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人類を翻弄した気候変動

 公転軌道の変化による日射量の変動*01は、1万5000年ほど前に地球上の気候に大変化をもたらします。約7万年続いた氷河期(最終氷期)が晩氷期から後氷期に入り温暖化が始まったのです。その後1万2900年から1万1500年ほど前にヤンガー・ドライアス期という寒の戻りを経た後、学術的*02にはアイスランドやイギリスなどの諸島を除く大陸ヨーロッパで、氷河の集合体である氷床が消滅した1万1784年前から安定した温暖期が始まり現在に至っています。それを地質時代区分では完新世(かんしんせい)と呼んでいますが、実はこの完新世の時代も温暖化が安定していたわけではなく、地球規模のいわゆる寒の戻りが繰り返し襲ってきたことがわかっています。地質学者のジェラード・C・ボンドさんによれば、この完新世には1500±500年ごとに寒暖を繰り返した8つの地球規模の気候変動(ボンド・サイクル)がありました。これにヤンガー・ドライアス期と日本の江戸時代にあたる450年前におこった小氷期を加えた10の寒暖のサイクルがこの1万5000年ほどの間におこっているのです。
 
歴史現象の経済理論的アプローチを展開する経済学者の明石茂生さん*03によれば、これらの寒暖のサイクルの中でも人間の活動との関係があると推定されるのは、イベント0(小氷期400B.P.*04)、イベント1(1400B.P.)、イベント2(2800B.P.)、イベント3(4300B.P.)、イベ ント4(5900B.P.)、イベント5(8200B.P.)、そしてヤンガードリアス(ヤンガー・ドライアス)・イベント (12500B.P.) の7つだ、といいます。この7つの寒冷化イベントが反応過程として文明の崩壊・衰退ないしは変容をもたらした、というのです。これらの気候変動は地球規模にわたる急激なもので、経済システムを変容させ、その基盤に乗った政治システムの動揺・崩壊をもたらしたのです。しかしながらこの1万5000年ほど前に生じた晩氷期から後氷期への温暖化という現象が、人類が文明化への道を辿り始めた出発点であったことはいうまでもない、と明石さんは指摘します。
 
氷河期が終わり、長いあいだ雪に閉ざされていた洞窟から、温暖・湿潤化し、落葉ナラを中心とする森が拡大した大地に飛び出した人類は、豊富な食料のもと定住生活をはじめ、人口も爆発的に増加していきました。そこに襲った最初の地球規模の気候変動であるヤンガー・ドライアス期の寒冷・乾燥化は彼らに大変な試練を与えることになります。人口の増加とともに複雑化した社会関係を乗り切るために“考える”自己意識を発達させていった人々は、森林と草原の狭間にある湿原で生育していた野生麦を取捨選択して、栽培化への道筋をつける*05とともに、日干し煉瓦の生産と使用などによって、自らの意志によって環境の悪化を乗り切る術を見つけ出していったのです。


Bond, G., Kromer, B., Beer, J., Muscheler, R., Evans, MN, Showers, W., Hoffmann, S., Lotti-Bond, R., Hajdas, I. and Bonani, G. 2001. Persistent Solar Influence on North Atlantic Climate During the Holocene. Science 2942130-2136 Science 294: 2130-2136. www.sciencemag.org www.sciencemag.org

*01:ミランコビッチ・サイクル(Milankovitch cycle)と呼ばれるもので、1920~30年代に、セルビアの地球物理学者ミルティン・ミランコビッチ(Milutin Milanković)によって提唱された地球の公転軌道の離心率の周期的変化、自転軸の傾きの周期的変化、自転軸の歳差運動という3つの要因により、日射量が変動する周期のこと。ミランコビッチはこれら三つの要素が地球の気候に影響を与えると仮説をたて、実際に非常に正確な日射量長周期変化を計算し、その後放射性同位体を用いた海水温の調査等でその仮説は裏付けられています。
*02:Mike Walker; Sigfus Johnsen; Sune Olander Rasmussen; Trevor Popp; Jørgen-Peder Steffensen; Phil Gibbard; Wim Hoek; John Lowe et al. (2009). “Formal definition and dating of the GSSP (Global Stratotype Section and Point) for the base of the Holocene using the Greenland NGRIP ice core, and selected auxiliary records” (pdf). JOURNAL OF QUATERNARY SCIENCE 24 (1): 3-17. doi:10.1002/jqs.1227
*03:
気候変動と文明の崩壊/明石茂生/成城大学

*04:
B.P.1950年を基点(B.P.0)とするように換算された放射性炭素年代測定による年代指標。数字が増えるほど過去に遡ることになります。1950年を基点とするのは、1953年から実施され始めた水爆実験により大気中に大量の14Cが生成され、それ以降の資料に対し14C年代が測定不可能になったためなのです。
*05:文明の環境史観/安田喜憲/中央公論社 2004.05.08

 

