「歴史の回想」

人生は旅・歴史は時間の旅。川村一彦。

歴史の回想・「古事記が描く説話の憧憬」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-02-23 20:03:04 | 温故知新


「古事記が描く説話の憧憬」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
『古事記』は現存する日本最古の史書とされ、二十九年間の舎人・稗田阿礼らの誦習と四カ月の編纂、全三巻で構成され、和銅五年(712年)に太安万侶によって編纂された。編算に当たって「帝紀」「旧辞」(参考資料)にされて作られた。
『古事記』の趣旨内容は大きく分けて、史的記述と説話記述に分類される。中でも説話の部分の情景は想像をかきたてる。
気宇壮大で荘厳で、痛快活劇、報復と応酬、喜怒哀楽の憎愛、露骨な性描写・奇想天外な武勇伝説話の展開・天地開闢・国生み神生み・黄泉の世界・禊・天の岩戸・大蛇退治・稲葉の素兎・根之堅洲国・国譲り・天降り・熊野から大和・倭建命の英雄伝説・兄弟の王権争奪戦・父王の怨念の復讐・禁断の愛・聖帝と女性遍歴・忘れられた八十年間待った約束・また歌に詠み込まれた数々の哀愁・優雅な皇宮の暮らしの風景などなど、これらの『古事記』の数々の描かれた説話から、古代の情景が浮かび上がってくる。
時代の趨勢と運命に生き、今日と変わらない生きとし生けるものの柵に生きる、生き様を垣間見、『古事記』のが描く古代に生きた、人々の光景に憧憬を覚えるものである。
『古事記』を編纂をした太安万侶が、近年、昭和五十四年(1979)太安万侶(おおのやすまろ)の墓が発見され、昨今その墓が「太安万侶の墓」と確定された。その事によって「古事記」と「太安万侶」の編纂と実在性が明らかになって行くのである。
その後近世になって下記の国学者らによる『古事記』の研究が盛んになって行き、新たな『古事記』の再評価に繋がって行った。
荷田春満(かだのあずままろ)(1669~1736)伏見大社の神職に生まれ、徳川吉信宗に国学の学校の創設を嘆願した。
賀茂真淵(かものまぶち)(1697~1769)賀茂新宮の禰宜(ねぎ)の家に生まれ、荷田春満に入門し、田安家の和学の御用となった。
本居宣(もといのり)長(なが)(1730~1801)伊勢の商家に生まれ、医者を続けながら「記紀」を研究しながら「古事記」前四十四巻を著した。
平田(ひらた)篤(あつ)胤(たね)(1776~1843)出羽秋田藩士の子。脱藩し宣長に師事し、後に復古神道に貢献し神道の基礎を確立した。


歴史の回想・「鳩摩羅什と玄宗」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-02-23 13:12:12 | 温故知新

