生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

生命システム:仏典での見解

2015年07月30日 14時57分47秒 | 生気論
2015年7月30日-2
生命システム:仏典での見解

中村元〔/東方研究会(編)〕.2005/9/20.〈生命〉の倫理.234pp.春秋社.[本体2,500円+税][b181.6]


生命システムの定義
  「現代多くの生物学者に採用されている見解は、生命ある体系とは「外界との間に明確な境界をもち、その構成物質の一部は絶えず外界との間で交換されているにもかかわらず、少なくともある期間についてみるならば、その全体としての性質は変化せずに保たれているものである」(4〔=『ブリタニカ国際大百科事典』11巻、260頁〕)というのである。」
(中村元 2005/9: 8頁)。


任意的運動の場合: [動力因、機会因]→結果、
不任意的運動の場合:[動力因、機会因、目的因(動機)]→結果
  「動物の有機的運動は、任意的なものもあり、また不任意的なものもある〔略〕因果関係の連結関係に〔、〕〔24頁/25頁〕ある種の相違が存する。〔略〕
 〈因果関係〉に翻訳すると、不任意的の生命現象の場合には、動力因、機会因と結果との関係になるが、任意の生命現象の場合には、その上に目的因〈動機〉と結果との関係が一つ加わっている。
 いずれにしても、われわれの生存の根底に存する力が、それを発現させているのである。その力は単に物理的な力としては尽くせないものがあり、それを生理学では生命力(Lebenskraft)とよび、それが意識をともなっている場合には、哲学者は心理的な呼称を用いて、魂(Seele, soul)と呼んでいた。
 ただ生命力、あるいはさらに魂が、いかなるものであるかということになると、不可知であると言わざるを得ない。〔略〕その本質を概念によって規定することはできない。」
(中村元 2005/9: 24-25頁)。

 生命力のドイツ語のLebenskraftは、そのままの英語では、life forceになるが、vital forceがよく使われる。vitalの語源は、ラテン語 vita(命の意)からである。
 さて、意識とは何だろうか?。「物理的」および「力」とは何だろうか?。
 ショーペンハウアーやドイセンの意志 der Wとはille、また無意識的意志 der unbewuste Wille とは何だろうか?

  「われわれには、思慮分別をともなわない盲目的な衝動としてはたらくものがあり、刺激によって規定され、わが有機体のうつにおけるあらゆる不任意の動きを遂行し、消化・血液循環・呼吸・分泌などの作用により、身体を養い、その発育を促すところの内面的な衝動原理があるといえよう。それが生命なのである。
 人知の進歩とともに生命の本質に関する哲学的思索も明確化したが、大別すると、生命の構造については、
 一、生命を非物質的な特別の力の作用と見る生気論と、
 二、生命を単に力学的な機械装置とみなす機械論と、
二種の見解がある、と言えよう。」
(中村元 2005/9: 26頁)。

  「仏教の哲学大系では「生命原理」を意味する言葉として「命根 みょうこん」(jivitendriya)というものを考えるようになった。生命の力をもっている原理を命根と呼ぶ。〔略〕「生命原理」は物質的なものでもない、そうかといって純精神的な原理でもない、そのどちらでもない、と規定されている。
 その原理は、人がこの世に生をうけてから死にいたるまでのあいだ持続し、体温(なん usna)と意識(識 vijnana)とを維持するものである。」
(中村元 2005/9: 66頁)。

  「説一切有部という学派〔略〕は、寿命と体温と識別作用(認識作用)がそれぞれ独立の実体的な原理であると考えた〔略〕。そうして、生命(寿)は体温(【なん】)と意識(識)を維持し、また体温と意識とはまた生命を維持して、両者は相互依存の関係にあり、死にのぞんでは、生命と体温と意識とが肉体から去ると考えていた。この生命、または生命原理は、他のもろもろの実体とは異なった一つの別の実体(dravyantara)として存在すると考えていた。そうしてその生命という実体が去ると、人は精神作用をも失ってしまう。」
(中村元 2005/9: 67-68頁)。