テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

つれづれに・・・

2014-04-25 22:59:40 | 双眼鏡 望遠鏡
ゴールデンウィーク直前の記事なのですが、恐らくはきちんと公開できるのが突入後になると思いますので、ちょっとそぐわない感じにもなりそうなのをお詫びしておきます。

前半は天候不調が予想されている今年のゴールデンウィークですが、個人的には、例年になく気分が乗っています。特に、大きなイベントや、旅行や遊びの予定があるわけではないのですが、どこに行くにも、どこにいても、双眼鏡を傍らに、と決めています。
以前、このブログでも書いたのですが、双眼鏡の楽しみの一つに、一方的な距離感の喪失、という概念を挙げました。つまり、双眼鏡で得られる立体的な拡大視野は、観察者にとって、観察対象に対して独占的な利益というか、被験対象にしてしまうのに似た効果をもたらす、ということです。パピリオで見る足元のアリは、目の前の巨大な靴底に踏まれまいと右往左往していますが、果たして、それをつぶさに観察されているとは気付かないでしょう。とんでもない視力を持つ猛禽類でも、渡りで空高くを飛翔しているとき、遙か彼方から、その様子を追われ、自分の種別や、飛ぶ方向など、細かく記録されていることに気付いているでしょうか。もっと下賤な例では、桜の花びらの舞う学校の運動場で少年少女の体操服姿を隣のマンションから見下ろしている不逞の輩に誰が気付くでしょうか。
とにかく、対象を近くに見ること、それも、鮮やかにくっきりと生々しく見られることは、どんな映画や4Kテレビよりも、双眼鏡が秀でている特徴なのです(もちろん、双眼鏡にも玉石混淆があり、高倍率やズームを謳い文句にしている製品については、その限りではなく、単なる目を疲れさせるいびつな道具でしかありませんが)。また、ある程度の倍率の高性能な双眼鏡では、視点の巨人化というか、視点が巨大化したような印象を抱くことがあります。例を挙げると、丁度双眼鏡の視野円に収まるような一本の樹木を見た時、根本から樹高を意識したときのその大きさに見合うパースペクティブの無さは、あたかも自分が木と同じ大きさになって見ているような錯覚を生じるときがあります。写真展などでたまに見掛ける、長玉(超望遠レンズ)を使って遠近感の乏しさを強調するようなフレーミング、トリミングで焼かれたプリントは、見慣れた物体、風景にも、不思議な魅力を付け加えるものだと思いますが、接眼部から目を離さず、ずっと見ていることの出来る双眼鏡、状況であれば、そのような、超望遠レンズの作り出す光景を生々しく、しかも立体感を伴って見ることが出来ます。もっと下世話に言えば、テレビカメラでしか近寄れないような、例えば、高速道路を高速で行き交う車の流れを、それと同様な大きさと迫力の立体画像で見ることが出来るのが双眼鏡なのだと思うのです。ナショナルジオグラフィックなどの写真は当代一流の冒険家であり写真家である方達のものがおおく、非常に見応えがありますが、私にはそのような場所には行けず、また機材や技能もありませんが、身近な風景や事物でも双眼鏡によって、テレビや写真などの平面的な媒体では味わうことの出来ない、いままでに気づけなかった迫力や魅力があるのを思い知り、また、それを出来るだけ見つけて、愉しもう、と思っているのです。