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限定される〈理解〉

 ヤンガー・ドライアス期の乾燥した苛酷な環境を生き抜いた人々は、日干し煉瓦を用いた家をつくるための“言語”都市をつくるための“言語”を獲得していきました。それは彼らのいわば社会的な言葉でもあったのですが、この社会的な言葉とは、いま私たちが使っている日本語や英語などの「言語」という様態をとるものだけを指しているのではなく、集団の中での社会的関係を構成するためのコミュニケーション手段のすべての様態を含むものだったのです。アブ・フレイラ2チャタルホユックで家づくりや都市づくりのためにおこなわれた一連の作業と技法は、そのひとつの様態でもあったのです。
 
人間の思考は言葉を用いて行われますが、その言葉は社会的なもので、その社会的な言葉を用いなければ、思考はできません。社会的な言葉を“聞いて”、あるいは“見て”、自らの脳内にイメージをつくることができれば、彼らはその言葉を〈理解〉したことになるのですが、このとき彼らの社会的な言葉を生み出す社会は、その生息する環境に大きく依存しているのです。そして環境にある〈意味〉の〈理解〉を操作するために思考は生まれたのですが、それが成立するためには、根本的に現実世界での経験値の積み上げ、〈重みづけ〉が不可欠で、現実世界に住み込むことによる現実世界との相互作用が特に重要であったのです。
 
言い換えれば、彼らの思考は、彼らが使用する社会的言葉によって表象される範囲に限定されていたる、ともいえるのですが、それはまた、その〈理解〉の範囲も彼らが生息する環境によって限定されていることを意味しています。家をつくるための“言語”や都市をつくるための“言語”を生み出した彼らはまた、その言語が生み出した環境によってその〈理解〉の範囲が限定されていったのです。


方形の家-あらたに生み出された“言語”はまた、その環境によって〈理解〉の範囲を限定するものでもあったのです。

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方形の家

 日干し煉瓦の家がつくられた最古の集落のひとつである後期のアブ・フレイラ(Abu Hureyra 2)では、日干し煉瓦でできた家が「方形のかたち」で密集していました。日干し煉瓦は泥を型に詰めて天日で乾燥させて固めるのですが、それを積み上げる際にもっとも都合よく納まるかたちとして「方形の型」が工夫されたのでしょう。そして方形の煉瓦を積み上げていった結果として直線の壁ができあがり、さらにその直線の壁である領域を囲い、内なる空間をつくろうとした時、必然的にそれが「方形の家」をなしていった、ということなのでしょう。
 
アブ・フレイラ2より千数百年の時を経て、同じく日干し煉瓦によってつくられ始めたチャタルホユックでは、直線の壁による方形の家が連続し、さらにそれが階段状に積み上げられた大規模なものとなっていました。そこでは各戸はすべて同じ間取りでつくられ、戸口や煉瓦の大きさまでもが標準化されていたのです。
 
それは多くの人々が住みよい家を確実に「再現」するという同一の目的のために協力して働くことが必要な状況の中で、乾燥した環境の中で家をつくるための共通の“言語”として伝搬した日干し煉瓦づくりに対し、より詳細にそのディテールが詰められ、ルール化していった結果だった、といっていいでしょう。それはまさに言葉が持つ構文論的構造と同じものをこの家をつくるための“言語”も持っていたことを示しています。
 
構文論的構造とは、ある一定の構成要素を、ある一定の構成規則に従って結合することによってできる構造のことで、その構成要素=〈かたち〉はどの表象に現れても常に同じ形をしているため、構文論的構造をもつ“言葉”もまたどのような文脈に現れても常に同じ形を保つことになります。それゆえ仲間に向かって発せられたそれは、それを受け取った仲間の心の中に同一の文脈のイメージを再現させることが可能となり、同じ文脈の中の〈理解〉を共有することができるようになるのです。
 
それがピーク時には10000人もの人口を擁したといわれるチャタルホユックの家づくりに適用されていったのです。そして家々の過度な集合がもたらす様々な問題に対処するため、家の屋上を通路として使うなどインフラ整備に関するハード面の独自な対応やルール化がなされていきました。また死者の埋葬方法など人々の人生観や習慣に関するハード的な対応としての〈かたち〉もつくられていったのです。それはまさに都市づくりのための“言語”の誕生といって差し支えないものだった、といっていいでしょう。


方形の家が積み上げられた“都市”=チャタルホユック
そこではあらたに都市づくりのための“言語”が誕生したのです。
3D Catalhoyuk: Project Animation (FINAL CUT)
from Jenn Lindsay
Çatalhöyük Resarch Projectより

 

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家をつくるための“言語”

 ヤンガー・ドライアス期の干ばつに対抗するため人々は日干し煉瓦を使い始めます。7万年前に始まった最終氷期が約1万数千年前に終わった時、満を持して洞窟を飛び出した人類は、温暖になった気候の中で、動植物が大幅に増え、食料に事欠かなくなったこの時代に、何十万年も続いた獲物を求めて移動する狩猟生活から、一定の地に定住する生活へと移行しました。ユーフラテス川沿いのアブ・フレイラに住みついた人々がその「春」を謳歌したように、集団を構成する人数も爆発的に増え、高度に複雑化した社会関係が生まれ、それに対処するために〈考える「自己」意識〉が発達していったのです。
 
