<歩行者専用つり橋>長さ日本一、絶景パノラマ…静岡・三島 毎日新聞 12月8日(火)10時50分配信より一部引用
URL http://mainichi.jp/graphs/20151208/hrc/00m/040/002000g/1
静岡県三島市に、歩行者専用のつり橋としては長さ日本一という「箱根西麓(せいろく)・三島大吊橋(おおつりばし)」(愛称・三島スカイウォーク)が完成した。富士山や駿河湾、伊豆の山々など360度のパノラマが楽しめる。
つり橋は全長400メートル、高さ約70メートル、幅1.6メートル。これまで人道橋として最長だった大分県九重町の「九重“夢”大吊橋」の390メートルを抜いた。
三島市の遊技業「フジコー」が、総事業費約40億円をかけ整備した。設計は東京・レインボーブリッジも手がけた長大(東京都中央区)。
あのレインボーブリッジを手掛けた企業が設計したとあって、写真で見る限りその外観は現代的だが、富士山の圧倒的な存在感が人口建造物すら呑み込んでいるのか、世界の富士山だけあって新しいものを迎え入れる懐の深さもあるのか、真っ白な人口の吊り橋が違和感なく自然の中に納まっている。
日頃何気なく橋を渡っているが、今年渡った槍ヶ岳を源流とする梓川に架けられた横尾大橋と涸沢カール(雪渓)を源流とする急流にかかる本谷橋は、まさに''橋''であった。
一級河川にかかる橋を渡る時も、何か独特の''越える''と感じる時があるが、険しい山道で、その橋を渡らない限り向こう側にいけない橋、しかもその下には街中では見られないような水飛沫が音を立てているような橋を渡った時、違う世界に一歩踏み出すという新鮮で神秘な感じが印象的だった。
一般に「橋を架ける」「橋」といえば、異なる場所を繋ぐもので、古くは天の浮き橋にはじまり、日本中の道の始点となる日本橋を経て、この度完成した三島大吊橋に至っているが、この表現は物理的なものにとどまらない。(「羽ばたく道」)
アテネオリンピックの体操男子団体の優勝が決まったシーンの、あのアナウンスは有名だ。
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」
28年間金メダルから離れていた体操国ニッポンが、富田選手の競技を架け橋として、現在の内村選手に代表される最強の体操国ニッポンに繋がったように、橋を架けるという言葉には、希望を繋ぐというイメージもある。
また、橋は歌や小説にも描かれているが、私にとっての「橋を架ける」本といえば、まず浮かぶのが「太陽にかける橋」(グエン・寺崎)だ。
日米開戦時にワシントン駐在の外交官だったグエンの夫・寺崎英成とグエンは日本とアメリカをつなぐ「太平洋の架け橋」となることを願い、一人娘マリコの名は日米関係の暗号電文にも使われた。
寺崎夫妻の願いも空しく日米開戦となった時、グエンは夫と離れて生きる道を選ばず、夫とともに日本へ渡る決意をする。アメリカ人でありながら、日本へ強制送還されるまでは他の日本人とともに抑留生活もし、日本の疎開先では家族中が餓死しそうなほど困窮を極めた生活もするが、苦しい中にあってグエンの持ち前の明るさは周囲の日本人との垣根を低くし、やがて取り払っていく。
しかし、グエンはただ夫に従順な明るい女性だっただけではない。
終戦直後、引っ越しを手伝ってくれる漁師さんが、これから始まる民主主義とは何かと問えば、グエンは「民衆の為の、民衆による、民衆の政治」や基本的人権について真剣に答え、グエンの話を聞いた漁師は独立宣言のなかの「幸福追求の権利」に感銘を受ける。
『(幸福追求の権利)その意味することは、人々に出来る限り自分の好む方法での行動の自由を選ばせ、政府が他の人々の幸福を保護する必要があると認めたときだけしか干渉しないという意味なんですよ』
グエンは日本人を世界でも有数の識字率を誇り知識欲をもつ民族だと考えており、その日本人が持つ疑問~新しい国の形となる民主主義とは何か~に米軍がきちんと答えられるか心配しているが、ただ気を揉むだけでなく、自分自身が知識の架け橋となろうと努めるのは、「太平洋の架け橋」となるという夢を諦めてはいなかったからだと思う。
