テキスト主体

懐中電灯と双眼鏡と写真機を
テキスト主体で語ろうとする
(当然、その他についても、語ったりする)

大阪市長選

2014-03-05 22:47:55 | シロートの戯言
大阪市にお住まいの方々とお話しすると、私の身の回りでは、ほぼ二つに分かれます。
橋下元市長が何をやってるのか分からない、という派、橋下元市長は応援するが、このままではジリ貧でどうしようもない派、です。
考えてみると、失職した橋下元市長は、市長選挙で当選して着任するまでは、単なる団体職員なわけで、この選挙戦の盛り上がらなさとも相まって、彼の率いる政治団体にも、軋みが生じていると云います。
上の両派に共通していて、今回の選挙戦の盛り上がりの欠け方の原因でもあるのが、マスメディアの橋下サゲ、あるいは無視の姿勢です。
橋下元市長が選挙をする要因となった、議会での、大阪都構想に表面上賛成しながら、その検討手法をサボタージュすることで、阻害要因となる、という反対集団の行動について、その是非も含め、かなりの大阪市民(有権者)が詳しく経緯をご存じでない、そういうある意味無責任な報道っぷりに、あらためて、マスメディアの横暴を感じます。
個人的には、橋下氏含めた維新の会のちからでは、大きな構造を変えるのは困難だろうと思ってはいるのですが、できれば、ガチの戦いのなかで、雌雄を決するようなダイナミズムがないと、政治が社会そのものを先細りにさせてしまう、そして、それに加担するマスメディアの不実な行動に、憤慨しているのです。

この国に生まれ育った一個人としての個人的宗教観

2013-12-26 23:45:52 | シロートの戯言
小さい頃はじいさんばあさんと同居してたので、おじゅっさん(住職さん)が来て、読経をするときには、ばあさんの後ろに座って、一緒に手を合わせていたものです。
岩おこしなど、なんらかのお菓子をもらえるから、というのが理由の一つではあったのですが、それでも、礼讃偈(らいさんげ)や佛説阿弥陀経などは、幼い子どもに特有の記憶力で諳んじていたものでした。
長じてからは、日本人らしい無神論者(外国人から見た場合)っぽい意識で、特に宗教を意識することなく過ごしていますが、それでも、先祖や亡くなった家族を敬い、祀る気持ちはあります。
遠い世代の親族には、戦没者、戦中戦後に病気や怪我で亡くなった方も居られますし、小さな頃には、繁華街で戦傷者の社会鍋にお金を入れたこともあります。
そういった、ごく普通の気持ちに対し、戦後の歪んだ教育、世論などが、戦前戦中の日本の体制を全否定する誘導方針から、無辜の戦没者をも含む慰霊施設に対し欺瞞に満ちた糾弾を行ってきました。その尻馬に乗るように、極東軍事裁判の当事者ですらなかった中共や、さらには同じ敗戦国であり戦犯とされている人すらいる韓国が、日本のエセ左翼の尻馬に乗る中共の更にその尻にへばり付くようにして、同じように糾弾しているのは、哀れみすら感じるような滑稽さだと感じます。
敢えて些事に囚われた見方をすれば、戦犯合祀の問題や政教分離の問題はあるかもしれませんが、今の日本という国、国体は、WW2を含む歴史の上に建つものですから、国民の代表を任ずる人が、戦没者の慰霊に赴くことは、個人的な宗教観からも、なんらおかしいことでは無いように思いますし、サンフランシスコ講和条約や、各国との国交回復時の諸条約により、日本国内での問題に口を差し挟むのは、それに呼応する国内のマスコミなどが無い限り、奏功するものでは無いと考えます。
以前にも述べた様に、この国では、亡くなった方々は、仏や八百万の神々とよく似た立ち位置の先祖となり、現世の人の間のどこかにあります。その形は、どんな言葉で横槍が入ろうと、連ねられてきた思いとして、変わることの無いものです。

長距離走行と自動車の電子制御スロットル

2013-12-07 23:46:08 | シロートの戯言
電子制御スロットル、アクセルペダルの踏みこみ量を電気信号でフューエルインジェクションシステムに伝達し、サーボ機構によって燃料噴射量を加減するシステムのことですが、昨今のクルマではごく当たり前に使われている機構です。ただアクセル踏みこみ量に比例して制御するのではなく、エンジン回転数や変速機のギア比などに同調して非線形制御するのが通常で、例えば素早くアクセルをオンオフしても、なだらかに噴射量を増減したり、CVT変速機のキックダウン操作などにも、アクセル開度の信号が使われています。
基本は、昔のワイヤースロットルと同様、様々な調整をしながらも、最終的にはアクセル開度に応じた燃料を噴射する機構です。
当然、機械的電気的な応答速度の遅延はあるのですが、遅延の殆どはあらかじめ設定された制御の働きそのものであり、ワイヤーのようにダイレクト制御でないからではありません。特にAT車では、全く問題なく機能しています。
※経年変化などに対応して学習機能があるものが殆どであり、そのためにややこしい調整やリセット作業が必要になったりする場合もあるのですが、それはまた別のお話。

