「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

「武田勝頼の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER電子書」

2020-02-21 16:45:31 | 温故知新


「武田勝頼の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER電子書」

武田勝頼(1546)年~1582年)甲斐・信濃・駿河の戦国大名。武田信玄の四男として生まれる。幼名は伊奈四郎。母は諏訪頼重の女。信玄は当初勝頼に諏訪惣領家を継がせようと思っていた。「甲陽軍鑑」によれば、1562年(永禄5)勝頼を伊奈郡代・高遠城主としている。のち兄義信の幽閉・自刃によって、信玄後継者として遇され、信長の養女と結婚、1571年(元亀2)には高遠から甲府に戻り、1571年(天正元)の信玄の死によって家督を継いだ。しかしその後織田信長・徳川家康と対立、1575年の三河長篠の戦いで大敗を喫しした後は次第に領国を縮小させていった。1582年、離反した木曾義昌救援に赴いた信長勢に攻められて、天目山麓の田野で、妻(北条氏康の女)とともに自害し、武田氏は滅亡した。

「長宗我部元親の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER電子書」

2020-02-21 16:39:30 | 温故知新
「長宗我部元親の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川BOOK★WALKER電子書」
「長宗我部元親」(1538年~1599年)四国の戦国大名。長宗我部氏。1560年(永禄3)父国親の死後に家督を継ぐ。長岡郡岡豊上に本拠を置く、土佐東部の安芸氏や西部の一条氏ら諸氏を相次いで撃破して、1575年(天正3)に土佐統一を成し遂げた。さらに阿波・讃岐の制圧うを果たし、伊予の東部・南部にも勢力を伸ばしたが、1585年に豊臣秀吉が四国平定に乗り出すと、講和を結んで、土佐一国の領有を認められた。こののち元親は、豊臣政権下で九州平定、小田原攻め、文禄・慶長の役と転戦を続けた。元親は内政にも力を注ぎ、各種の法令を制定したが、とくに広く領民まで対象にそれらを集大成した「長宗我部百か条」は分国法として有名である。また、太閤検地の一環として土佐全土の検地を実施し、368冊に及ぶ「長宗我部地検帳」を残した。1599年(慶長4)5月に伏見で死去し、遺骨は土佐に送られて長浜で葬られた。



歴史の回想・「松永久秀の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALK

2020-02-21 11:03:30 | 温故知新


「松永久秀の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALK
松永久秀(1510年~1577年)戦国時代・安土桃山時代の武将。弾正忠。山城守。出身地につては阿波、山城、摂津など諸説がある。三好長慶の家臣で、はじめ摂津滝山城(神戸市)の城主として、摂津西半国から播磨東端で活動する。1559年(永禄2)には大和信貴山城に入り、大和国を勢力下に入れた。1560年には多聞山城を築城。長慶没後は三好三人衆と協力して、1565年に将軍足利義輝を暗殺。長慶の死後は三好三人衆と時には協力し時には争うなど離合集散を繰り返し、畿内の混乱する情勢の中心人物の一人となった。織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、一度は降伏してその家臣となる。やがて三人衆との戦闘で奈良東大寺の大仏殿を焼失させた。1568年の織田信長上洛にあたっていつ早く信長方に帰参し、大和支配を認められた。1571年(天正5)再び信長に背いたが赦免され、1577年(天正5)再び信長に反旗を翻して信貴山城の籠城するものの敗北。10月10日、名器茶釜「平蜘蛛」ともに焼死した。


「歴史の回想・観応の擾乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」

2020-02-21 06:33:33 | 温故知新

「歴史の回想・観応の擾乱」アマゾン電子書籍紹介。BOOK★WALKER電子書」
「観応の擾乱は、南北朝の内乱の際、1349年(貞和2・正平4)から1352年(文和元年)にかけて起こった室町幕府中枢部の分裂と、それによる惹き起こされた全国的争乱。室町幕府の将軍権力は、主従制的支配権を持つ足利尊氏と統治権支配権を有する弟の足利直義によって分権的に担われていた。しかし内乱の過程において、尊氏の執事高師直が機内近国の悪党的在地武士たちを掌握して勢力を伸長させると、幕府政治の主導権をめぐって、師直派と、鎌倉以来の有力御家人を基盤とする直義派権力間で熾烈な闘争が繰り広げられた。一方、吉野の南朝は、幕府の内訌を見逃さず1347年8月に、各地に南朝軍に蜂起を命令した。南朝軍と幕府軍とは、機内各地で合戦を展開したが、直義派の細川顕氏、山名時氏の軍勢は完敗して京都へと逃げ帰った。意気上がる南朝軍は楠正行を大将に北進を続けた。12月、幕府の危機を救うために高師直の軍勢を投入させた。南北両軍は翌年1月四条畷で激突、師直軍はこの合戦で正行軍を壊滅させるや、直ちに吉野に侵入し行宮をはじめ蔵王堂以下の諸寺社を焼き払った。吉野攻略の成功によって幕府内における師直の声望が高まった。この状況を危機感を深めて直義は1349年6月、師直の室辞職罷免を尊氏に強請した。師直はこれに屈することなく、同年8月には自派を京都に結集、直義の所に逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、逆に直義の政務を取り上げ、鎌倉から足利義詮を上洛させて政務につかせるように要求した。尊氏は、紛争を早急に解決しょうと、直義派の武将上杉重能、畠山直宗を越前に流刑、のちに殺害した。1350年(観応元年・正平5年)になると直義派の武将たちが各地で蜂起し、同年10月に、直義は京都を脱出して大和に赴き南朝に帰服した。かくして、尊氏・師直派らは直義派との全面武力対決になった。よく351年2月、摂津打出浜の合戦において高氏派は敗れ、師直・師泰らは武庫川で上杉能憲に殺害された。打出浜の勝利の結果、直義は義詮の政務を後見することになったものの内訌は鎮静化に向かわず、その後も尊氏・義詮派と直義派は全国各地で合戦を繰り返した。そのため尊氏は南朝と和睦し正平統一、駿河・伊豆で直義軍を破り、1352年正月鎌倉を占拠したうえで、2月に直義を毒殺して擾乱に終止符を打った。