また夫・英成が昭和天皇の御用掛に任命されマッカーサーとの通訳で皇居に参内するようになると、グエンは香淳皇后に御目通りする機会を得て、家族を思う気持ちに日米の違いはないと話し、涙を浮かべて話を聞かれた香淳皇后からは温かいお言葉を頂くが、これも「太平洋の架け橋」を日本の一番奥深くまで届けたいという願いがあったのだと思うのだ。
グエンは娘マリコが最終教育をアメリカで受けるのに伴いアメリカへ渡るが、日本への帰国を目前にして朝鮮戦争が勃発し、日本に帰れないままに夫英成が亡くなってしまう。
戦争が寺崎家族に落とした影を思うと、グエンが「Bridge to the Sun」の訳者へ書いた手紙の言葉は胸に迫ってくる。
『私たち平和を信ずるものは、常に''橋''の建設をつづけ、これを強固なものにする努力をしなければなりません。』
私は、太平洋に橋を架けることを夢見た寺崎夫妻の物語「太陽にかける橋」と「マリコ」(柳田邦男)に感銘を受けていたので、「架け橋」ときけば、この二冊を思い浮かべるが、この二冊が印象深いのは、これにより外交官家庭が果たす使命に関心をもち、お妃候補となられた当初から小和田雅子さんこそ皇太子妃になって頂きたいと強く願っていたからだ。
幼少時に冷戦下のモスクワとニューヨークで暮らし、小学校と中学校という基礎学力を修得する時期は日本で学び、高校大学とアメリカで学びながら夏季研修でドイツ語とフランス語をマスターし、英国ではクイーンズイングリッシュも身につけられた雅子妃殿下は、日本と世界各国をつなぐ架け橋となる語学力を有されているが、それだけではない。
御病気のため祭祀からは遠ざかっておられるが、高祖父には鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司がおられることもあってか、長い海外生活でも日本の四季折々の行事を大切にし、ハーバード大学時代には日本文化研究会の会長も務めておられるように、雅子妃殿下は日本と海外の文化の架け橋となる力も秘めておられる。
御成婚3年目の御誕生日には、海外でステレオタイプな報道が続いていることや、皇室での生活での戸惑いという質問に対して、ユーモア―を交えて答えておられる。
宮内庁ホームページより一部引用
私が皇室に入って変わったかどうか,それから戸惑うことがあるかどうかということにつきましては,皆様,よほど私が戸惑っているのではないかと心配してくださっているようなんですけれども,多分,今のいろいろなことが多様化してきている日本の社会においては,女性の在り方とか,女性の役割といったものについても様々な考え方があると思います。そのような中で,伝統的な皇太子妃の在り方というものと,それから自分らしさというものを,どのように調和なり,バランスの良い接点というものを見いだしていくかということについては,その時々で苦心もいたしますけれども,私がとても現代的なのか,もしくは保守的なのかということは,二つに一つということなどではなくて,多分,私の中には多くの人にとってそうであると思いますけれども,伝統的な部分とそれから新しい部分と両方があって,そしてその時々でどちらの様子をどのようにいかしていくかということなのではないかと思っています。ですから,古いものでも良いものは大切にしながら,そして新しい時代の要請というものも考慮に入れていくことが大切なのではないかというふうに考えています。
雅子妃殿下は御自分のなかに、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分があるとし、それを多様化してくる日本社会のなかで新しい時代の要請を考慮しながら、バランス良い接点を見出していきたいと希望をもって語っておられる。
この希望がかなっておれば、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分にバランス良い架け橋が架かっていたはずだが、いつからか時間が逆回りし、世はをかしな事になってしまっている。
しかし、間に合わないわけではないし、長きの病を乗り越えられる雅子妃殿下には、長く困難の中にある者との架け橋になるという新たな務めが生まれ、これは雅子妃殿下にしか果たすことができない尊い務めとなるに違いない。