日産車のTAS学習のシーケンス、全閉学習の後に行う。

長距離連続走行において、特になだらかなアップダウンがあり、比較的カーブの少ない高速道路などでは、運転操作のすべてが、良い意味での緩慢になりがちです。また最近では長距離トラックなど含めて、クルーズコントロールを使っている場合が多いようです。
クルーズコントロールは、アクセル操作無しに、設定した速度を維持する、オートドライブ機構で、かなり歴史のある技術ですが、いまだに統一した作動順序や操作方法はありません。一方、クルコン非装着/非作動のクルマは、前述の長距離走行において、緩慢になりがちなアクセル操作のために、緩やかな勾配で運転者も意識しないまま、徐々にスピードが変化します。緩やかな上りの頂点にあるトンネルなどで、無為な渋滞が発生しやすいのはこのためです。そのような極端な例でなくとも、一般道でも例えば山間を縫うような道や、橋梁が連続する勾配の変化がある道では、当たり前に発生しています。長距離走行で、トルク(≒排気量)の大きいクルマのほうが疲れにくいのは、そのような勾配の連続による意図せぬ車速の変化に煩わされないことも、要因の一つです。

であるなら、いっそのこと、電子制御スロットルに、速度も監視させて、速度の増減に応じて燃料噴射量も制御させた方が良いのでは、という疑念を覚えます。つまり、アクセルの踏みこみ量に応じて、スピードをコントロールすると言う考えです。実際、アダプティブクルーズコントロールや、衝突防止システム、ECB(電子制御ブレーキ)、ステアリングアシストなどを通じて、トヨタやGoogleの完全自動運転の試験車輌など、自動化を目指すクルマ社会において、その制御の基本となる数字は距離と速度と時間であるわけですし、実際にハードウェアとしてのクルマが充分に進歩し、インフラストラクチャーが整備されても、そういった外側の道具と環境に対するヒトの内側の心理的抵抗、慣れというものは、さらに時間がかかることが予想されます。
実際に、速度調整スイッチとなったアクセルペダルでは、例えば急な上り坂に差し掛かったときのエンジンの回転数増加や変速機のキックダウンなど、今までにあまり経験のない動作が生じたり、アクセルオフでの慣性走行後に再びアクセルオンしたときの車速に応じたレスポンスなど、問題点もありますが、実際、都会などでは、道路上の大部分を占める電子制御スロットル車に、車速感応の制御機構を付加するのは、ハードウェア的にはごく僅かな変更、既存の機構の連携、制御ソフトの変更のみで、ほぼ事足りるはずです。トヨタのプリウスの回生ブレーキで採用されたECBは、当初、電磁ブレーキから油圧ブレーキの切換時の違和感が問題となりました。おそらくはそれと同等程度の問題は生じるでしょうが、極めて少ない投資で、来るべき自動クルマ社会でのクルマの挙動の一端に慣熟することもできます。即時的な効用としては、勾配の連続変化する道路での車間距離が、車種の混交によって、様々に変化をするのを低減することも可能かと思います。間違いなく、多様で様々な検討が加えられている事案だと思いますが、個々のクルマユーザーが、もう少し意識していてもよいと思うのです。

戦車砲弾の変遷

2013-11-24 23:52:00 | シロートの戯言
火縄銃の時代、銃身の内部は滑らかな円筒(スムースボア)で、その中に、炸薬と弾頭を込め、点火して発射していました。つまり、銃身の長さに沿って進むことで、弾頭は方向性を得て、目標へ向けられるわけです。射程距離が長くなるにつれ、銃口を射出された後の弾丸が、空気抵抗で、銃身の方向からずれたりする影響が無視できなくなり、銃身の内部に旋条が刻まれ、銃身の中を進みながら、弾丸に回転を与え、ジャイロとなって跳ぶことで、弾道を安定させるようになり、飛躍的に命中率が上がりました。決闘用の短銃などでは、旋条(ライフリング)は卑怯とされ、銃身の後ろ半分のみに旋条を刻んだ、見た目には滑らかな従来のスムースボアなものも、つくられたりもしたようです。この銃火器におけるライフリングが、黎明期の冶金製鉄と金属加工、そして火薬を飛躍的に発展させることに繋がったのですが、ここではそれは別の話で、短銃であれ、火砲であれ、銃身とそのライフリング、口径(銃身長)と弾丸、炸薬、それらが高度に洗練されて兵器の中核となったのです。
戦車が登場すると、当然、それに対抗する兵器がつくられるようになります。当初の歩兵随伴の強固な移動トーチカという役割から、戦車同士の対戦が主体となり、戦車砲の役割は相手戦車の装甲を貫通し、破壊することに主眼がおかれるようになり、徹甲弾が開発されました。硬く尖った弾頭を装甲板に強くぶつけ、貫通することに特化した弾頭です。
AP(Armor Piercing)弾と云われる弾頭は硬く重い金属(タングステンなど)を弾芯、あるいは弾頭被帽として構成され、命中するときの運動エネルギーを貫通力としていました。発展型の粘着被帽を被せたAPC(Armor Piercing Capped)弾、空気抵抗を低減する被帽をも被せたAPCBCなども、より高い貫徹力を目指し、弾頭は重量あたりの空気抵抗を減らすため、細長くなりましたが、余りに細長い弾頭は、砲身のなかで、スムースに進行することが難しくなり、APDS(Armor Piercing Discarding Sabot、装弾筒付徹甲弾)が開発されます。
※弾頭のみでなく、ゲルリッヒ砲、口径漸減(スクイーズド・ボア)砲というものも考案されました。砲口へむけて口径の減少していく砲身内を柔らかい金属の覆いを被った弾芯が進行していくことでライフリングにより柔らかい部分が削られ、比較的小口径で、非常に初速の早い弾頭を打ち出す砲、砲身の寿命が短いのが欠点

