何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

その名は、もう一人の自分

2016-10-12 00:03:03 | 
宮部みゆき氏の本はほとんど読んでいる。

宮部氏の作品は、大掛かりな舞台回しを展開するというよりは、本人さえ気づいていないような心の奥に潜む感情を抉り出すことで、読む者を唸らせることが多いと思うのだが、そんな宮部氏が最近拘っているのが、’’名もなき毒’’ではないだろうか。
それは、誰もが持ち何処にでも存在しており、この世で一番危険な存在であるにも拘らず、決して表には出てこない。
刑事事件では、それを動機と呼ぶこともあるが、宮部氏が意図するところは、それとも少し違う。

これを定義づけ名をつけるために宮部氏は、ファンタジーの手法を試みたり(「英雄の書」「過ぎ去りし王国の城」)、ネット社会の闇を書いたり(「悲嘆の門」)、読者と等身大の人物が事件に遭遇する事件モノをシリーズ化しているように感じている(杉村三郎シリーズ)。

その杉村シリーズの最新刊、「希望荘」を読んだ。
宮部氏ご自身は、’’名もなき毒’’の正体を解明し警鐘を鳴らすために、これからも作品を書いて下さると思うが、「希望荘」の最後の件で、答えを一つ得たと私なりに感じている。

事件が起こると、ご近所や職場の人間へのインタビューをもとに容疑者の素顔とやらを報道するが、驚くべきことに、多くの場合「ごく普通の人だった。挨拶もできるいい人だった」という。このような報道を見るにつけ、私は「何をもって’’普通に見える’’というのか」と感じていたのだが、宮部氏も同じ疑問を抱いていたのではないかと思わせる場面が、「名もなき毒」にはある。

主人公・杉村の周辺で次々と起こる事件が、彼の会社が一時期アルバイトで雇っていた女性の仕業だと判明した時、刑事は「彼女は’’普通’’だ」と言う。
杉村は驚き、自分達のような人間を’’普通’’というのではないか、と問い返すが、刑事は「違う」と答える。
重ねて杉村は「じゃ、(自分達のような人間を)優秀な人間だというのか」と問うと、刑事は「立派な人間と言いましょうよ」と疲れた顔に小さく笑みを浮かべて言う。
『こんなにも複雑で面倒な世の中を他人様に迷惑をかけることもなく、時には人に親切にしたり、一緒に暮らしている人を喜ばせたり、小さくても世の中の役に立つことをしたりして、まっとうに生き抜いているんですからね。立派ですよ。そう思いませんか』
杉村は、「それこそが’’普通’’だ」と言い張るが、刑事は「違う」とこれまた言い張る。
『「今は違うんです。それだけのことができるなら、立派なんですよ。”普通”というのは、今のこの世の中では、”生きにくく、他を生かしにくい”と同義語なんです。”何もない”という意味でもある。つまらなくて退屈で、空虚だということです」
だから怒るんですよと呟いた。
「どこの誰かさんが”自己実現”なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね」』

加えて刑事は、『犯罪を起こすのは、たいていの場合、怒っている人間』とも言うのだが、では’’普通’’の人は一体何にそんなにも怒っているのだろうか。

’’存在’’やら’’自己実現’’やらという言葉を語れるほど哲学的な人間ではないので、自分なりの感想を書くしか術がないのだが、自己実現という概念は人から’’足るを知る’’という状態を奪ってしまったのかもしれない。
自己実現を図ろうとすると、教養や能力の目標(限界)をどんどん引き上げてしまうし、その目標が(ある程度)達成されれば、それに見合う立場や状態になることを目指すことになる、これには際限がない。
だからどこかの時点で、自分が抱いている自己実現という風船は、際限ない欲望と溜め息で膨れ上がっているだけで、実体は’’何もない’’と気付き、猛烈に怒り始めることになる。
そんな危いものを、現在人は誰しももっているから、「名もなき毒」の刑事は、容疑者の女性を「普通」といったのだろうか。

