もう罪を犯してはいけない 23
Chapter5 カルバリーが語る三つの事実
クリスチャンの人生の中心はキリストの十字架だ。
そこからすべての事が出発する。
私たちは、十字架上で亡くなられた主の愛を
正しく理解すべきである
(1)十字架は十戒の不変性を語る
多くの人が、イエス様が十字架で神様の律法を廃したという。しかしそれは、正反対のことである。十字架は、神様の律法を廃しないで、むしろ完成させるのだ。
「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである」(マタイによる福音書5章17節)
義人の道は真理の道で、主の命令と戒めを守りながら生きる道だ。神様は私たちを許してくださり、主の血潮で私たちの良心を清めて下さったが、私たちに求められる原則と戒めは変わりがないことを、まず理解しなければならない。
サムエルの経験 4 祭司の堕落
エレン・G・ホワイトはこのようなことを言っています。「真の改心の経験は教会でまれにしか見られない」と。世界中が、神様のみ言葉の飢饉に苦しんでおります。初めに、サムエル記上を開いてください。ここで、サムエル記上から興味深いところを見てみたいと思います。サムエル記上、3章の1節をご覧ください。お読みします。「わらべサムエルは、エリの前で、主につかえていた。その頃、主の言葉はまれで黙示も常ではなかった」
当時、エリという人が大祭司として国を治めていたころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかったという状態でありました。神の民は、本当の神様の言葉というのを知らなかったのです。大祭司も祭司たちも、よくわかっていませんでした。彼らは神様の言葉を理解できず、神様の声を聞くことが出来ないでいました。神様のみ言葉の教えというのは、もう、身の周りにいくらでもあったにもかかわらずです。霊的に盲目な状態だったのですね。世をねたむ、むさぼる、そういった思いを彼らは持っていました。祭司たちも実に腐敗していたのです。大祭司の息子たち、ホフニとピネハスは腐敗していました。彼らは本当に堕落していて、聖所の中で女性と関係を持つという、そういったことを大胆にもやっていたのですね。神様に捧げられたもの、献金なども彼らは平気で盗みました。民が捧げものを持ってきます。いけにえの捧げもの、動物がいましたけれども、そういったものを屠って焼いて捧げものにするわけですけれども、彼らはその中で一番良いところを自分のためにとって、肉を焼く前に肉を生のままで彼らは食べてしまいました。まだ肉から血がしたたっている状態のままそれを食べたのです。彼らの味覚も本当に堕落していました。
現代でも多くの人が肉を生のまま食べますね。お魚の刺身だけではなく、豚肉、牛肉でも生で食べる人がいます。そういった人たちを見たことがありますか?日本では食べませんか。お魚だけじゃなくて豚肉とか牛肉とか生で食べますか? 最近なんか食中毒事件がありましたね。韓国では非常に豪華な食べ放題のレストランなんかに行きますと、そこに大きな皿がありまして、刺身のように生の牛肉が切られて置いてあります。その皿の上に血が滴っているのが見えます。そういう肉が大好きな人がいるのです。そういう皿は特に人気があって早くから空っぽになります。