最終氷期が終わり、洞窟からでた人々が大地の上にシェルターをつくり始め、それが集落というかたちをとり始めた最初期のものは、いまから約11500年前のメソポタミア地方、現在のシリアのユーフラテス川沿いに位置したアブ・フレイラの遺跡ではないか、といわれています。
この集落は少数の円形の住居から構成され、100人から200人の人々が住んでいたようです。住居は一部分が地面に掘られた単純なもので、屋根は木の柱で支えられ、小枝と葦の束で葺かれていました。考古学者で人類学者のブライアン・フェイガンさんによれば*01、この当時のアブ・フレイラの気候条件は総じてかなり良好で、毎年初夏の数週間に、豊かな牧草を求めて北の谷間にきまって移動してくるガゼルの群れと、春の野草、秋の豊富な木の実など、入手しやすく、また予測しやすい食糧源がそこにはあったのです。保存の容易な食糧がうまく組み合わさったおかげで、彼らは何世代にもわたって同じ場所にとどまることができた、というのです。
人間が狩猟生活を送っていた時代は、簡易な野営地はあっても基本的には獲物を求めて移動する生活でした。厳しい自然環境を避け、豊かな水を求めて彼らは移動し続けたのです。その集団は移動に適した少人数で構成され、人員が過剰になると集団が分かれていくなど、柔軟な社会構成をもっていました。人類はこうした社会的な柔軟性と移動力によって、環境変動に対応し、その勢力を拡大していったのです。
ところがこのアブ・フレイラの人々は違っていました。この場所にはわざわざ移動しなくても食料と水が豊富にありました。彼らは五百年もの間、定期的に向こうからやってくる野生動物を狩り、多くの水をたたえたユーフラテス川で魚を取り、近くの森や周囲に広がる野生植物の採取を続けながらこの場所に居続けたのです。ここには多くの人々を養っていくのに十分な資源がありました。人口は増え続け、狩猟時代には考えられないほどの人口をかかえることになったのです。
何万年もの間、ほとんど変わることのなく続いてきた人類の、周囲の環境と仲間との関係性が、この時初めて大きく変わっていったのです。
Contour plan of the mound of Abu Hureyra
*01:古代文明と気候大変動-人類の運命を変えた二万年史/ブライアン・フェイガン/河出書房新社 東郷えりか訳 2005.06.20