2015年7月31日-1
生命システム:仏典での見解 続篇
中村元 2005/9『〈生命〉の倫理』を引き合いにした、生命またはシステムについての続篇である。(→秘教的仏教 Esoteric Buddism の主張を調べよ。)
生物科学は、「細胞の内部に遺伝子やDNAのはたらきまでも明らかに」した。
「しかしそれは生命のはたらきの見られる物質の構造がますます詳しくなるというだけであって、次の二つの問題に対しては答えが与えられていない。
(1)生命とは何であるか? つまり生命現象の見られる物質を構成している諸元素とは異なった原理としての生命とは何であるか? 諸元素の結合のありかたの一種にほかならないのか? あるいは諸元素とは異なった独立の存在なのであるか?
この二種の見解はすでに古代哲学において対立していたが、最近代の科学をもってしてもまだ解決が与えられていない。
(2)第二に、生命は何のためにあるのであるか? これに対して科学は答えてくれない。これは、恐らく自然科学の領域外の問題であって、あるいはこういう目的論的な設問自体が無意味なのであろう。」
(中村元 2005/9: 94-95頁)。
「それ〔生命? あるいは目的による説明か?〕を説明するためには、
(小前提)生命はAである。
(大前提)Aは……のためである。
(結論)生命は……のためである。
という推論形式をとらざるを得ない。ところが、生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。
「生命ははたらきである」
と言えるかもしれないが、「はたらき」という概念が〈生命〉を含意しているので、この命題は tautology(同語反復)にほかならないことになる。生命に関して物理的、数学的、あるいは論理学的な概念をもって述語することは理論学的には可能であるかもしれないが、生命を生命たらしめる本質的なものはその概念規定の立場から逸脱してしまうからである。」
(中村元 2005/9: 95頁)。
〈「はたらき」という概念が〈生命〉を含意している」〉とは言えない。生命体ではないと思われるロボットは、はたらかない(働かない)のであろうか?
〈生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。〉と、〈生命を問題とする限り〉という枠または枠組みに限定している。生命体の振る舞いや諸性質を、(既知とした)非生命体の振る舞いや諸性質から説明するのであるから、説明は当然ながら生命という枠の外からのものとなる。
なんであれ、説明とは、
1. 或る存在者を(或る人がその意識の上での)対象とする。
2. その対象を下位システムまたは上位システムによって、エネルギーの種類と程度(=数量)によって、新たな統一的システムとして成立させるような機構を提示する(機構的説明 mechani_s_mic explanation[機械的 mechanisticではなく、機構的mechanismic]
ことである。なお、Mario Bunge (2013: 244) は、Philosophical Glossary 部で
「Explanation 説明
Description of a mechanism 機構の記述」
としている。説明として、機構的説明だけを認めているようである。
→Bunge哲学辞典(Bunge 1999: 93-94)の【説明】という項目を見よ。
「 そこで言えることは、「われわれが生きている」すなわち「われわれは生命を与えられている」というのは、われわれにとって原初的な事実である。それに対してわれわれは異なった道をとることはできない。」
(中村元 2005/9: 95頁)。
「そこで」とは何をどう受けてのことかわからない。先に引用した部分とともに、根拠立てと論理展開がよくわからない文章である。
さて、「われわれが生きている」は原初的な事実であろう。しかし、そのことは、「われわれは生命を与えられている」こととは異なる。わたしが生命体である、つまり現在生きているシステムである、ということは、誰かに生命(という種類のエネルギー? またはいくつかの種類の組み合わせのエネルギー?)を与えられているということを内含しない(含意 implication と 内含 entailmentを区別しよう)。
概念〈働き〉が概念〈生命〉を含意するという主張は、認めることはできない。概念〈生命〉が概念〈働き〉を含意するまたは内含することは、認められる。両者は同値または同義反復ではない。
それもさておき、
a. わたしは生きている。これは事実である。
b. この原初的事実を見つめて、何よりも尊いものとして大切に生きていく。
という論理?展開は、説得的である。
それはなぜだろうか? それは、(知的 intelligent)理解ではなく、感性的説得性または直感的 sixth sense's ないし直観的 intuitive 説得性ではなかろうか? つまり、自分は生きているという自覚または意識したとき、人によっては生かされているということに有り難い、感謝の念を覚えるかもしれない。人は他養生物体であり、エネルギーと物体の取り込みを他者に依存している。ありがたいことである【→相互依存性】。
〈或るシステムが生きている〉ことは、生きているという状態を維持する機構によって、説明される。もし、或る諸システムから創発した、つまり、生命を持たないシステムが組み合わされて、既にある機構とエネルギー(の種類と数量の)配分と転換によって、新しい性質が出現するとしたら、その機構を持つシステムが作動し続けることである。
引用文献
Bunge, Mario. 1999. Dictionary of Philosophy. 316pp Protheus Books. [B19991213, $41.97+48.65/7]
Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]
Mahner, M. & Bunge, M.[マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ]1997, 2000(小野山敬一 訳 2008/7/26).生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[本体13,000円+税][ISBN9784431100256][R20080720][既知の半分ほどの訂正が行なわれた本(第2刷)が、版権が移行された丸善出版から、2012/9/30にシュプリンガー・ジャパン株式会社の編集として、発行された。 ISBN9784621063552。本体13,000円+税。]
中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]
生命システム:仏典での見解 続篇
中村元 2005/9『〈生命〉の倫理』を引き合いにした、生命またはシステムについての続篇である。(→秘教的仏教 Esoteric Buddism の主張を調べよ。)
生物科学は、「細胞の内部に遺伝子やDNAのはたらきまでも明らかに」した。
「しかしそれは生命のはたらきの見られる物質の構造がますます詳しくなるというだけであって、次の二つの問題に対しては答えが与えられていない。
(1)生命とは何であるか? つまり生命現象の見られる物質を構成している諸元素とは異なった原理としての生命とは何であるか? 諸元素の結合のありかたの一種にほかならないのか? あるいは諸元素とは異なった独立の存在なのであるか?