APDSは、砲身よりかなり細い弾頭を2つ以上に分離するカバーで覆い、砲身内でスムースに進行し、軽い装弾筒の為に初速が向上、砲口から出た後は遠心力と空気抵抗で装弾筒が外れ、細長い弾芯のみが飛んでいくというものです。当然、より細長く、という改良が模索されましたが、弾芯の直径と全長の比が6を越えると、ライフリングによる高速回転のジャイロ効果では、弾頭の安定が保てなくなってきます。細長い回転体は偏芯ブレを起こしやすく、背の高いコマのようにスリバチ現象を起こして弾道が安定しません。故に、ライフリングの高速回転を緩和して、かつ弾道を安定させるよう、小さな翼を付けたものがAPFSDS(Armor Piercing Fin Stabilized Discarding Sabot、翼安定式装弾筒付徹甲弾)として開発されました。APDSの装弾筒に空転するベアリングを付け、ライフリングによる高速回転を弾芯に伝えにくくし、矢羽根のような翼で弾道を安定させる、細長い矢のような弾頭です。

ここに来て、従来のライフリングで弾体を回転、安定させるという大前提が、対戦車徹甲弾については必要無くなり、また対戦車榴弾の発展形であるHEAT(成型炸薬弾、モンロー、ノイマン効果により金属の内張でコーン状に成型された炸薬は、その漏斗の開口部に向かって非常に指向性の高い爆発噴流を発生、装甲を溶かす。バズーカ、パンツァーファウスト、RPG-7等の対戦車火器の弾頭はすべてこれ)弾も、回転しない方がよい(遠心力で爆発が散開する)ので、HEAT-FSとなり、滑腔砲、スムースボアが復活しました。諸国の第三世代以降のMBTでは軒並み滑腔砲が採用され、MBTの主砲に限ってはライフリングのある砲は希少種となってしまいました。滑腔砲にも使用弾頭が全て複雑高価な翼安定式弾頭に限られるという欠点がありますし、先駆者のソ連の滑腔砲では、初期に装弾筒に斜めの穴を幾つか設けて、発射時の一部のガスを弾頭に緩い回転を与える為に使っていたことは、初期のAPFSDSの若干の不安定さを窺わせます。
上図のように、非常に長い砲弾なので、装填の負担は大きく、狭い砲塔内で効率的に装填を行うため、APFSDS弾を使用する戦車では自動、半自動の装填機構が必須のようになっています。
防御側の装甲も、複合装甲や爆発反応装甲などにより、従来型の対戦車榴弾の優位性が揺らぐ中、APFSDS弾は非常に有効な対戦車砲弾としての位置を堅持しています。

異なる視点

2013-11-21 23:58:32 | シロートの戯言
ちょっとオモシロイと思った理屈の展開があります。
旧ソ連のT-54/55、T-62/64、T-72と続くMBT(主力戦車)では、乗員の体格に制限があり、165cm以下、一説には160cm未満でないと戦闘時に多大なストレスを感じるほどだと言います。

ただこの戦車は、旧ワルシャワ条約機構の国々のみならず、中東、フィンランド、中共などの国々の軍隊であまねく採用されました。当然その乗員の体格に制限を設けてまでこだわった車体の小型化(シルエットの低さ)、軽量で高機動性など高性能と、大口径主砲の威力、そして安いのが原因なのですが、その影で、従来の陸軍では使い物にならない率の多かった小柄な兵隊、いわゆるおちびさん達を活用するのに、多大な貢献をしたのだ、という理屈です。実際、兵隊に限らず高身長の男性は、そうでない人に優越するかのような風潮があって、現実社会の延長の具現とも云える演劇界でもしかり、極端な例では、シークレットブーツ疑惑のあった生前より更に伸びている共産朝鮮の前僭主の霊廟での遺体などもあります。

