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思考体系の《もの》化の継続

 もともと“理解”の操作のために言葉をつくり出した人間たちにとって、明確な輪郭をもたぬものに明確な輪郭を与えることは、ある無定形なものに〈かたち〉を与え、それを他と区別できる対象に仕立て上げることにつながっていました。ある事態や感情や抽象概念をあたかも物理的な《もの》であるかのように、右から左へとやりとりしたり、自ら移動したり、さらには変形したりすることは、ある精神的な思考対象を具体的な存在のメタファーによって《もの》化し、空間的存在物にすることによって、はじめて可能になった思考法であり表現法*01だったのです。そして言葉の構文論的構造と相まって、さまざまな思考対象が《もの》化していきました。
 自然環境から切り離された人工の空間の中に詰め込まれ、人間同士の関係性を重視せざるをえなかった古代西アジアの人々は、仲間の〈理解〉を操作するためにさらに〈かたち〉を進化させていきました。家をつくるための“言語”都市づくりの“言語”を駆使して人工内なる「空間」をつくり出した彼らは、その人工の内なる空間をキャンバスとして“文字”を生み出していったのです。絵から絵文字へ、そして絵文字から文字へという進化を遂げていった文字は、より広範囲の人々に伝わるように抽象性と普遍性を獲得していきました。そして抽象化・普遍化の進展と反比例するかのようにもともとの物理的対象から切り離されていったのです。このように物理的に存在する物事を「見る」ことをやめてしまったところに生まれた究極の文字体系がアルファベットだったのです。
 それは究極の構文論的構造によって人々の理解の操作に特化した文字だった、といっていいでしょう。そしてこのアルファベットという文字を駆使した思考体系の中では、《もの》化した思考対象以上に、人間のメタフォアが多用されるようになっていった*02のです。
 これに対し、周囲の世界に常に関心が集中し、それとの関係性を重視した古代東アジアの人々は、環境の中に住み込む人間が遭遇する様々な出来事を「もよう」というかたちで詰め込んだ“漢字”という文字を使って考える「自己」意識を育んできました。漢字という文字では、常に環境の中の様々な物事を取り入れたあらたな文字が生まれていました。《もの》化した思考対象はさらに増えていったのです。そしてこの文字を駆使した思考体系の中では、引き続き経験を《もの》化し、空間的な存在物を介して把握されるもので喩えることが多かったのです。


*01:空間のレトリック/瀬戸賢一/海鳴社 1995.04.12
*02:日本語は論理的である/月本洋/講談社 2009.07.10

 

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西欧的なるものの動揺と克服

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけてリルケが指摘し、二十世紀後半にペルニオーラさんが主張した、心(精神)と物質(もの)の関係についての西欧の伝統的な二元論に対する動揺とそこからの克服を目指す傾向には、さらに次のような特徴がありました。
 リルケは1914年に書いた詩*01の中で、「すべての存在(もの)を貫いてひろがるひとつの空間」である「世界・内部・空間」という概念を提出します。それは内部と外部を分ける境界のない、中断されることなくひろがるひとつの空間で、その中では過去・現在・未来の時間もまた凝縮され、同時に存在する空間として表現されていたのです。心(精神)と物質(もの)を厳格に区分していた伝来の西欧的な考え方に対し、それらを隔てていた境界がなくなり、相互浸透的プロセスが現れていた状況の中で、「すべての存在(もの)」だけでなく、直線的に流れるものと捉えられていた時間の概念でさえ超克してひろがるひとつの空間をリルケは提示したのです。そして彼はそうした空間にこそ、自己のさらなる成長への期待を込めることができる、と考えていたのです。
 他方、1980年代以降の現代の状況を考察するマリオ・ペルニオーラさん*02は、現代の大衆社会の中で、人間が物質(もの)に近づいていく状況があると指摘する一方で、「現在は、直ちに回帰する過去となり、過去は、いついかなる瞬間にもアクチュアルなものに転化されうる潜在的な現在となる」状況が生まれている、と指摘します。ここにも直線的な時間という概念の超克がみられるのです。
 このように二十世紀に現れた、人間と物質(もの)との相互浸透、内-外の世界が融合した世界と、過去・現在・未来が融合した時間の充溢が、西欧的なるものの動揺と克服を目指す傾向の大きな特徴として指摘されているのです。