この二種の見解はすでに古代哲学において対立していたが、最近代の科学をもってしてもまだ解決が与えられていない。
(2)第二に、生命は何のためにあるのであるか? これに対して科学は答えてくれない。これは、恐らく自然科学の領域外の問題であって、あるいはこういう目的論的な設問自体が無意味なのであろう。」
(中村元 2005/9: 94-95頁)。
「それ〔生命? あるいは目的による説明か?〕を説明するためには、
(小前提)生命はAである。
(大前提)Aは……のためである。
(結論)生命は……のためである。
という推論形式をとらざるを得ない。ところが、生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。
「生命ははたらきである」
と言えるかもしれないが、「はたらき」という概念が〈生命〉を含意しているので、この命題は tautology(同語反復)にほかならないことになる。生命に関して物理的、数学的、あるいは論理学的な概念をもって述語することは理論学的には可能であるかもしれないが、生命を生命たらしめる本質的なものはその概念規定の立場から逸脱してしまうからである。」
(中村元 2005/9: 95頁)。
〈「はたらき」という概念が〈生命〉を含意している」〉とは言えない。生命体ではないと思われるロボットは、はたらかない(働かない)のであろうか?
〈生命を問題とする限りにおいては、生命よりもより広範囲な外延をもっているAという概念が存在しないからである。〉と、〈生命を問題とする限り〉という枠または枠組みに限定している。生命体の振る舞いや諸性質を、(既知とした)非生命体の振る舞いや諸性質から説明するのであるから、説明は当然ながら生命という枠の外からのものとなる。
なんであれ、説明とは、
1. 或る存在者を(或る人がその意識の上での)対象とする。
2. その対象を下位システムまたは上位システムによって、エネルギーの種類と程度(=数量)によって、新たな統一的システムとして成立させるような機構を提示する(機構的説明 mechani_s_mic explanation[機械的 mechanisticではなく、機構的mechanismic]
ことである。なお、Mario Bunge (2013: 244) は、Philosophical Glossary 部で
「Explanation 説明
Description of a mechanism 機構の記述」
としている。説明として、機構的説明だけを認めているようである。
→Bunge哲学辞典(Bunge 1999: 93-94)の【説明】という項目を見よ。
「 そこで言えることは、「われわれが生きている」すなわち「われわれは生命を与えられている」というのは、われわれにとって原初的な事実である。それに対してわれわれは異なった道をとることはできない。」
(中村元 2005/9: 95頁)。
「そこで」とは何をどう受けてのことかわからない。先に引用した部分とともに、根拠立てと論理展開がよくわからない文章である。
さて、「われわれが生きている」は原初的な事実であろう。しかし、そのことは、「われわれは生命を与えられている」こととは異なる。わたしが生命体である、つまり現在生きているシステムである、ということは、誰かに生命(という種類のエネルギー? またはいくつかの種類の組み合わせのエネルギー?)を与えられているということを内含しない(含意 implication と 内含 entailmentを区別しよう)。
概念〈働き〉が概念〈生命〉を含意するという主張は、認めることはできない。概念〈生命〉が概念〈働き〉を含意するまたは内含することは、認められる。両者は同値または同義反復ではない。
それもさておき、
a. わたしは生きている。これは事実である。
b. この原初的事実を見つめて、何よりも尊いものとして大切に生きていく。
という論理?展開は、説得的である。
それはなぜだろうか? それは、(知的 intelligent)理解ではなく、感性的説得性または直感的 sixth sense's ないし直観的 intuitive 説得性ではなかろうか? つまり、自分は生きているという自覚または意識したとき、人によっては生かされているということに有り難い、感謝の念を覚えるかもしれない。人は他養生物体であり、エネルギーと物体の取り込みを他者に依存している。ありがたいことである【→相互依存性】。
〈或るシステムが生きている〉ことは、生きているという状態を維持する機構によって、説明される。もし、或る諸システムから創発した、つまり、生命を持たないシステムが組み合わされて、既にある機構とエネルギー(の種類と数量の)配分と転換によって、新しい性質が出現するとしたら、その機構を持つシステムが作動し続けることである。
引用文献
Bunge, Mario. 1999. Dictionary of Philosophy. 316pp Protheus Books. [B19991213, $41.97+48.65/7]
Bunge, Mario. 2013[/5/30]. Medical Philosophy: Conceptual Issues in Medicine. Paperback. World Scientific Publishing. [B20150717?, 6016円+0=6016円amz]
Mahner, M. & Bunge, M.[マーナ,マルティーン・ブーンゲ,マリオ]1997, 2000(小野山敬一 訳 2008/7/26).生物哲学の基礎.xxi+556pp.シュプリンガー・ジャパン.[本体13,000円+税][ISBN9784431100256][R20080720][既知の半分ほどの訂正が行なわれた本(第2刷)が、版権が移行された丸善出版から、2012/9/30にシュプリンガー・ジャパン株式会社の編集として、発行された。 ISBN9784621063552。本体13,000円+税。]
中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]