このような、高身長礼賛に歯止めをかけ、小柄でこそ最大に威力を発揮できる旧ソ連の戦車(後継のT-80、T-90含む)はまさに軍人の資質の革命であった、というものです。

かの私感によると、一世紀前の日本の覇権主義の台頭も、高身長の欧米型思想が、小柄でも良しとするアジア思想に屈服を強いたが故になるそうで、私もそれはどうかと思いますので、大丈夫かい?と言ってあげたいのでした。

MBT(主力戦車)不要論

2013-11-11 23:45:53 | シロートの戯言
WW2から、現在にかけての対戦者兵器の発達、対戦車攻撃ヘリの台頭などで、古くから言われているのがMBT不要論です。
古くは、磁力吸着地雷を持った歩兵による特攻で、機銃を持たなかったWW2独軍のエレファントが次々と屠られ、慌てて機銃を装備したころから始まり、バズーカやパンツァーファウスト、RPG-7やスーツケースサガーなど、歩兵科の対戦者兵器が充分な威力を持ち、さらにイリューシンIl2、Hs129など低高度低速の対地攻撃機から、対戦車ヘリが登場するにおいて、MBT不要論は喧しく議論されました。対NBC能力(放射能、細菌、ガス)を獲得してからも、中性子爆弾とそれに伴う戦域核のドクトリンが、よりMBTの重要性を削ぐような論調もありました。北海道を中心に、61式、74式、90式、10式とMBTを開発運用してきた日本に於いては、ソ連の崩壊とともに、北海道での上陸阻止戦闘の可能性が薄れ、南端の島嶼群に対する危機が高まってきたことから、予算の効率運用という観点もあって、戦車の減数が報じられています。実際、その減数を補綴するのが、空輸可能(空挺不可)なMCV(機動戦闘車)だと云われています。

平成28年から配備を目指しているMCVは73式装甲車を更新する96式装輪装甲車と同じく

整地行動能力を重視しており、その分、攻撃力防御力不整地行動能力は低下しています。なにより、装輪車に”士魂”の二文字は似合いません。


要は、陸上戦の可能性を低く見ている顕れだと思いますが、上陸後の抵抗戦力が些少な場合、上陸部隊の編成が極めて容易になるという、戦術的な観点が足りないようです。
云うまでもなく、WW1で登場した戦車は泥沼化した塹壕戦を打ち破り、戦車部隊の行くところがすなわち最前線の陣地になる電撃作戦の主役です。日本国内に於いて、MBTを無力化できる対戦車兵器群(おもに航空機)を展開できるのは米軍だけであり、それ以外の軍隊の攻勢に対し、不動の威力抵抗ができる兵器こそがMBTであり、海上、海中防御能力を高めるのが、先決ではあるのですが、侵攻側に、機動性の高い小規模部隊で充分と思わせることは、海での戦いをも不利にします。
実際、沖縄以南の島嶼群に、MBTを配備することは、今の情勢から見て不可能事だとおもいますが、このようなむやみやたらな反戦、反軍運動を維持させている背後の思惑に阿る必要はなく、傑作と云われる10式戦車の装備数を減らすのは、感心できません。



島嶼での戦いも、その先に市民の住まう地域の占領を目指しているのは間違いない(再奪還を防ぐため)ので、本来なら住民の居る島々に、充分な陸戦能力を軽んじるのは机上の空論のように思います。

General maxim

2013-11-06 23:45:30 | シロートの戯言
普遍的な格言という意味の言葉です。

以前に紹介した史上最高のツンデレ情報局員アグネス・アルガーに向けて、主人公のハリイ・マクシム少佐が、とある偉人の像を指して、「こいつの言った言葉が俺の昇進の可能性をなくした・・」云々の台詞を吐きます。アグネスはツンデレなので当然のように、その理由を促します。
「ジェネラルマクシム(普遍的な格言)ほど役に立たないものはない」。
当然、ジェネラル・マクシムにはマクシム将軍という意味もあり、昇進などにはなんら興味のない、主人公がそんな話を口にすることで、ツンデレのアグネスのクスっとした笑いを誘います。

