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生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

『リスク』概念の使い方

2012年07月21日 00時07分03秒 | 生命生物生活哲学
2012年7月21日-1
『リスク』概念の使い方

 『科学』2012年1月号の特集は、「リスクの語られ方」である。そのなかの、竹内啓「確率的リスク評価をどう考えるか」は客観確率と主観確率とについて、

  「客観確率〔略〕は「確率」が、対象となっている事象そのものの性質だと考えられるのに対して、〔略〕〔主観確率〕では特定の事象はおこるかおこらないかのどちらかであって、「確率」はそれに対して人々が下す判断にすぎないということである。」

と書いている。具体的には、

  「かつて私は〔略〕「原子力発電所が大きな事故を引きおこす確率はきわめて小さく、1万人の死者が出るような事故の確率は年に一万分の1以下である。したがって原子力発電所は自動車よりも一万倍以上安全である」という文章を読んだことがあるが、このような議論はナンセンスである。原子力発電所の大事故はおこらなければ死者はゼロであるし、もしおこって1万人も死者が出るようなことになったら大変であって、その時「期待値は一人であった」といっても無意味である。」

と書いている。結論的に、

  「私は「すべての人の生命を尊重する」ことを第一義とする社会はモラルの高い社会であり、それを政策の第一原理とする国は、品位のある国というべきであると思う。そうしてこの原則が守られていると感じられれば人々は安心を得ることができ、そのために努力していると認められる政府は信頼される。」

と述べている。

さて、電網上で、松原望「環境学におけるデータの不充分性と意思決定」では、

  「 統計学では、データをもとに様々な意思決定を行っていきます。しかし、環境問題にこの論理を持ってくると、対応が手遅れになってしまうことになります。被害の結果が出ているにも関わらず、何もしない、というおかしなことになってくるのです。私の疑問は、科学的な厳密性というものはそんなに必要なのかということです。ここで出てきている「科学的」ということは、対応を行わない根拠として使われているのです。私は統計学者として、こういう問題に対してモノを申したい!と強く思っています。人の命が関わっているときに、「科学的なデータがないから何もできません」という論理が通用するのでしょうか。」

と述べている。

 
[T]
竹内啓.2012.1.確率的リスク評価をどう考えるか.科学 82(1): 63-67.

[M]
松原望.環境学におけるデータの不充分性と意思決定.[受信:2012年7月20日]
http://www.sanshiro.ne.jp/activity/01/k01/schedule/6_08a.htm