今日12月9日 雅子妃殿下の御誕生日にあたり、ご健康とお幸せを祈るとともに、
雅子妃殿下がさまざまな道へと希望の架け橋をかけて下さるように祈っている。
URL http://mainichi.jp/graphs/20151208/hrc/00m/040/002000g/1
静岡県三島市に、歩行者専用のつり橋としては長さ日本一という「箱根西麓(せいろく)・三島大吊橋(おおつりばし)」(愛称・三島スカイウォーク)が完成した。富士山や駿河湾、伊豆の山々など360度のパノラマが楽しめる。
つり橋は全長400メートル、高さ約70メートル、幅1.6メートル。これまで人道橋として最長だった大分県九重町の「九重“夢”大吊橋」の390メートルを抜いた。
三島市の遊技業「フジコー」が、総事業費約40億円をかけ整備した。設計は東京・レインボーブリッジも手がけた長大(東京都中央区)。
あのレインボーブリッジを手掛けた企業が設計したとあって、写真で見る限りその外観は現代的だが、富士山の圧倒的な存在感が人口建造物すら呑み込んでいるのか、世界の富士山だけあって新しいものを迎え入れる懐の深さもあるのか、真っ白な人口の吊り橋が違和感なく自然の中に納まっている。
日頃何気なく橋を渡っているが、今年渡った槍ヶ岳を源流とする梓川に架けられた横尾大橋と涸沢カール(雪渓)を源流とする急流にかかる本谷橋は、まさに''橋''であった。
一級河川にかかる橋を渡る時も、何か独特の''越える''と感じる時があるが、険しい山道で、その橋を渡らない限り向こう側にいけない橋、しかもその下には街中では見られないような水飛沫が音を立てているような橋を渡った時、違う世界に一歩踏み出すという新鮮で神秘な感じが印象的だった。
一般に「橋を架ける」「橋」といえば、異なる場所を繋ぐもので、古くは天の浮き橋にはじまり、日本中の道の始点となる日本橋を経て、この度完成した三島大吊橋に至っているが、この表現は物理的なものにとどまらない。(「羽ばたく道」)
アテネオリンピックの体操男子団体の優勝が決まったシーンの、あのアナウンスは有名だ。
「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への架け橋だ」
28年間金メダルから離れていた体操国ニッポンが、富田選手の競技を架け橋として、現在の内村選手に代表される最強の体操国ニッポンに繋がったように、橋を架けるという言葉には、希望を繋ぐというイメージもある。
また、橋は歌や小説にも描かれているが、私にとっての「橋を架ける」本といえば、まず浮かぶのが「太陽にかける橋」(グエン・寺崎)だ。
日米開戦時にワシントン駐在の外交官だったグエンの夫・寺崎英成とグエンは日本とアメリカをつなぐ「太平洋の架け橋」となることを願い、一人娘マリコの名は日米関係の暗号電文にも使われた。
寺崎夫妻の願いも空しく日米開戦となった時、グエンは夫と離れて生きる道を選ばず、夫とともに日本へ渡る決意をする。アメリカ人でありながら、日本へ強制送還されるまでは他の日本人とともに抑留生活もし、日本の疎開先では家族中が餓死しそうなほど困窮を極めた生活もするが、苦しい中にあってグエンの持ち前の明るさは周囲の日本人との垣根を低くし、やがて取り払っていく。
しかし、グエンはただ夫に従順な明るい女性だっただけではない。
終戦直後、引っ越しを手伝ってくれる漁師さんが、これから始まる民主主義とは何かと問えば、グエンは「民衆の為の、民衆による、民衆の政治」や基本的人権について真剣に答え、グエンの話を聞いた漁師は独立宣言のなかの「幸福追求の権利」に感銘を受ける。
『(幸福追求の権利)その意味することは、人々に出来る限り自分の好む方法での行動の自由を選ばせ、政府が他の人々の幸福を保護する必要があると認めたときだけしか干渉しないという意味なんですよ』
グエンは日本人を世界でも有数の識字率を誇り知識欲をもつ民族だと考えており、その日本人が持つ疑問~新しい国の形となる民主主義とは何か~に米軍がきちんと答えられるか心配しているが、ただ気を揉むだけでなく、自分自身が知識の架け橋となろうと努めるのは、「太平洋の架け橋」となるという夢を諦めてはいなかったからだと思う。