ふと思い出した格言、手塚治虫のブラックジャックの「U-18は知っていた」に登場する、「あなたがもし 天国ばかり目をすえて 地上をけっしてみないなら あなたはきっと地獄行き」というオースチマン・オマリー(オースティン・オマリーとして知られる作家/医師の方です)の言葉。
手塚治虫はこの話に登場する完全を目指したコンピューターロボット医療センターの危うさを指摘するために、冒頭にこの言葉を持ってきました。
かけ離れたようにも思うのですが、最近の外食・食品での偽装事件に嘆息するなか、この格言を思い出したのです。
おそらくは提供されていた料理の数々は、美味しいものであったと思うのです。
良い素材を充分に下拵えし、調理したものであったに違いないと思いたい。
ところが、高価な素材を安価な素材で代替えするという、お金に囚われたその行為のために、食品業界の矜恃は根底から崩れてしまいました。
消費者側とそれを焚きつけたメディアにも咎はあります。
料理の鉄人など色々な番組で高価な素材の料理が美味しいんだといういびつな刷り込みを行い、まんまとそれに乗せられた拝金主義の到達点です。
今回の食材偽装の件に関しては、もう、云うまでもないことですが、それに関わってきた人たちと、それに加担するする雰囲気を醸成したもっと多くの人たちに猛省を促したい。

それこそ、これらの人たちに示したい格言は一杯あります。


感知外

2013-10-04 22:00:32 | シロートの戯言
あえて誤字のママの記事タイトルです。

日本の少子化、労働人口の減少、などの進行への対策として、色々な政策が検討実行されています。

その中で、一番勘違いだと思うのが移民受け入れを進めようと声高に叫ぶヒトビト。
偏狭な民族主義などではなしに、日本列島という島嶼群に住まうヒトは、なぜか内向性の気質で、バランスのとれたイデオロギーを受け入れるのに慣れていません。
絶対的存在としての神を認めない自己依存と普遍的な神々をごく当たり前に認識する諦観とを併せ持ち、刹那に弾ける激しさと、悠久に漂う従順さを、体現しています。
穏やかな四季がありながら、時に台風や地震など天災が牙をむく、その繰り返しの中で、現代でこそ、飢饉や飢餓は解消しましたが、数万年にわたって、日本人は世代を繰り返してきました。
外側から日本を見たときに、恐らくもっとも適切な形容詞の一つにwet、という言葉があります。もちろんdryの反意語としてのものです。戦後に劇的に変わった教育のなかで、その特徴はやや薄れこそしましたが、気質的な文化が醸成されたと思う、千年以上前の時点からの悠久に較べれば、まだまだその影響は僅かなものです。
そんななかで、最初に述べた諸問題に対応する策として、移民策や子育て支援は、良策ではないと考えます。移民推進は、日本人の一義的な閉鎖性の悪さを認めず、理解せずに、ただそれを解消しようというだけの愚策だと捉えます。
高齢化が促進したって、本来は懸念するような事ではない、というか、現代の社会、老政治家や老経済人が歯車を回し、高齢層が資産の大半を掌握する構造は、部族社会で年長の長老が畏敬を集めていた構造と、基本的には変わることがなく、それなら、解決の道は自ずと垣間見えてくると思うのです。
いびつな核家族化、これも問題の一つです。子育て支援は核家族化を前提とした、ある意味その推進策です。
おそらくは、無謀なほどの、視点の転換と、教育のありようによって、解決出来ると考えます。取りあえず、子どもをもっと見ましょう。子どもとふれあうことにより、子どもに必要なのは何か、それによって得られるもの、それが励起するものがどんな果実なのか、が理解できると思います。

敢えて一夫一婦制を問う

2013-09-19 23:52:26 | シロートの戯言
類人猿から、ヒトに進化し、様々な段階を経て今日の人類社会、特に先進国と云われる括りでは、一夫一婦制がデファクトスタンダードとして、当たり前のように根付いています。
遺伝子側の都合から云えば、子の成長が約束されている限りにおいて、一夫一婦制は、生き物としての進化を遅滞させる制度でしか無く、一夫多妻、多夫多妻、一妻多夫制などに明らかな優位性があります。ヒト以外の動物においても一夫一婦制を貫く種は多く、例えば鳥類、オシドリなどはその代表のように云われています。実際、鳥類の生態を研究する学者によると、ひとつのつがいが育てている仔が、そのつがいのオスとは別のDNAを持っているのは珍しくないごくありふれた事例らしいのですが、それでもつがいを解消しないのは、育児環境を確固たるものにする意義が大きいと考えられています。
実際、ヒト社会の一夫一婦制においては、オス、メスともに、遺伝子の淘汰圧は働きにくく、類人猿からヒトへの時期の圧倒的な生物としての進化の速さは、急ブレーキを踏んだように、留まってしまっているようです。実際の社会において、基督教の影響下で、厳密な一夫一婦制を理想としてきた、欧米でも、その崩壊ともいえる離婚率の上昇や、シングルマザー、シングルファーザーの増加により、実質的には、淘汰に近い現象が起き、男子力(?)の高くないオスは子を残すことが出来なくなりつつありますが、これは少子化というもっと大きな影響の中で揉み潰されてさほど機能していません。
アフリカなどの一夫多妻制が未だに残る社会が、知らぬうちに、ヒトのDNAを淘汰選別して行き、ふと気付いたら、最も生物的能力の優れたヒトになって、遅滞した先進国のヒトを凌駕し君臨する、そんな時代も遠くない、というか始まってしまっているのかもしれません。

