「職務よりも我が子優先」は労働の問題ではありません

2014年09月24日 | 日記

生徒と我が子の入学式、どっちが大事か?

教育評論家・尾木直樹さんの新刊『教師の本分』の副題です。

50代の女性教諭が自分の息子の入学式に出るために、勤務先の高校の入学式を休んだ(新1年生の担任となってました)ことが問題となり、大きな話題となりました。

私はまだ5歳の娘しかいないので、昔のままの常識で「高校生の子の入学式って出ないといけないのか!」とびっくりしました。今は出るのが普通なのか!と隔世の感あり、などとのんびりしたブログ記事を書いていたのですが、

尾木さんは、自身のブログで女性教諭について、教育公務員としての自覚に欠けるというようなことを、女性教諭に批判が集中しないよう配慮しつつ書いたそうですが、結果はそのような配慮が必要なかったほど、女性教諭ではなく尾木さんへの批判が多かったのです。ブログ炎上の定義は一日4000件以上のアクセス数だそうですが、14~15万ほどのアクセスがあったようです。

尾木ママは私たち女性の味方だと思っていたのに、本当は敵だったのね!

ママなのに女性の気持ちがわかってない!

という批判もあったとか…

「尾木ママ」というのはテレビ出演の際に作られたキャラクターであり、尾木さん自身は現場での教師経験、研究者としての経験合わせて40年以上のキャリアのある教育問題のプロです。一般向けの軽いタッチの育児・教育本も多いですが、専門書も多く、それらは学力低下や学級崩壊、子供の貧困などについて非常に丁寧な検証がなされています。

女性の気持ちがわかる・わからない・敵・味方という問題ではないと思いますが、感情的でヒステリックな批判が多かったそうです。論点のズレた批判として、ワークライフバランスをどう考えているのか、労働者の権利無視でブラック企業と同じではないかという意見も紹介されていましたが、確かに「なぜ、そこが論点になる?」と思いました。

私自身、ワークライフバランスは大事だと思うし、有給休暇も当然の権利と思うけれども、この件とは別に、なんか違う、そういうことを言っているのではないのに…ともどかしく思うことがよくあるのです。権利の主張が暴力のようになってしまっていることが…

反論もせず、ただただ隷属するか、むき出しの敵意でもって権利を主張するか。コミュニケーションという言葉・行為に関することが大流行の昨今ですが、流行っている以上いずれ廃れるのでしょうか。年に数回のコミュニケーション研修で関係が改善されるなら簡単なのですが、外部講師に高額な研修費を払ったところで実際は全く改善は望めないと思います。

尾木さんは、女性教諭の勤務する学校では、教師間のコミュニケーションがなかったのではないかと推測しています。入学式に担任が欠席することについて、他の教員は世間同様に賛否両論あったと思うのですが、結局学校内で議論されることもなく欠席という事態になってしまったのではないかと。

尾木さんは著書のなかで、親子の結びつきを第一に考える最近の傾向と、学校あるいは教師へのある種の社会的な不信感の広がりを指摘しています。そして、親子の結びつきの強さからくるモンスターペアレントの問題と、そこから見えてくる、子どものみならず親が自分自身の自立の機会をも失っている現状を憂えています。また、学校・教師不信に至った理由として、教師の人事考課、成果主義に基づく数値目標の導入、教師の多忙さ、子供への不寛容施策の指導方針、IT化やグローバル化の進展による教師の地位の急速な低下を挙げています。

教育について意見を言うのに資格は必要なく、誰もが自由に意見を言えるのはすばらしいことだと思います。しかし、権利とばかりに無責任な自分勝手な考えを攻撃的な口汚い言葉で、匿名で発するのは自由を勘違いしていると思います。

世間一般では忘れ去られてしまった話題かもしれませんが、改めて考えてみたいと思います。これはワークライフバランスや有給休暇の権利といった労働問題が論点のものではないことを今一度言いたいです。

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