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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

サムエルの経験 〈第4天使の使命〉16

2013年05月20日 | 日記

  

  もう罪を犯してはいけない 35

死がイエス様をつかまえておくことができなかったのは、イエス様が命そのものだったからだ。その命は、罪の力が打ち勝つことのできない命だ。神様のみ子を信じる時に、この命は私たちのものとなる。それだから、イエス様の血潮で罪の癒しを受けたら、私たちは、その方の復活の力、その方の命で生き続けていかなければならない。

イエス様は、地上生活のあいだ、この命によって生きられた。サタンは、この命に勝つことができなかった。同じように、サタンと罪の力は、この命を持つクリスチャンに打ち勝つことはできない。 

すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちに、とどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない(ヨハネ第1の手紙3章9節)

 サムエルの経験 16 

本当に声が聞こえるという意味でしょうか。そういった声が実際に聞こえるという意味ではありません。聖霊的な洞察、理解の事を言っているのです。神学者たちのいろいろ教えることとか、そういったものを通してではありません。個人的な経験ですね。私は按手礼を受けた牧師として長年働いてきました。にもかかわらず、神様の言葉を本当には理解できていなかったのです。確かに神学的に理解し、教えていました。神学校へ行って学んでまいりました。そこで学位も受けました。ですから、神様の言葉は分かっていると思っていたのです。しかし、実はそうではありませんでした。自分ではわかっていると思っていました。そして、実際に説教もしていました。もう、いろんないい説教を語りました。いろんな人たちからカン先生の説教は素晴らしいと言われました。あなたこそは教会の将来の指導者にふさわしいと言われました。にもかかわらず、私の説教で、悔い改める人がいなかったのです。私の説教を聞いて改心する人があらわれなかったのです。そこで、自分自身の心と戦いました。何が間違っているのだろう。もっと勉強すべきだろうか。もっと説教学を、深い技術を会得すべきだろうか。そしてわかったのが、私の魂のうちに聖霊が欠けていたという事でした。

もし、聖霊が私の心を支配しておられるのならば、その証拠が見られるに違いないのです。その証拠とはなんでしょうか。罪に勝利するという証拠であります。それはどういう意味でしょうか。神の戒め、命令に従うようになる事です。そのことがわかってきたのです。そして、私は悔い改めました。イエス・キリストのいさおしによって私の魂が洗われていきました。自分自身を神の祭壇にささげて献身しました。自分が本当に邪悪な罪人であるという事を、私は神様の前に認めたのです。そして神様の哀れみ、情けをこい願いました。「イエスさま、どうぞ私を憐れんで下さい」。それから私は本当の意味で聖書がわかるようになってきたのです。私にとって証の書が全く新しいものになってきました。神の言葉、イエス・キリストの啓示が見えてきたのです。それから私は、また語りはじめました。人々にまったく新しい語りかけをしたのです。そうしたら奇跡が起こりはじめました。人々が揺り動かされ、ゆさぶられて、イエス様の前に悔い改めるのが見えてきました。泣いて自分の罪を告白し、イエス様の許しを請い求める人が現れてきたのです。そこで自分は思いました。「これはなんだろう、どういう事だろう」。今まで見たこともない現象だ。なぜ人々は悔い改め始めたのだろうか。自分にその力はないはずだから、だれがそれをやっているのだろう。これは神様のみ業に違いない。聖霊の業に違いない。ですから自分の手柄にすることはできませんでした。そして、恐れの念が出てきたのです。