フクシマの遅々とした現状において、アリストテレスの言葉の破綻

2013-08-30 23:34:57 | シロートの戯言
人間は社会的動物である、拙ブログでも何回か引用し、哲学や世界史のなかで、誰もが一度は耳にしたことがある言葉です。元々はアリストテレスが著書『国家』のなかで、”zoon politikon”ポリス的動物(ポリスとはギリシア時代の都市国家)である、と述べたことが始まりです。ポリスはその属する市民を守る城塞、制度、律令その他を含む概念で、共同体と言い換えても良いかもしれません。他の生物が自らの子孫を残すことを至上命題とする、遺伝子の乗り物であるのに対し、ヒトは共同体の中でそれが発展することに貢献するようなカタチで本性(善性)を発揮する、というような考え方です。蟻や蜂の高度な社会性はそれが発揮される巣において女王は一匹、つまり、より遺伝子を伝えよう、遺そうという動機で進化発展してきた社会性です。人間の共同体は地域、言語、習慣、気質、思想、文化などを共有する巣を他の巣と明確に区別して、自らの巣(社会)を発展させようとするものだと思います。当然、遺伝子による動機だけではなく、社会生物学者らがミームと呼ぶ、情報単位が伝達継承進化していくことが前提になります。
同時に、現代的な国家は領土や国民、自治組織をもって、これら共同体を維持しています。当然、これらの構成要素が損なわれると、共同体とその成員は、その損傷を修復しようとします。島国である日本では、その意識は顕著で、自然災害や疫病などで、その版図が負傷したら、それを治癒することを至上命題として、発展してきました。数百年続いた封建社会が外圧で損なわれたとき、自ら変革することによって立ち直った明治維新、関東大震災、太平洋戦争、数々の台風被害、津波、阪神淡路大震災などです。
ところがフクシマ、特に、原発の損壊放射能漏れ事故に於いて、どうもその治癒能力に齟齬が生じているようです。
放射性物質にまみれた地下水や遅々として進まない除染作業など、予算や経済効率、根深い原子力利権などお金の倫理と為政の互助的な構造が、社会共同体の損壊を、意図的に放置しています。
今の日本の技術で水漏れしないタンクの製造や、地下水の漏水を阻止できないのは、明らかに異常な事態です。原子力ムラを含んだ東電の巨大な収益構造は、どうも、社会資産より、金融資産を優先する、おかしな状態になっています。膨大な利潤を追求するための偽りの安全神話の瓦解が、反利益的な放射能漏れ事故をアンタッチャブルなものにしてしまい、2年半ものあいだ、根本的な解決への転換を図れていません。
過酷なほどあふれるグローバルな情報が、却ってフクシマの損壊の重要性を、危機を薄めてしまい、本来フクシマが持っていた首都に最も近い1~2次生産拠点である役割を擬似的に他へ代用させて、目を背けているようです。
アリストテレスが述べた社会的動物であることは、本来、効率化のための道具であった金融、経済によって雁字搦めにされ、社会資産を保全することさえままならない、奇妙な社会を作り出しているのかもしれません。

ヘッドライト(前照灯)の話

2013-08-28 23:30:03 | シロートの戯言
ここのところ、日が落ちるのが早くなってきて、帰りはいつもクルマのヘッドライトを点灯させています。むか~しは、ハロゲンバルブなんてのも無くて、シールドビームが主体の頃にクルマに乗り始めました(その前のノーマルバルブの時代は余り知らない)。
国産車はどれも似たようなものでしたが、外国車ではジャギュアの90wバルブなど明るいヘッドライトもあり、なかにはわざわざそんな高出力バルブを別のクルマに付けて、バッテリーを上げたりする、お茶目な方もいました。その後、ハロゲンバルブが高級車主体に採用されるようになり、純正以外の高出力バルブもカー用品店で一般に売られ、あるいは徒花のようにさっとはやってスグ消えたイエローバルブのようなものもありました。今ではHIDランプが軽自動車まで、標準か少なくとも純正オプションで用意されるようになり、少なくともロービームに関しては、恐らくこれ以上の光量は必要ないでしょうし、一部のクルマに採用されたLEDヘッドランプは、これ以上のLEDの飛躍的進歩の無い限り、主流とはならないでしょう。実はHIDランプはクルマの前照灯用としては最適でない性質もあって、特に短時間のオンオフにおいて、消耗しやすい構造上の特徴があります。特に良くないのが、バルブ内が熱い状態のまま再点灯する、状況で云えば断続するトンネルに合わせてオンオフするのは、HIDバルブの寿命を短くする恐れがあります。あと重力に対して鉛直方向、つまり真上向きに照射するのも良くありません。まぁクルマの前照灯ですから、45°の坂を登るウニモグでも無い限り、上を照らすのはあり得ないのですが、オンオフを頻繁に繰り返すのが良くない性質(つけっぱなし)は、その大光量から、信号待ちなどでの一時停止の時に、前のクルマのリアビューミラーに強い光が当たり過剰なグレアで眩惑する恐れがあります。普通乗用車で、適度な車間距離を取っていれば、まともなHIDランプには、光軸調整機構がありますから、さほど問題にならないのですが、RV車やミニバン、トラックなど、前照灯取り付け位置が地上高で85センチを越えるようなクルマでは、下手をすると、まともに前のクルマのミラーを射ることになります。特に車格を大きく見せるデザイン上の意図から、高い位置に前照灯のあるクルマが増えてきましたので、気に掛かるところです。
どちらにせよ、HIDランプ採用のくるまは、どことなく目つきが似通っていて、デザイン的には多様性が乏しくなったようにおもいます。個人的にはその昔のチェコのタトラの三灯ライトが個性的で好きですが、実物は生涯で一度しか見たことがありません。古くからの工業国チェコでスコダと並んで名車があるタトラのクルマ(いまはトラックしかつくっていない)ですが、リアエンジン故のフロントグリルを設ける制約がないデザインの顔つきは個性的です。