「鳩摩羅什と玄宗」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
仏教伝来と翻訳に鳩摩羅什と玄宗三蔵無しでは語ることも、日本や中国・朝鮮半島にも伝わらなかったであろう。鳩摩羅什は西暦344~413年に西域のクチャ亀茲(きじ)国出身の大翻訳し僧。サンスクリット名クマーラジーバ「くまらじゅ」ともいう。羅什と略称されることもある。生没年は通説に従えば前期の通り350~409年という新設もある。いづれにせよ4世紀から5世紀初頭にかけて活躍した天才的学僧である。鳩摩羅什の西域における名声は中国に及んでいたので,前奏王苻堅は382年(建元18年)クチャ国を攻略倉中を虜にした。十数年間涼洲に滞在した後に、401年後秦の都長安に迎えられた。後奏王佻興は国師として迎えられ、西明閣および逍遥園で訳経に従事させた。長安における鳩摩羅什の訳経と興和は中国仏教を大乗仏教に方向づけるうえで決定的な役割を果たした。彼が翻訳した主な経論は『大品般若経』『金剛般若経』『妙法蓮華経』『維摩経』『阿弥陀経』など大乗仏教仏典「大智度論」『中論』『百論』『十二門論』『成実論』など戒律文献がある。中でも特に力を傾注したのは、大乗の空思想の的確な把握とその宣揚であった。中国仏教の龍樹系の中観思想を始めて紹介し、インド大乗仏教の正系と直結させたのは鳩摩羅什とその門下生であった。廬山の慧遠の質問に答えた『大乗仏教義章』には彼の国家によって手厚く保護された鳩摩羅什の仏教学の腐敗の兆しがなかった訳でもない。鳩摩羅什は自ら泥中に蓮華に喩、華のみを取って泥の濁りに染まるなど事を諫めた。鳩摩羅什の門下生は三千人と称されたが、とりわけ僧肇、僧叡、道生、道融は四哲として有名であった。三論、成実、天台などの中国の諸宗がのちに開かれる基礎が鳩摩羅什一門によって準備等、用意されていた。鳩摩羅什は唐代の玄奘と並ぶ大訳経僧であり、訳経史上に旧訳時代という一時期を期したと言える。
一方、大翻訳僧は玄奘(602~664)中国、唐代の仏教学者、大旅行家、俊て著名な、法相宗開創の祖。本名は禕。俗名陳氏。三蔵法師の名で知られる。洛州で602年(仁寿2年)ただし600年説もの有る。父慧の四男として誕生。幼くして敏、つねに古典を親しんでいた兄長捷につき、の洛陽の浄土寺に住し、614年(大行10)度僧の勅に応じ、人選の大理卿鄭善果にその才能を認められて出家。以降も浄土寺に留まり、景法師に厳法師にその才能を認められ師から『涅槃経』や『摂大乗論』を学ぶ。618年(武徳1年)兄に勧められて、洛陽から長安に移り、荘厳寺に住したが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄と共に蜀に向かい成都に至る。622年具足戒を受けてのち、各地の高僧を訪ね、翌年再び長安に戻り、大覚寺に住して道岳法師より『具舎論』を学び、624年、法常と僧弁の『摂大乗論』の講演に列し、両氏から大威にその将来を嘱望されたが、この頃より国内における仏教研究に限界を感じ、諸宗の疑問の解明のためにインドに留学を決意し、その準備に専念する。国外出立の公式許可を得ることが出来なかったが、627年秋8月意を決して密かに長安を出発し、天山南麓を経由して、ヒンドー・クシ山脈を越えてインドに入り、630年ついにマガダ国のナーランダー僧院に至り、シラバドラ法師に対面した。以降、法師について『瑜伽師地論』を中心に学ぶこと5年にも及ぶ。635年一旦師のもとを去り、東インドから南インド、更に西インドを経由してインド半島を経由してインド半島一巡の旅を終えた。638年ナーランダー僧院に戻り、師と再会した。その後諸学を学び、諸師について学んだがジャナーセーナー師に唯識の論典を中心に学んだことが注目された。640年東インドのクマーラー王の招聘を受けて、彼の王宮に一カ月ほど滞在して、
中インドの戒日王に招かれる。641年75日間の無遮大会に出席して、秋には帰国の途に就いた。643年に長安に帰った。仏像・仏舎利などサンスクリット原典など多数、総計520典、657部と伝えられる。同年2月に、高句麗遠征の準備のために洛陽にたいそう高弟に謁見、その後、死の直前まで翻訳に従事した。玄奘が翻訳した仏典は中国の総数の四分の一に及ぶと言われている。664年2月5日、63歳の生涯を閉じた



