生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

Bunge哲学辞典:probability paradoxes 確率の逆説

2012年07月21日 23時25分41秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月21日-4
Bunge哲学辞典:probability paradoxes 確率の逆説
 
probability paradoxes 確率の逆説 [BungeDic1: 223-224]
 【a 日常的知識に根ざすもの】次の逆説は、確率のついての↑【日常的 ordinary】知識の概念の背後に潜む危険〔リスク risk〕を浮き彫りにするはずである。世界には今、およそ60億人の人々がいるとしよう。或る一人の人がアメリカ大統領にでたらめに選ばれる確率は、たったの1 : 60億 = 0.0000000017である。よって、次の論証が成立すると思われるだろう。(1) 或る個体が人であるならば、その者はたぶんアメリカ大統領ではない。(2) ビル・クリントンはアメリカ大統領である。(3) したがって、ビル・クリントンは(たぶん)人ではない。しかしこれは、妥当な結論ではない。実際、その前提は、

  A あらゆるxについて、xが人であるならば、xがアメリカ大統領である確率 = 0.0000000017。
  B ビル・クリントンはアメリカ大統領である。

しかし、AとBの連言命題からは、何も出てこない。仮説によって、当該の全母集団(または標本空間)は、現時点での人類である。よって、この母集団からでたらめに選ばれた一個体は、残りの者と同様に必然的に人である。それで、このような個体がアメリカ大統領であるかないかは、無関係である。つまり、このような個体は、仮定によって、人である。教訓:日常言語にご注意、特に「確率」という語を使うときには。
 【b 主観的解釈に根ざすもの】驚くことではないが、↑【主観的】(またはベイズ流の)確率は、逆説に満ち満ちている。それらのうちの一つは次の通りで、伝説によれば、1966年の理論生物学会議をだいなしにしてしまった。マタイ、マルコ、そしてルカの三人の囚人のうち、二人が処刑されることになっている。しかしマタイは、そのことを知らない。自身が処刑される機会は2/3だとマタイは信じる。彼は、処刑される予定の一人の名前はマルコなのかルカなのか、教えてくれと看守に尋ねる。マルコが処刑されるだろうと、看守は答える。忠実な主観主義者であるマタイは、幾分か救われた気がする。つまり、この情報によって、彼が処刑される機会は2/3から1/2に減ったと信じるのである。マタイは正しいか? 否である。なぜなら、処刑されるべき個人は、すでに選ばれていたからである。つまり問題は、偶然とは無縁である。よって、確率について論じることは正当化されない。処刑される二人の囚人がでたらめに選ばれたのならば、マタイが選ばれる確率は2/3であっただろう。そして、看守たちがマルコに刑を宣告した後に、マタイとルカの間で籤引きをすると決めた場合にのみ、マタイの処刑の機会は実際に1/2に下がっただろう。しかしこれは、問題の基礎事実〔data〕の一つではない。教訓:主観確率にご注意。予感に数をくっつけたからといって、よりまともになるわけではない。


Bunge辞典:probability 確率、probability calculus 確率解析

2012年07月21日 21時56分06秒 | Mario Bunge哲学辞典
2012年7月21日-2
Bunge哲学辞典:probability 確率、probability calculus 確率解析
 
probability 確率 [BungeDic1: 222-223]
 でたらめさ randomness、無秩序 disorder、または乱雑さ messinessの測度。極値は、p=0 とp=1であり、それぞれ、完全な秩序と完全な無秩序に対応する。中間の値は、秩序の中間的程度を測る。たとえば、熱力学第二法則によれば、無秩序は秩序よりもありそうなことである。一日の仕事の後の人の机を見よ。

 
probability calculus 確率解析 [BungeDic1: 223]
 ↑【確率】についての数学的理論。ここには、基本的抽象理論の諸基礎がある。基礎となっている諸理論とは、通常の(古典的)論理、素朴な集合理論、初等代数学、そして解析学〔analysis〕である。原始概念:次の諸前提によって陰に定義された、集合から単位間隔の実数への、確率関数 Pr。公理1:Sは任意の空ではない集合で、FはSの部分集合の族〔集合 family〕とすると、Fの元〔要素 member〕の和集合と積集合〔共通部分〕は、すべてFにある。公理2:Prは、Fから実数の[0, 1]間隔への関数である。公理3:FにおけるいかなるAについても、0≦Pr(A)≦1。公理4:AとBが、Fの積集合ではないところの元であるならば、Pr(A∪B) = Pr(A) + Pr(A)。公理5:Pr(S)=1。この理論は半抽象的である。確率関数の独立変数は、特徴のない個体の集合だからである。これらの集合はしばじは「事象 events」と呼ばれるけれども、物理的事象を表わす〔represent〕とは限らない。相対的頻度または信頼性という概念も、公理に現われてはいない。この意味論的中立性によって、確率解析のすべての事実的科学と科学技術におけめ応用が可能となる。しかし、すべての正当な応用は、客観的機会 objective chance またはでたらめさ randomnessという概念を伴う。↑【蓋然論的哲学】、↑【確率の逆説】。


『リスク』概念の使い方

2012年07月21日 00時07分03秒 | 生命生物生活哲学
2012年7月21日-1
『リスク』概念の使い方

 『科学』2012年1月号の特集は、「リスクの語られ方」である。そのなかの、竹内啓「確率的リスク評価をどう考えるか」は客観確率と主観確率とについて、

  「客観確率〔略〕は「確率」が、対象となっている事象そのものの性質だと考えられるのに対して、〔略〕〔主観確率〕では特定の事象はおこるかおこらないかのどちらかであって、「確率」はそれに対して人々が下す判断にすぎないということである。」

と書いている。具体的には、

  「かつて私は〔略〕「原子力発電所が大きな事故を引きおこす確率はきわめて小さく、1万人の死者が出るような事故の確率は年に一万分の1以下である。したがって原子力発電所は自動車よりも一万倍以上安全である」という文章を読んだことがあるが、このような議論はナンセンスである。原子力発電所の大事故はおこらなければ死者はゼロであるし、もしおこって1万人も死者が出るようなことになったら大変であって、その時「期待値は一人であった」といっても無意味である。」

と書いている。結論的に、

  「私は「すべての人の生命を尊重する」ことを第一義とする社会はモラルの高い社会であり、それを政策の第一原理とする国は、品位のある国というべきであると思う。そうしてこの原則が守られていると感じられれば人々は安心を得ることができ、そのために努力していると認められる政府は信頼される。」

と述べている。

さて、電網上で、松原望「環境学におけるデータの不充分性と意思決定」では、

  「 統計学では、データをもとに様々な意思決定を行っていきます。しかし、環境問題にこの論理を持ってくると、対応が手遅れになってしまうことになります。被害の結果が出ているにも関わらず、何もしない、というおかしなことになってくるのです。私の疑問は、科学的な厳密性というものはそんなに必要なのかということです。ここで出てきている「科学的」ということは、対応を行わない根拠として使われているのです。私は統計学者として、こういう問題に対してモノを申したい!と強く思っています。人の命が関わっているときに、「科学的なデータがないから何もできません」という論理が通用するのでしょうか。」

と述べている。

 
[T]
竹内啓.2012.1.確率的リスク評価をどう考えるか.科学 82(1): 63-67.

[M]
松原望.環境学におけるデータの不充分性と意思決定.[受信:2012年7月20日]
http://www.sanshiro.ne.jp/activity/01/k01/schedule/6_08a.htm