地震の巣

2013-08-23 23:35:27 | シロートの戯言
敢えて場所は特定しませんが、地震列島と云われる日本列島のなかでも、特に震源地として頻出するピンポイントがあります。さほど規模の大きくない地震ですが、震源地を示す経緯度が秒単位で一致、頻出する場所です。
調べてみると、幹線交通路のスグそばの、割と開けた郊外で、特徴的なものは何もないのです。当然全て直下型地震になるのですが、M5以下の大きさの地震ばかりなので、さほど問題になっていないのか、それとも、何らかの事由で殊更に取り立てられずにいるのか分かりませんが、恐らくは、任意の一年を通して震源地分布を調べるだけで、そのピンポイントな集中ぶりが明瞭になってくる、それほどに頻出する場所です。
幸い、私の住まうところからは遠く離れているので、個人的には余り関係ないのですが、聞いた話によると、そこの住人には、P波とS波が同時に来る直下型地震に慣れっこになって、多少の揺れなら全く気にせず、地震速報を見ることすらない、という方もおられるようです。

路面電車跡

2013-08-20 20:08:59 | シロートの戯言
大阪の府道29号線、新なにわ筋の津守あたりに、南海電車の汐見橋から伸びる高野線との交差があり、踏切と高架(跨線)橋が並行してあります。
もともとこの道路は大阪の木津川河口沿いの造船会社含む工業地帯と、堺(三宝)を結ぶ産業道路で、北は芦原橋を経て25号線、南は臨海線へと続く道路です。その昔は、阪堺鉄道の路面電車が走っていて、私も、乗ったことこそありませんが、しばらく道路の中央に残っていた軌道敷は良く憶えています。この高架橋は、もともと路面電車専用で、廃線後は舗装されて、狭い車線の対面通行道路になっています。
新なにわ筋の住之江区内に残っていた軌道敷跡も取り除かれて舗装されてからかなりになりますので、もうこの道に路面電車が走っていたことを知る人も少ないでしょう。
ただ、この高架橋は舗装されて自動車道となってからも、実はある電車の車輌が通行していました。
私、一時期、毎日のように、深夜から朝方に掛けて、この道をバイクで通っていたのですが、結構な頻度で、新幹線の車輌がこの高架橋を越えて運ばれていたのです。
上下線を、目一杯使って、カーブした橋の上をジリジリと運ばれていく様子は、見掛けるたびに立ち止まって眺めてしまう光景でした。
南海高野線の他の踏切は、信号と一体化させて、少ない運行本数故に、あまり赤にならない交差点としているところが多いのですが、この跨線橋が、狭く古めかしいままずっと残されているのは、撤去して平面交差させてしまうと新幹線車輌が運べなくなる(高野線の架線と干渉する)所為なのかもしれません。


高齢化防止

2013-08-08 23:54:15 | シロートの戯言
全く、非人道的な要素の無い、高齢化社会防止策のひとつに、先日も述べた、出産年齢の引き下げがあります。
どういう理屈かというと、逆の現象ですが、充分な遺伝子パターンを持つ集団で、繁殖年齢を人為的に引き上げると、種としての平均余命は確実に上がります。要は、引き上げられた繁殖年齢に達するまでに死亡するとか、繁殖に不適になるような遺伝子要因を持った個体、その若年で発現する障害遺伝子が淘汰されることにより、世代を重ねるに連れ、平均余命は上昇し続けます。
出産(初産)年齢の平均が下がることで、上記の場合とは逆の効果、集団の平均余命は下がり、また、繁殖可能時期が伸長されることで、必然的に総出産数も増え、高齢化社会の亢進が抑えられます。
日本やフランスなどの子ども手当や児童支援金の背景には、このような優生学的な考えもあったのですが、これをまともに説明したメディアはありませんでした。実際、ドイツのように、出産して仕事を辞めた女性に対する手厚い援助制度を、不埒な輩に食い物にされ、破綻した例もあるのですが、子どもとその育て主の世代の問題は、生物としての本来の意義からは、軽んじられているように思います。また皮肉なことに、制度や機構はともかく、心情的にその世代を軽視する風潮が支配的なのは、文明が進んだ先進国により多く見受けられるような気もします。後退するのか前進するのかは判らないのですが、先進文明的な諸処の制度や機構、それからの脱却が、高齢化社会からの解放に繋がると考えます。