歴史の回想・「戊辰戦争の軍臣」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WALKER

2020-02-23 10:42:00 | 温故知新


「戊辰戦争の軍臣」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「戊辰戦争は明治維新政府とそれに敵対する旧幕府、諸藩との戦争。発生した慶応4年(1868)の干支である戊辰をとった呼称。前年の12月9日の王政復古クーデターで天皇を頂点とした新政権が樹立され、幕府や摂政・関白などが廃され、前将軍徳川慶喜は大坂に退去した。慶喜は新政府内の土佐・越前両藩のなどの公儀政体派の巻き返し工作に期待したが、江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が発生し、旧幕府軍は慶喜のあらわにした「討薩の表を掲げて京都へ進撃を開始した。薩摩・長州両藩など新政府軍は旧幕府軍の通行を阻止し1月3日に鳥羽伏見の戦いになった。戦争では、新政府軍が指揮官や将兵の士気、大小砲の兵器が勝り、初戦は機先を制して旧幕府軍を破った。4日には仁和寺宮嘉彰親王が征夷代将軍に任じられ、旧幕府軍が賊軍、新政府軍は官軍とされるに至って、慶喜は江戸に逃げ帰った。この鳥羽・伏見の戦いの結果、新政府内で武力討伐派が主導権を掌握した。西日本の諸藩は戦わずして新政府の軍門に降り、大商人の多くも新政府の支持に回った。新政府は1月7日に慶喜征伐令を発し、有栖川宮熾仁親王を東征軍は江戸へ進軍させた。
これに対して、慶喜は江戸城を退去し、旧幕府陸軍総裁の勝海舟が東征大総督参謀西郷隆盛に降伏状の交渉を重ねた。4月4日には東海道先鋒総督府橋本実染(1834~1885)が勅使として江戸城に入り、慶喜の水戸藩御預かり、江戸城明け渡し、軍艦兵器の引き渡し、城内居住の旧幕臣などの処置などの勅旨を田安慶頼(1828~1876)に伝え、4月11日には開城となった。旧幕臣は脱走し彰義隊は上野に立てこもり新政府に敵対した。関東では世直し一揆が激化し、開城後も新政府、旧幕臣との闘いが小山・宇都宮・舟橋などで散発的に起こった。5月15日には上野の戦争で彰義隊を壊滅させ徳川家達に70万円を与えて駿河に移した。東北については奥羽鎮憮総督を仙台に派遣し、藩主松平容保が会津藩に追討が命じられた。北陸諸藩は奥羽越列藩同盟は結んでいた新政府への敵対に対して、輪王寺宮を盟主に仰ぎ、白石に公儀府を置き、8か条の盟約を結んだ。東北戊辰戦争は、平・二本松・新庄・大館などが戦場になった。さらに、北陸の長岡・新潟でも激戦が交わされたが、既にして官軍となった新政府軍が優勢であった。会津では少年兵「白虎隊」動員されたが若松城は包囲され、9月22日に降伏した。最後の砦は函館の戦いは「五稜郭の戦い」の東北・北陸・北海道の諸藩の抗戦を圧倒し、新政府軍の平定で、鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争が終結した。




 


歴史の回想・「長宗我部元親の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WAL」

2020-02-23 09:11:58 | 温故知新

「長宗我部元親の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
「長宗我部元親」(1538年~1599年)四国の戦国大名。長宗我部氏。1560年(永禄3)父国親の死後に家督を継ぐ。長岡郡岡豊上に本拠を置く、土佐東部の安芸氏や西部の一条氏ら諸氏を相次いで撃破して、1575年(天正3)に土佐統一を成し遂げた。さらに阿波・讃岐の制圧うを果たし、伊予の東部・南部にも勢力を伸ばしたが、1585年に豊臣秀吉が四国平定に乗り出すと、講和を結んで、土佐一国の領有を認められた。こののち元親は、豊臣政権下で九州平定、小田原攻め、文禄・慶長の役と転戦を続けた。元親は内政にも力を注ぎ、各種の法令を制定したが、とくに広く領民まで対象にそれらを集大成した「長宗我部百か条」は分国法として有名である。また、太閤検地の一環として土佐全土の検地を実施し、368冊に及ぶ「長宗我部地検帳」を残した。1599年(慶長4)5月に伏見で死去し、遺骨は土佐に送られて長浜で葬られた。