リルケが1910~1914年の間に複数回滞在し、あらたな着想を得たといわれるドゥイノの館
Johann Jaritz /Duino castle, municipality Duino, Friuli-Venezia Giulia, Italy / EU

*01:Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen /Rainer Maria Rilke, August/September 1914
/München oder Irschenhausen
 「Durch alle Wesen reicht der eine Raum:
  Weltinnenraum. Die Vögel fliegen still
  durch uns hindurch. O, der ich wachsen will,
  ich seh hinaus, und in mir wächst der Baum.」
 「すべての存在(もの)を貫いて ひとつの空間がひろがる:
  世界・内部・空間が。鳥たちは 静かに
  私たちを貫いて飛ぶ。おお、成長しようとする私、
  その私が外部(そと)をみる、すると私の 内部に 樹が育つ。」

*02:エニグマ-エジプト・バロック・千年終末/マリオ・ペルニオーラ/岡田温司・金井直訳 ありな書房 1999.05.01(原著1990)

 

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温存された日本的なるもの

 十九世紀末から二十世紀初頭にかけての西欧において、人間は動揺し、不確かなものとなった、とリルケ*01は指摘します。そして科学的知見の集積などにより自然の理解が深まったことによって、人々は自然の中に歩み入り、事物(もの)になりたいと願うようになった、というのです。
 こうした傾向は、人間の動揺が世界的な争乱へと発展していった二十世紀前半、一旦は見え難くなっていたのですが、それらの争乱が見かけ上収まったかに見えた1960年代以降、特に1980年代以降、再び大衆社会の中でこうした傾向が顕著になった、とペルニオーラさん*02は主張します。
 彼は1980年代以降の現代の状況を、人間と「もの」との間に相互浸透的なプロセスが現われていて、「もの」の文明と定義できるような深い変化が大衆社会において進行している、というのです。「エジプト効果」と名付けた傾向などによってペルニオーラさんはそれを説明していきますが、それは心(精神)と物質(もの)の関係についての西欧の伝統的な二元論に対する動揺であり、そこからの克服を目指す傾向でもあったのです。
 他方日本では、こうした心(精神)と物質(もの)の関係についての動揺は、ある意味顕在化しなかった、といっていいでしょう。明治以降の近代化のプロセスの中で、日本は圧倒的な先進性をもった西欧文明に遭遇します。それは鉄道や軍艦といった文明の利器が示した卓越した能力、技術力、生産力だけにとどまりませんでした。「文明開化」の時代は、日本人がそれら西欧文明に圧倒された時代であり、人々はこの外来文化に陶酔し、いわば盲目的に追従することになったのです。
 西欧的な様々な概念も、絶対的に正しい、という前提の中で、それを学び、吸収しようとしました。心(精神)と物質(もの)の関係についての二元論もそうしたもののひとつでした。しかし従来の日本では自然は「もの」と言われ、現実の真実なるものとして認識されていて、物質的なものと霊魂などの内的なものとの区別のない「存在そのもの」という捉え方がありました。
 西欧文化を絶対と捉えていた人々は、従来の日本的な捉え方との違いをどう説明するか、西欧の捉え方とどう整合性をとり、どう辻褄を合わせればいいかということに悩んだことは確かでしょう。そういう意味での人々の動揺は日本でもありましたが、それは西欧世界でのそれとは異なるものだったのです。
 私たちの国は古来より一貫した翻訳受け入れ国*03でした。翻訳されるべき先進文明のことばには、必ず「穏(おだやか)なる日本語」で表現できない意味、とらえ難い意味があり、私たち日本人は、それを「四角張った文字」じたいにまかせるという伝統があったのです。そうすることによって従来の日本的な捉え方、日本的なるものはいわば温存されてきたのです。