また夫・英成が昭和天皇の御用掛に任命されマッカーサーとの通訳で皇居に参内するようになると、グエンは香淳皇后に御目通りする機会を得て、家族を思う気持ちに日米の違いはないと話し、涙を浮かべて話を聞かれた香淳皇后からは温かいお言葉を頂くが、これも「太平洋の架け橋」を日本の一番奥深くまで届けたいという願いがあったのだと思うのだ。
グエンは娘マリコが最終教育をアメリカで受けるのに伴いアメリカへ渡るが、日本への帰国を目前にして朝鮮戦争が勃発し、日本に帰れないままに夫英成が亡くなってしまう。
戦争が寺崎家族に落とした影を思うと、グエンが「Bridge to the Sun」の訳者へ書いた手紙の言葉は胸に迫ってくる。
『私たち平和を信ずるものは、常に''橋''の建設をつづけ、これを強固なものにする努力をしなければなりません。』
私は、太平洋に橋を架けることを夢見た寺崎夫妻の物語「太陽にかける橋」と「マリコ」(柳田邦男)に感銘を受けていたので、「架け橋」ときけば、この二冊を思い浮かべるが、この二冊が印象深いのは、これにより外交官家庭が果たす使命に関心をもち、お妃候補となられた当初から小和田雅子さんこそ皇太子妃になって頂きたいと強く願っていたからだ。
幼少時に冷戦下のモスクワとニューヨークで暮らし、小学校と中学校という基礎学力を修得する時期は日本で学び、高校大学とアメリカで学びながら夏季研修でドイツ語とフランス語をマスターし、英国ではクイーンズイングリッシュも身につけられた雅子妃殿下は、日本と世界各国をつなぐ架け橋となる語学力を有されているが、それだけではない。
御病気のため祭祀からは遠ざかっておられるが、高祖父には鎌倉の鶴岡八幡宮の宮司がおられることもあってか、長い海外生活でも日本の四季折々の行事を大切にし、ハーバード大学時代には日本文化研究会の会長も務めておられるように、雅子妃殿下は日本と海外の文化の架け橋となる力も秘めておられる。
御成婚3年目の御誕生日には、海外でステレオタイプな報道が続いていることや、皇室での生活での戸惑いという質問に対して、ユーモア―を交えて答えておられる。
宮内庁ホームページより一部引用
私が皇室に入って変わったかどうか,それから戸惑うことがあるかどうかということにつきましては,皆様,よほど私が戸惑っているのではないかと心配してくださっているようなんですけれども,多分,今のいろいろなことが多様化してきている日本の社会においては,女性の在り方とか,女性の役割といったものについても様々な考え方があると思います。そのような中で,伝統的な皇太子妃の在り方というものと,それから自分らしさというものを,どのように調和なり,バランスの良い接点というものを見いだしていくかということについては,その時々で苦心もいたしますけれども,私がとても現代的なのか,もしくは保守的なのかということは,二つに一つということなどではなくて,多分,私の中には多くの人にとってそうであると思いますけれども,伝統的な部分とそれから新しい部分と両方があって,そしてその時々でどちらの様子をどのようにいかしていくかということなのではないかと思っています。ですから,古いものでも良いものは大切にしながら,そして新しい時代の要請というものも考慮に入れていくことが大切なのではないかというふうに考えています。
雅子妃殿下は御自分のなかに、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分があるとし、それを多様化してくる日本社会のなかで新しい時代の要請を考慮しながら、バランス良い接点を見出していきたいと希望をもって語っておられる。
この希望がかなっておれば、保守的なものと現代的なもの、伝統的な部分と新しい部分にバランス良い架け橋が架かっていたはずだが、いつからか時間が逆回りし、世はをかしな事になってしまっている。
しかし、間に合わないわけではないし、長きの病を乗り越えられる雅子妃殿下には、長く困難の中にある者との架け橋になるという新たな務めが生まれ、これは雅子妃殿下にしか果たすことができない尊い務めとなるに違いない。
今日12月9日 雅子妃殿下の御誕生日にあたり、ご健康とお幸せを祈るとともに、
雅子妃殿下がさまざまな道へと希望の架け橋をかけて下さるように祈っている。