なにかと気忙しく、まともに本を一冊読み通す時間がないのだが、君が 模試だか中間テストだかの国語で出題された加藤周一氏や「巨匠」(木下順二)について熱く語るものだから、私も現代文(評論)では加藤周一氏や外山滋比古氏や三木清氏にずいぶんイジメられたなぁ、と思い出していた。そんな時、「折々のことば」(鷲田清一)で、三木清氏の言葉に出会ったので、久しぶりに「人生論ノート」(三木清)を手に取ってみた。
「折々のことば」(鷲田清一) 朝日新聞 平成29年11月16日朝刊より引用
『人は孤独を逃れるために独居しさえする 三木清
人は大勢の人の間にあっても、というかその中でこそ孤独であると、哲学者は言う。
だから人は、逆説的にも孤独から逃れるために独居しもする。が、反対に、孤独を味わうために街に出もする。孤独は何かの欠乏ではなく、まぎらすよりもむしろ味わうべきもの。その意味では孤独は感情よりも知性に属し、その中ではじめて世界と確しかと向き合うことができる。「哲学と人生」から』
鷲田氏が引用されている「哲学と人生」(三木清)は読んだことがないのだが、この言葉は、三木清氏の「人生論ノート」の「孤独について」の章に、一言一句違わず記されている。
『この無限の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる』(パスカル)という言葉で始まる「孤独について」の章を初めて読んだ高校時代には、『孤独を逃れるために独居しさえする』『孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるものとして空間の如きのものである』という意味が皆目見当がつかなかったのだが、年を重ねたせいか、クリスチャンの上司から聞いた「大勢の人のなかにあって、誰からも必要とされていないと感じる孤独感こそ、最大の貧困だ。そういう意味で、日本には貧しい人がたくさんいる」というマザーテレサの言葉に思い当たることがあったせいか、分かるようになって、しまった。
だが、「大勢の人間の間にある孤独」で終わらないのが、三木清の三木清たる所以で、三木清氏は続けて『孤独には美的な誘惑がある。孤独には味わいがある』と云いながら、『孤独は感情ではなく知性に属するものでなければならぬ』とし、その結論として『孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある』とする。
孤独に主観的なニュアンスの言葉 ’’美的’’ ’’味わい’’ を与えながら、孤独は感情であってはあならぬとし、しかし最後には、最も感情的とも思われる’’愛’’に孤独は根ざしていると結論付けている。
この論理は、「人生論ノート」で繰り返し記される『感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である』というものに連なることだけは、よく分かるのだが、徒に馬齢を重ねているだけの私に、それを経験上納得できる日は来ないかもしれない。
ただ、久しぶりに現実的な日常とは掛け離れた思考に思いを巡らせたことは、豊かな時間を与えてくれた。
そんな切っ掛けを与えてくれた君に感謝しているのだが、宇宙物理学を専攻したい君が、模試だか中間テストだかの国語の問題文を味わい熱く語るのには驚いているよ。
これからは、好きな野球も読書もなかなか出来ないだろうが、模試で読んだ本が後々大きな影響を与えてくれることがあることは、私自身経験しているので、またいい本があったら、教えてね 君よ
「折々のことば」(鷲田清一) 朝日新聞 平成29年11月16日朝刊より引用
『人は孤独を逃れるために独居しさえする 三木清
人は大勢の人の間にあっても、というかその中でこそ孤独であると、哲学者は言う。
だから人は、逆説的にも孤独から逃れるために独居しもする。が、反対に、孤独を味わうために街に出もする。孤独は何かの欠乏ではなく、まぎらすよりもむしろ味わうべきもの。その意味では孤独は感情よりも知性に属し、その中ではじめて世界と確しかと向き合うことができる。「哲学と人生」から』
鷲田氏が引用されている「哲学と人生」(三木清)は読んだことがないのだが、この言葉は、三木清氏の「人生論ノート」の「孤独について」の章に、一言一句違わず記されている。
『この無限の空間の永遠の沈黙は私を戦慄させる』(パスカル)という言葉で始まる「孤独について」の章を初めて読んだ高校時代には、『孤独を逃れるために独居しさえする』『孤独は山にはなく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にあるものとして空間の如きのものである』という意味が皆目見当がつかなかったのだが、年を重ねたせいか、クリスチャンの上司から聞いた「大勢の人のなかにあって、誰からも必要とされていないと感じる孤独感こそ、最大の貧困だ。そういう意味で、日本には貧しい人がたくさんいる」というマザーテレサの言葉に思い当たることがあったせいか、分かるようになって、しまった。
だが、「大勢の人間の間にある孤独」で終わらないのが、三木清の三木清たる所以で、三木清氏は続けて『孤独には美的な誘惑がある。孤独には味わいがある』と云いながら、『孤独は感情ではなく知性に属するものでなければならぬ』とし、その結論として『孤独は最も深い愛に根差している。そこに孤独の実在性がある』とする。
孤独に主観的なニュアンスの言葉 ’’美的’’ ’’味わい’’ を与えながら、孤独は感情であってはあならぬとし、しかし最後には、最も感情的とも思われる’’愛’’に孤独は根ざしていると結論付けている。
この論理は、「人生論ノート」で繰り返し記される『感情は多くの場合客観的なもの、社会化されたものであり、知性こそ主観的なもの、人格的なものである。真に主観的な感情は知性的である』というものに連なることだけは、よく分かるのだが、徒に馬齢を重ねているだけの私に、それを経験上納得できる日は来ないかもしれない。
ただ、久しぶりに現実的な日常とは掛け離れた思考に思いを巡らせたことは、豊かな時間を与えてくれた。
そんな切っ掛けを与えてくれた君に感謝しているのだが、宇宙物理学を専攻したい君が、模試だか中間テストだかの国語の問題文を味わい熱く語るのには驚いているよ。
これからは、好きな野球も読書もなかなか出来ないだろうが、模試で読んだ本が後々大きな影響を与えてくれることがあることは、私自身経験しているので、またいい本があったら、教えてね 君よ