ところが最終氷期が終わり温暖化が始まってしばらくして、今度は急激に寒冷化に戻る現象がおこります。彗星の衝突がその原因ではないかともいわれるそれは、ヤンガー・ドライアス期と呼ばれ、今から1万2900年前から1万1500年前にかけて北半球の高緯度で起こりました。わずか数十年の間にグリーンランドの山頂部では現在よりも15℃寒冷となり、イギリスでは、年平均気温がおよそ-5℃に低下し、高地には氷原や氷河が形成され、氷河の先端が低地まで前進してきたのです。海洋から蒸発した水は、氷や雪となって高緯度の陸地にとどまったため、河川を通じて海に戻る水量が少なくなり、海から大気に供給される水蒸気が減少しました。そのため雪のない中緯度以南の地域では、急激な乾燥が進行し、大地は大干ばつに見舞われたのです。
 
深刻な日照りで人々はわずかな食料ですら手に入りにくくなり、森林のなくなった乾燥した地域では、薪ですら事欠くようになりました。樹木の枝葉で作られていた彼らの住居もその維持が困難になっていったのです。そのような中である種の泥が乾燥すると固くなることを彼らは経験的に知っていたのでしょう。またその泥の塊の陰に寄り添うとひんやりと涼しいということも経験的にわかっていたのでしょう。彼らは木片等で型を作り、そこに泥を詰めて天日で乾燥させて固め、その固まった泥の塊を積み上げて家をつくるという一連の作業と技法を生み出していきました。それは石器などの道具の発明や火の使用などとともに人類のもっとも重要な発明と発見のひとつといっていいかもしれません。というのは、「内なる」空間である“家”をつくることの〈意味〉と〈理解〉を促進させていった集団の中で、同じ材料を使った共通のルールが確立されるきっかけをその一連の作業と技法がつくりだしたからです。日干し煉瓦は“家”をつくるための〈理解〉を即す〈かたち〉、共通の“言語”だった、といっていいのではないでしょうか。
 
洞窟の壁に彫られた32の記号が地域、年代を超えて伝搬したように、この日干し煉瓦の生産と使用は、乾燥に悩まされた地域の多くの集落に瞬く間に普及していきました。乾燥した環境の中で、家をつくるための共通の“言語”としてそれは伝搬していったのです。


日干し煉瓦は人類のもっとも重要な発明・発見のひとつかもしれません。
アドべレンガの製作風景Wikipediaより

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都市の発展と〈理解〉の操作

 今から31000年前の現生人類たちが、ショーヴェ洞窟で岩の壁に動物たちのイメージをペイントしようとした時、いま私たちが内声を聞いて“考え”るように、彼らは手の運動指令の遠心性コピーが描き出す〈心的イメージ〉を“見”て“考え”ていました。この時ショーヴェの人たちは、目撃した動物たちの姿をヴィジュアル・イメージとして実に詳細に記憶し、彼らの〈心的イメージ〉は、ほとんどこうした動物たちを見たままの姿で写し取ったものだったのです。それでもその時描かれた絵を見た仲間たちの〈理解〉は、作者の意図するそれと同一のものへと〈操作〉することができました。それは人類が〈考える“自己”意識〉をもつきっかけとなった出来事のひとつとなったのですが、今から8000年前、人工の洞窟である集合住居の、漆喰の塗られた壁に絵を繰り返し描いたチャタルホユックの人々は、その行為に抽象的な要素を加えていきます。チャタルホユックでは、ショーヴェの人々のような直截的な〈心的イメージ〉に加え、そのヴィジュアル・イメージに様々な社会的〈意味〉が重ねられていきました。人々の身振り、仕草が〈意味〉するものが合わさり、〈心的イメージ〉の中に加えられていったのです。そしてその〈意味〉をいかに効率よく伝えるか、すなわちヴィジュアル・イメージ=絵として表現できるか、ということに多くの時間が費やされました。描いては白く塗りつぶしまた描く、という繰り返しがおこなわれ、多くの人々に共通して伝えることのできる〈かたち〉、いわば“文字”の誕生へとつながる抽象化の度合いのシミュレーションがおこなわれていったのです。
 
チャタルホユックの人工の洞窟の内なる空間の中の人工の壁は、このようなシミュレーションをおこなうキャンバスとして機能しました。そして洞窟を出た人々がつくり出した、日干し煉瓦を利用した人工の洞窟=都市のさらなる発展は、“言葉”に加え“文字”を駆使した人々の、〈理解〉の操作を飛躍的に発展させていったのです。




3D Catalhoyuk: Project Animation (FINAL CUT)
from Jenn Lindsay
Çatalhöyük Resarch Projectより

 

 

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