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「道」の表れ

 書聖とまで称され、書の世界に絶大な影響を与えた王義之の「書」とはどのようなものだったのでしょうか。唐の時代の初め、自身も「草書」の能書家として知られた孫過庭(648-703)は、「書譜」(687)の中で王義之のことを次のように評しています。「崩れる雲のような重量感あり、セミの羽のような軽妙さあり、わき出る泉のような流れあり、山のようにどっしりとした安定感がある。また、ほっそりとした新月が天空のはてに出たような、数多くつらなる星が銀河にきらめいているような構成。それはまるで天然の美そのままであり、作為的な技巧によってできるものではない。」01
 それは、春秋時代後期から戦国時代後期にかけて書かれたといわれる『老子(道徳経)』にまで遡り、その後『荘子』にも受け継がれ、老荘思想の重要概念となっていった「自然」思想*02をまさに体現した表現であった、ということができるでしょう。この「自然」という言葉は、いま私たちがよく使っている山や海などのいわゆる〈自然界〉を意味するnatureという英語の訳語として近代以降に用いられるようになった「自然」とは意味が異なります。中国古来の「自然」という言葉は「おのずからそうなっているさま。天然のままで人為の加わらないさま」というような状態、あるいは「天然的、非人為的なもの」*02を指すものだったのです。
 この「自然」思想は、その後「道教」にも受け継がれます。「道教」とは漢民族の土着的、伝統的な宗教で、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指す道(タオ)を中心概念とするもので、その道(タオ)を修めた存在として不老不死を具えた神仙(仙人)が登場します。人々は道(タオ)を極め、仙人になることを希求したのです。
 そして「書」もまた「道(タオ)」と無縁な存在ではなかった*03と古賀弘幸さんは指摘します。書の線も「道」の表れであり、作為がなく、天然自然、あるいはそのままの自分が現れている書がすばらしい*03とされていたのです。王義之もまたこの道教の熱心な信者でした。



老子を描いた彩色壁画/西漢(BC206-AD25)/中国山東省東平県/「人民網日本語版」2007.10.17

*01:書譜/孫過庭/伊藤文生訳 シリーズ-書の古典/天来書院/2017.04.30
*02:「自然」の意味について―王充の「自然」論を中心に/鄧紅(とうこう)/東アジアにおける近代諸概念の成立-近代東亜諸概念的成立-第26回国際研究集会 鈴木貞美, 劉建輝 編 国際日本文化研究センター 2012-03-29
*03:書のひみつ/古賀弘幸+佐々木一燈(イラスト)/朝日出版社 2017.05.30

 

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存在の意志が満ちた空間

 ひとつひとつがシンボルであると同時に単語(word)でもある“漢字”は、それぞれが異なる〈意味〉世界を持っています。水平方向へと理解を進めていく通常の文章読解のプロセスに加えて、垂直方向に別次元の意味世界が展開する構造となっているのです。さらに人間の手によって描画される“漢字”という文字には、本質的に“個”が表現されています。書き手の喜怒哀楽、美意識、センスなどが反映されているのです。特に紀元前一世紀頃に「紙」が発明されると、その広い紙面と、手の抑揚や強弱にダイナミックに反映し、表現力を増した「筆」が可能にした筆の運びが、「草書」を生み出し、書き手の心情をまさにダイレクトに書き表わすことができるようになっていったのです。
 そして膨大な数の漢字を学習するために採られた「臨書」という、手本をそっくりまねして書く手法によって作者の意図や気持ちを汲み取ることや、作者がその書を書き記した時の状況を、追体験することも可能となったのです。
 「紙」という絶好の媒体を得、改良された「筆」が可能にした表現力と「臨書」という学習方法などが相まって垂直方向に展開する意味世界は個の〈存在の意志が満ち満ちた潜在空間〉となって読み手に伝わっていくこととなったのです。
 書き手側のこのような“個”の表現の例の代表として古くから取り上げられてきたのが王義之(おうぎし)の書です。王義之(303-361年)は中国東晋の政治家、書家で、書聖と称され、書の世界において絶大な影響を与えた人物です。書道史家の石川九楊さんによれば、政治文書一色だった秦や漢の時代と異なり、六朝時代(229-589年)には政治の枠をはみ出して、一人一人の人間の喜びや哀しみを高らかに謳いあげる文体いわば「詩」が生み出され、それにふさわしい書表現の誕生が求められていました。そうした新しい表現を生み出す素地が整いつつあったところに登場し、それまでにはなかった書の表現を試みて、書の世界に新しい息吹を吹き込んだのが王羲之だった*01のです。


王義之

*01:やさしく極める“書聖”王羲之/石川九楊/1999 新潮社

 