文明開化の象徴である巨大な蒸気船と蒸気機関車
横浜海岸鉄道蒸気車之図/歌川広重 (三代) 明治7年頃

*01:風景について(1902)/富士川英郎訳/リルケ全集5-美術論・エッセイ/彌生書房 1973.12.15
*02:エニグマ-エジプト・バロック・千年終末/マリオ・ペルニオーラ/岡田温司・金井直訳 ありな書房 1999.05.01(原著1990)
*03:翻訳語成立事情/柳父章/岩波新書189 1982.04.20 岩波書店

 翻訳語成立事情 (1982年) (岩波新書)柳父 章岩波書店

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人間の動揺と自然の理解

 古来の日本人の間では、自然は「もの」と言われ、現実の真実なるものとして認識されてきました。そこには物質的なものと霊魂とかの内的なものとの区別のない「存在そのもの」という捉え方があったのです。こうした捉え方は日本人の底流に現在も脈々と流れています。
 これは豊かな生態系が続く環境に暮らしていた日本人たちが〈理解を操作する〉という行為-すなわち「人為」-を生み出した時に、彼らの関心が周囲の環境に集中していたことに起因している、といっていいでしょう。そのような状況の中では「人為」と「自然」は不可分なままで、人々はその区別を特に意識してこなかったのです。内と外との区別以前の母性としての自然、人間がそこに溶け込むところとしての自然という捉え方が、私たち日本人にはあったのです。そこでは心(精神)と物質(もの)との明確な区別もまた生まれてこなかったのです。
 近代のオーストリアの詩人で美術論なども多く残しているライナー・マリア・リルケ(1875-1926)は、ヨーロッパの人々の古来からの自然の捉え方を、同時代のデンマークの詩人で科学者のJ・P・ヤコブセンの言葉を引用して次のように述べています。『自然は人間に対抗する、人間とは異なった、遠のものであり、決して敵意をいだいてはいないが、無関心な存在である』*01と。そして自然が異体であり、私たちをうけ入れようなどとは思ってもいない冷淡なものであるという認識から、自然の冷淡さに耐えられなくなった人々は、大きな残酷な力をふるって自然を開拓し、自らはそういう力に屈従した*01というのです。
 ところが(ギリシア時代などの)人間を偉大に画いていた時代には人々は人間を感じていましたが、いまや人間は動揺し、不確かなものとなってしまった*02とリルケはいいます。そして人間の姿は変形をかさねて、もはやほとんど把握しがたいものになった、というのです。そしてこの時、自然の方が人間よりもっと持続的で、もっと偉大であり、自然のなかの動きももっと幅がひろく、すべての静けさももっと素朴で、孤独だったということを人々はやっと理解した、というのです。そして人間のなかには、自然のけ高い手段によって自分を同じように真実なもののように語りたいという憧れがおこった*02のです。
 こうした状況を踏まえてリルケは、風景について触れる中で次のように述べます。
 『ひとびとは事物の偉大な静けさに沈潜し、事物の存在が期待をもったり、願ったりせずに、法則のなかで過ぎ去ってゆくのを感じた。』*02そして『のちに人間がこの環境のなかに、牧人として、農夫として、或は単に絵の背景のなかからのひとつの形姿として、歩み入ったとき、彼からはあらゆる思いあがりが脱けおちていた。そして彼が事物(もの)となりたいと思っていることが見てとられるのである。』*02というのです。
 そしてリルケは人間の動揺と自然の理解から始まったこうした動向やあらたな過程の中に、ひとつの未来が始まったことを指摘して次のように述べます。
 『人間はもはや同類にまじって均衡を保ってゆく社交的存在ではなく、また、夕暮や朝や、近くや遠くの世界が彼のために生まれてくるような者でもないのである。人間はいろいろな事物の間にひとつの事物のように、無限に孤独に置かれている。そして事物と人間からあらゆる共通性が退いて、そこから根がすべての成長を吸いあげる共通の深みのなかへ入っていったのである。』*02


Rilke,Rainer Maria/Worpswede

*01:ヴォルプスヴェーデ(1903)/吉村博次訳/リルケ全集5-美術論・エッセイ/彌生書房 1973.12.15
*02:風景について(1902)/富士川英郎訳/リルケ全集5-美術論・エッセイ/彌生書房 1973.12.15

 

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