だが宮部氏は本当に言いたいのは、普通の人でも’’犯罪’’を犯し得る、という事だけではないと思う。
「名もなき毒」の最後は、事件を解決し帰宅した主人公杉村が、自分の家にも毒があることに気付く場面で終わっている。
『私のこの家に、汚染はなかった。家の中は清浄だった。清浄であり続けると、私は勝手に思い込んでいた。信じ込んでいた。だが、そんなことは不可能なのだ。人が住まう限り、そこには毒が入り込む。なぜなら、我々人間が毒なのだから。
~略~ その毒の、名前は何だ。
かつてジャングルの闇を跳梁する獣の牙の前に、ちっぽけな人間は無力だった。だがあるときその獣が捕らえられ、ライオンという名が与えられたときから、人間はそれを退治する術を編み出した。名付けられたことで、姿なき恐怖には形ができた。形あるものなら、捕らえることも、滅することもできる。
私は、我々のうちにある毒の名前を知りたい。誰か私に教えてほしい。我々が内包する毒の名は何というのだ。』

つまり、宮部氏は’’犯罪’’と云う形を取らないまでも、人は抱え込んだ’’毒’’を撒き散らして生きていると言いたいのだと思う。勿論その毒を’’飽くなき欲望’’と名付けることもできるが、私は「希望荘」の第4章の題名を借り、毒の名を、「二重身」としたい。
宮部氏は「二重身」で、生まれも育ちも恵まれずその身に不満を溜め込んだ青年が、ふと魔がさして人を殺めてしまう話を書いているのだが、その青年に「二重身」がいたとしている。
『狡猾で邪悪で、愛や富や幸福や、彼がそれまで得ることができなかった全てのものに飢えている、もう一人の彼だ。
 生身の彼から離れて罪を犯した忌まわしい幽鬼だ。
 幽鬼だったから、現実の脅威を憂い怯えることなく、ただ自分の欲だけのために行動することが出来た』

哀しいけれど、自分の弱さを知っている私としては、’’毒’’とは’’もう一人の自分’’に思えてならない。

同様のことを、「ブロッケンの悪魔」(樋口明雄)も云っている。 「パトラッシュの国に祈りを捧げる」
’’山頂で見た、悪魔の姿の自分の影’’の言葉に従い復讐テロを起こしたと言う犯人に、山岳警備隊は諭す。
『鷲尾さん。それはきっとあなた自身の心です』
『山は人の心を鏡のようにして見せるんです。だから、悪魔はあなたご自身の中にいます』 と。 

悪魔も’’毒’’も、自分のなかにあるものであり、その名を二重身’’ドッペルゲンガー’’というのかもしれない。

私など、年に数度、その毒を確認し流し去るために、人の心を鏡のようにして見せる山にゆくのかもしれない。
そのおかげか、さほど満足していない現状でも、風船にはまだ遊びの余地が残されているように感じている。

ただ、人は毒ばかり溜め込んでいるわけでは勿論、ない。
そんなことを、やはり宮部氏の作品で一番好きなものから、記しておこうと思っている、つづく。


追記
他にもあったぞと探していると、「春を背負いて」(笹本稜平)にも同様のことが書かれていたと思いだした。
半導体開発の第一線を走っていた研究者が山小屋の主として山で暮らすようになり、『たとえば敵がいなくなって味方が増えた』 『今思えば、そもそも敵なんていなかったような気がする。勝ち負けでしか自分の力を評価できないから、そのために自分で幻の敵をつくっていたんじゃないのかな』と気付いた、と言う。
これへの小屋番仲間の言葉は、耳に痛い。
『そんなもんかもしれないね。たぶんその敵というのは鏡に映った自分なんだよ。
 俺たちのような凡人はそうやって自分自身と喧嘩し続けて、人生を棒に振るのが落ちなんだ』

自分自身と喧嘩ばかりして、なかなか前へ進めない私だが、人生を棒に振る前に軌道修正を図らなくてはいけないと痛切に感じている。