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心の画

 「書は人なり」という言葉があります。中国前漢時代末期の文人で学者の楊雄(ようゆう)(BC53~18)という人の、「法言(ほうげん)」の中の「書、心畫也」(書は心画なり-書いた人の人となりを表わす)に由来する言葉です。手書きの文字は書き手の喜怒哀楽、美意識やセンス等を反映する、というのです。このことについて古賀弘幸さん*01は「書きぶりが変わるたびごとに、文字は、言葉の意味と新しい関係を結んでいく・・・それはちょうど、一つの曲をさまざまな演奏家がいろいろなスタイルで演奏していくようなもの」と評します。さらに古賀さんは、書には書いた人の個性だけではなく、その個性を生んだ「時代の空気」が閉じ込められている、といいます。漢字には五つの代表的な「書体」がありますが、書体とは、社会の中で、ある文字の形や書き方が共通されるようになっていったもので、中国の歴史の中で時代とともに展開してきたものです。漢字の原型となった「甲骨文字」や青銅器に鋳込まれた「金文(きんぶん)」などの古代文字を、秦の始皇帝の時代(紀元前三世紀頃)に整理した「篆書(てんしょ)」。それを簡略化し、主に官吏が政治のために実用的に使用した「隷書(れいしょ)」がつくられます。そして漢の時代になって隷書の早書きから「草書」が生まれたのです。「草書」はたんに効率のためだけにつくられたのではなく、当初から美的な工夫を重視した書体であり、私的な書体、自分の思いを述べるための書体として位置づけられていた*01と古賀さんは指摘します。神聖な文字とされた「篆書」と実務的に活用された「隷書」という書体の発展は、神聖な文字であったヒエログリフと、実務用に発展したヒエラティックという古代エジプト文字の関係にも似ていますが、中国ではそのあと、個を表現する「草書」が登場するのです。そしてそこには人類史上重要な、ある発明が係わっていました。それが「紙」の発明です。
 「書」という漢字は、書く道具である“筆”と、文字を表現する“人”を表わす「聿(いつ)」と「者」から成っています。つまり書は人が筆(ふで)で紙に書いて表現した文字のこと*01なのですが、獣毛でできていて、手の抑揚や強弱にダイナミックに反応し、人間の「手(書くこと)」と「目(見ること)」を連携させる働きをする「筆」という道具とともに、その筆の運びを存分に受け止め、表現力を発揮させた「紙」が、まさに紀元前一世紀頃の漢の時代に発明されたのです。そしてその「紙」の広い紙面と、改良され表現力を増した筆が可能にした筆の運びが、点画の省略と書き崩しを促し、「草書」を生み出した*01というのです。
 この「草書」のあとに、残り二つの書体が登場します。隷書をもとに日常的な書体として、事務的な文書などに使われるようになった「行書」。行書をさらに整理した書体で、今日まで公文書に使われる正式な書体となった「楷書」です。「草書」が書き手の心情をまさに書き表したように、人間の手によって描画される「漢字」という文字には、本質的に“個”が表現されることが明らかになる中で、「行書」や「楷書」はあえて社会的ルールの枠を文字に当てはめるためにつくられた「書体」ではないか。そのようにも思えてくるのです。


遊目帖(ゆうもくじょう)/王義之(303-361)/唐人が臨書したものをもとにしての双鉤塡墨本

*01:書のひみつ/古賀弘幸+佐々木一燈(イラスト)/朝日出版社 2017.05.30

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垂直方向へ展開する潜在空間

 日本語の漢字は、音と絵が組み合わさった複合体の文字でした。字形の違いをヴィジュアル的に把握しながら、そのヴィジュアルを読み解いていく。膨大な数の「漢字」をそのようにして読解していったのです。
 文章を読む場合、紙等のメディウムに印された図象としてのシンボルを、ヴィジュアル的に知覚し、そのシンボルの所属する系列の中から言語としての単語(word)を認知する必要があります。そして認知した複数の単語の組み合わせ方、並べ方からその文を構成する統語(シンタックス)構造を解析し、そのうえで、物語文、説明文、科学論文などの様々なジャンルにわたるより大きな言語単位を理解しなければならない、と認知心理学者の川崎恵理子さん*01は指摘します。文章は音素、単語、統語構造、命題、包括的なメッセージなどの多次元的な表象を含んでいて、文章の処理には記憶、知覚、問題解決、推理など、ほぼすべての認知機能が関与している、というのです。
 アルファベットのような表音文字で構成されている文章では、アルファベットの文字自体は、単語や文を構成する一要素(音素)にすぎません。それは上記のようなプロセスを経て単語-文として組み合わされることを前提として、はじめて認知される文字なのです。その文字は順番に並べていくことによってはじめて〈意味〉を生み出すことができます。いわば水平方向へと理解を進めていく構造をもっている、ということができるでしょう。
 漢字による文字も、上記とまったく同じ文章理解のプロセスをもっています。さらに加えて、漢字という文字は、ひとつひとつがシンボルであると同時に単語(word)でもあり、それぞれが異なる〈意味〉を持っています。中国の書の研究家、陳廷祐さんはそれを集積回路に例えましたが、むしろ水平方向へと理解を進めていくアルファベットに対して、垂直方向に別次元の意味世界を展開する構造がプラスされた〈ハイパーテキスト〉といった方が適しているかもしれません。
 このような漢字のもつ垂直方向への展開とは、二次元の図象のその向こう側に、奥行きのある空間がひろがり、そこに繋がる感覚、といっていいでしょう。その空間は、深い森の中の空間と同じように、存在への意志に満ち満ちた高次元の潜在空間、ということができます。そこには先進文明のそうした意志によってつくりあげられたことばの、私たち日本人にとってはとらえ難い意味、表現できない意味世界が広がっているのです。
 こうした空間の中に踏み込んだ時、人々は、深い森の中で草木に覆われ、周囲の見通しがきかない空間にいるように感じたことでしょう。そこは天然の見え隠れが演出された空間なのです。そしてこの二次元の図象のこちら側には、人間が知覚できる三次元の現実空間が広がっています。それは豊かな生態系の広がる現実世界の森の中で、その見え隠れの空間の背後にある、存在への意志に満ちた空間を読解することによって、中西進さん*02のいう包容力のある、創造性豊かな沃野をもつ日本語をつくりあげてきた日本人にとっては、まさに共通する感覚を有する世界であった、といえるのではないでしょうか。だからこそ、そこに日本人は強い魅力を感じてきたのです。


*01:文章理解の認知心理学/川崎恵理子/2014.09.20 誠信書房
*02:ひらがなでよめばわかる日本語/中西進/新潮社 2008.06.01

 

 

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