役割を果たし、将軍頼朝と御台所による種軍家を形づくることに成功した。1199(世治元)寄りとが死ぬと出家し。頼家・実朝が将軍時代にも、氣比氏の乱、牧氏の変などを重要な裁決を行い、内乱を未然に防ぐことが数度に及んだ。その過程で政子で政子が重視したのが、将軍職独裁ではなく、重臣の合議制を拠りつつ政治の採決を重事似ついてい行っている。実朝が頼家の遺小公暁に殺され、源家の嫡子断絶という事態を抑えつつ、ついで承久の乱が起こるに及んで、幕府危機存亡の時に招来された。このことき政子は御家人たちを頼朝遺体の御恩を大きさを解く演説をなし、御家人たちの心を一つにまとめ、派遣軍の進め方について裁可した。実朝死後、、政子は関東の棟梁として位置にあった。乱後の論功行賞も政子が行った。ついで幕府の基礎の形づくった新補地頭の設置と、その制度の基礎固めに努めた。1224年(元仁元)政子を支えてきた弟北条義時の死後、義時の後室、伊賀朝光の娘の女の兄伊賀光宗らが幕府の実権を握ろうとした伊賀氏の変をも処理し終えて、1225年(嘉禄元)7月、69歳の生涯を閉じた。
「歴史の回想・以仁王の挙兵」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
以仁王(1151年~1180年)後白河天皇の第三皇子。兄の守覚が早く出家したため、普通は第二皇子とされる。母は権大納言藤原季成の女成子。三条高倉に邸宅があったために、三条高倉とも呼ばれた。幼少時、天台座主最雲の弟子となるが、師の没後の1165年(永万元)元服。鳥羽上皇の皇女八条院の猶子となる。英才の誉れが高かったが、異母弟憲仁の母憲春門院平慈子の妨害で、親王宣下さえ受けれなかった。1179年(治承3)の平氏のクーデターで後白河院が幽閉されると、王も最雲から譲られた多年知行していた常興寺領を奪われた。よく1180年4月源頼政を誘って平氏打倒の兵を挙げ、同時に全国に平氏討伐の令旨を7発した。挙兵は事前に漏れて、園城寺から南都に向かって敗走途中の5月26日、光明山鳥居前で戦死した。挙兵は失敗であったが、令旨は大いに広まり、その後の内乱を引き起こすきっかけとなった。源頼朝によって、その生存説意図的に流された。