ゼロエミッションから、種の繁栄まで

2013-08-03 21:48:36 | シロートの戯言
広義のゼロエミッションと狭義のゼロエミッションがあり、狭義のゼロエミッションは企業の宣伝文句として、結構使われています。特に環境保全の意味に於いて、この概念が幅を利かせ、産業活動の全ての過程で、排出(エミッション)を無くそう(ゼロ)にしようという意味合いです。
元々の動機はヒトによる自然界への負荷を無くそうという、謙虚にも思えるものだったらしいのですが、現在ではRoHSやREACHなど様々な規制が必要という、性悪説の立場からの行動になってます。
シニカルな見方をすると、中央集権支配を容易にするための一神教を遍く敷衍し、産業構造から利潤を吸い上げるための金融市場を確立する欧米型の社会構造が産み出した世迷い言とでも云ったらいいのでしょうか。

日本でもゼロエミッションを標榜する企業、工場の実態は、廃棄物、排出物の処理担当部門を自社内の別会社にリサイクル(転嫁)したに過ぎないものが多く、キレイゴトに他なりません。真顔でゼロエミッションを語る御仁がいたら、頭を叩いてやりたいくらいです。
もし人間社会全体がゼロエミッションを目指すとしたら、それは即時的なヒトの衰退滅亡に繋がる最初の一歩であるのは間違いないように思うのです。
何故、こんな話を始めたのかというと、環境保全を無謬の善で有るかのように語る人たちが多いのに辟易するからです。欧米型の環境問題には、基督教の原罪という概念が色濃く影を落としています。衣食足りて礼節を知るという言葉がありますが、個人的には環境保全はこの礼節にあたり、決して疎かにしてはならないが、ヒステリックに騒ぎ立て、恫喝めいた規制や実力行使とは相反するものだと思うのです。
文明圏での人口爆発の問題を意図的に湖塗してるもので、つきつめれば、ヒトが増えることそのものがダメなのであり、ひいては、万物の霊長などという人間の尊厳めいたもの、ヒトという種の驕りが原因です。

極端な案かもしれませんが、いっそのこと人間社会(というかヒトそのもの)を成長期、繁栄期、衰退期に世代分けしたら良いかと思います。
かつての年齢別人口ピラミッドが、もはや生態モデルから逸脱したいびつなカタチになるなかで、社会のなかでの世代差による諸問題が数々露出しています。多民族国家が民族紛争に悩むような構造です。実際、ヒトという種のなかでも、上記の三つのグループにおいて、価値観や行動様式はまるで異なるのですから、明確に構造を分けることで、3つのグループそれぞれについての課題を明晰化し、互いに補い、押しつけ合うことでバランスを取るのです。当然グループ間での偏重、不公平は、盲目的に認めなければいけません。もちろん、個の物理的処遇や家族構造まで変える必要はありません。何かにつけてヒトの生物学的社会性の低さを指摘することが多い当ブログですが、遺伝子の乗り物、文化の継承者としてのヒトの役割が、個の寿命が増大し、個が触れる情報文化が膨大になるに従って。個の役割、特に義務や責任に於いて、意識が希薄になり、モラルの欠如や拝金主義など、ヒト社会の軋轢が加速しているようにも思います。
寿命が延び、一生のなかで触れる他の個体や文化情報が、爆発的に膨大になるなかで、単純な時間的な数値以上にヒトの寿命は無理矢理引き伸ばされている時代だと捉えます。かつてのムラ社会、3世代家族では、割と明確な世代間の区分けが存在しました。3つのグループに分けることで、それぞれの生き物としての役割を常に認識し、本来の能力を発揮しやすく出来ると思うのです。

ヒトは10代半ばまでには生殖能力を獲得します。生物的にはその年代からが、繁殖の時期です。実際に子供を設ける年代までの5年、10年、20年といったブランクは、繁殖の能力、エネルギーを、社会が、社会そのものの発展のために搾取している期間と捉えることも出来ます。社会のなかの個としての自我が、自我のみの成長、繁栄に囚われすぎ、自分自身は不変の個でありつづけながら一生を全うしようとすることと、種の繁栄は、おそらく一致することではありません。