「歴史の回想・長慶延徳の乱」グーグル・楽天・電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WA」

2020-02-23 07:04:38 | 温故知新


「歴史の回想・長慶延徳の乱」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
「長享・延徳の乱の起因」(ちょうきょう・えんとくのらん)とは、室町時代後期の長享元年(1487年)と延徳3年(1491年)の2度に亘って室町幕府が行った近江守護・六角行高(後の六角高頼)に対する親征で、六角征伐とも称される。
なお、1度目の出陣は近江国栗太郡鈎(まがり)(滋賀県栗東市)に在陣したため、別に鈎の陣とも称される。
文明9年(1477年)に応仁の乱が収束したのち、各地では守護や国人らが寺社領や公家の荘園などを押領して勢力を拡大していた。
旧西軍に属していた近江守護・六角行高も荘園や奉公衆の所領を押領していた。しかし、長享元年(1487年)7月、奉公衆の一色政具の訴訟案件が幕府に持ち込まれ、これをきっかけとして他の近江の奉公衆も六角行高に対し訴訟を起こした。さらに寺社本所領押領も発覚、幕府はその威信回復を企図して六角氏討伐の兵を挙げ近江に遠征した。
文明11年(1479年)11月、第9代将軍・足利義尚は判始を行ったが、先代将軍の足利義政は政務移譲を渋って対立し、文明17年(1485年)4月には奉公衆と奉行衆の諍いから、布施英基が義尚の小川御所にて奉公衆に殺害されている。
そして、長享元年(1487年)9月12日、足利義尚は、管領・細川政元をはじめ、若狭守護・武田国信等の守護大名、在京奉公衆、在国奉公衆、さらには公家衆も率いて近江坂本へ出陣した。この時、義尚は奉行衆も連れており、鈎の陣は実質的に幕府の政務も担ったが、奉行衆のうち義政側近であった伊勢貞宗、飯尾元連、松田数秀等は同行を許されず政務から外された。
義尚の遠征に対し、六角行高は観音寺城を放棄して撤退した。しかし、甲賀郡山間部でのゲリラ戦を展開し、戦闘は膠着状態に陥った。



歴史の回想・「遠山氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WA」

2020-02-23 06:49:39 | 温故知新

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「遠山氏」(とうやまし)
美濃の中・近世の武家。加藤景廉が源頼朝より勲功賞として美濃遠山荘地頭職を与えられ,その子景朝が荘内岩村に拠って遠山を称したのに始まる。遠山荘はほぼ現在の岐阜県恵那郡全域,および木曾馬籠辺に及ぶ広大な荘園である。景朝を本宗として一族が荘内を分領し,やがて土岐氏と並ぶ美濃の名族となった。室町時代には将軍家奉公衆となる者が輩出した。7流に分かれ,戦国の争乱には織田・武田両勢力に圧せられた。遠山友政は1583年(天正11)森長可に父祖伝来の苗木城を奪われたが,関ヶ原の功賞として1600年(慶長5)苗木城1万500石余を与えられ,以後苗木藩として明治維新に至る。またテレビ、芝居のあの遠山の金さんは実際にこの家系から生まれた。


「歴史の回想・明応の政変」アマゾン電子書籍紹介。グーグル・楽天・角川・BOOK★WA」

2020-02-23 06:39:12 | 温故知新


「歴史の回想・明応の政変」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WA」
明応の政変は1493年(明応2年)細川政元が将軍足利義稙を廃位した政治クーデター。前年2度目の六角氏討伐を終えて近江から帰京した義稙は、この年の2月畠山基家を討つため河内に出陣した。しかしこれに反対した政元は、義稙の廃位と基家誅伐の首謀者である畠山政長の追放を図り、4月被官上原元秀らに命じて、義稙や政長の邸宅を破却、当時天竜寺の喝食であった香厳院清晃(足利政知)の次男、後の義澄を新将軍に擁立した。5月政長は自殺、義稙は龍安寺に幽閉された。事件の背景には将軍の親裁権強化を目指す奉行人・奉公衆と、それを阻止し畿内政権樹立をもくろむ細川氏との、幕府内での主導権をめぐる対立があった。