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ロゴスの発祥

 世界を構成する言葉、論理であるロゴスを追究し、それを見事に“証明”してみせたのは、定義および原理から演繹的に様々な幾何学図形を証明したエウクレイデス(ユークリッド)のストイケイア(原論)とそこから出発したユークリッド幾何学でした。
 
古代ギリシア以前、そして古代ギリシア以外の古代文明でも〈幾何学〉は発達していました。しかしそれは専制国家の成立にともない、専制国家の税制、経済を支える基盤の一つとして現れた度量衡などを支えるためのものでした。税収の基準となる農地の面積を正確に把握するためにピンと張った縄が用いられ、それがいわゆる「直線」の形状を生み出しましたが、それはユークリッド幾何学が扱う今の抽象的な概念としての〈直線〉ではありませんでした。張力をかけた縄を利用する直接の目的は「再現の可能性の獲得」にあったのであり、ナイル川の氾濫で耕地の区画が分からなくなった時も、水が引けば、それによって耕地区画を確実に再現することができる。そういう実用性が重要だったのです。したがってこのような経験からは、ピンと張った縄の「直線」形状が、ただちにギリシア的な〈直線〉という抽象概念を生み出すという必然はありませんでした。
 
ところが古代ギリシアでは、このような実用的な必然性を超えて、幾何学の原理、定理が追求されました。そのプロセスの中で、厚みのない〈直線〉などの抽象概念が生み出されましたが、一方で、ストイケイアは〈量〉を相手にした学問でもありました。〈量〉とは常に実世界に開かれ、そこに存在する“もの”たちと密接に関係した体系で、実世界の中でリンゴの数は常に正であり、負の数のリンゴを見つけることができないように、負数や虚数などといった実世界に存在しないものは想像上の役に立たないものにすぎない、という姿勢を貫いていたものでもあったのです。
 
このような具体的な〈量〉を相手にした学問は、幾何学、数学の枠を超えて、実世界に存在するすべての“もの”たちの関係性を解き明かそうとする学問へと発展していきました。古代ギリシアにおいて世界を構成する言葉、論理としてのロゴスは、幾何学によって実世界の真実をより確実に記述するものとしてまずとらえられたのです。
 
世界を構成する根本原理を求めようとする試みは、古代ギリシアに限らず、人類の歩みの中で共通にあったものでした。しかしそのほとんどの試みにおいてその根本原理とは〈神〉として位置付けられてきました。古代ギリシアのように、まず〈理性〉としてそれをとらえたのは極めてまれなことであったのです。その後の西欧世界ならびに全世界に与えた影響の絶大さを考えた時、それは古代世界のほんの小さなエリアの中で起こったことだったのです。


現代の西洋文明の持つロゴスの発祥の起源は、BC6世紀頃、エーゲ海に面した、アナトリア半島(現・トルコ)南西部のイオニア地方であったといわれています。

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ロゴスを追究する幾何学

 東洋(日本)と西洋には、もともとロゴスの相違がありました。そこにはかくも相違した要素と、互いに補足し合う要素があり、洋の東西は様々な意味で惹かれ合うものがありましたが、この両者は、相互に充分に識り合わぬ限り、奇怪至極な混乱状態に陥ってしまう*01タウトは危惧したのです。東洋は、皮相的な模倣に流れ、西洋は、「哲学的」背理、神秘思想に堕し、時には、全然無意味な言辞を信じたりするようになる、というのです。しかしながらこれらの二要素は、もともとは唯一であるロゴスの一部分に過ぎないものでしたから、二要素の優劣を定めたり、あるいはいずれか一方が不必要であり、それを抑圧打倒しても構わないと考えたりすることは愚もはなはだしき業である*01とタウトは断じたのです。


Logos, Greek spelling

 
ロゴス(logos λόγος)とは、古代ギリシア時代に始まる「世界を構成する言葉、論理」として把握される概念です。ギリシアの哲学者ヘラクレイトス(BC540頃~BC480頃)が、「万物は流転する」としながら、その背後に変化しないものがある。それがロゴスである、として世界原理としてのロゴスの存在を最初期に提示した、といわれています。
 
しかしヘラクレイトス以前に「宇宙には秩序があり、この秩序は数でできている」ことを明らかにしたのは、ピュタゴラス(BC582~BC496)でした。彼は弦の長さと音程の高さとの間に数学的関係があることを発見し、日々の混沌や自然の複雑さのどれをとっても、同じような数学的・幾何学的な規則正しさがその背後に隠れている*02としたのです。
 
ピュタゴラスが発見した数と調和の原理は、ギリシア時代を通じてヘラクレイトスやプラトンなどに継承され、発展し、紀元前3世紀頃、エウクレイデス(ユークリッド)によって「幾何学原論(ストイケイア)」として集大成化されます。そこでは幾何学的図形の間に存在する普遍的な性質、すなわち「定理」の追求がおこなわれました。エウクレイデス以前、そして古代ギリシア以外の数学では、実用性を重視し、すべて帰納的推論-すなわち、観察を繰り返すことによって経験則を証明してきました。それに対しギリシア幾何学は、定義および原理から結論を得る演繹法を採用したのです。つまりギリシア幾何学は、世界原理であるロゴスを追究するもの、という位置づけが成され、そしてそれを見事に“証明”してみせたのです。
 
その結果、こうしたギリシア数学の考え方は「自然科学」の発想の原点となり、現在まで脈々と続く、この世を構成するすべてのものを数的に、論理的に解き明かそうという人類の願望のまさに出発点となったのです。事実、ユークリッド幾何学は、19世紀初めまで「真実や確実性の極み」と考えられてきたのです。

*01:第三日本/日本文化私観/ブルーノ・タウト/森 儁郎(としお)訳 講談社 1992.10.09(明治書房 1936)
*02:ピュタゴラスの音楽/キティ・ファーガソン/柴田 裕之 訳/白水社 2011.09

 

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ロゴスの相違

 ブルーノ・タウトにとって床の間は、中正な釣合いを保ち、建築を最も純粋に、美しいものにする象徴的な力をもつもの*01として捉えられていました。床の間は、その「裏側」にある実用的・技術的で有用なもの、産業革命以後世界を席巻する“キッチュ”なものを抑え込み、その勝劣を明確に示した真の文化・芸術の象徴だ、というのです。しかしそれは壁一枚でその「裏側」にあるものとを区切る、という絶妙なバランスの上に成り立っているものでもありました。そしてその緊張が途切れた時、それは容易にキッチュに取り込まれてしまうものでもあったのです。
 
日本文化はそういう危ういバランスの上に維持されているのですが、しかし日本人はその危うさに気がついていない、とタウトは感じていました。日本人は西洋的なキッチュを安易に受け入れてしまう。しかしそれは自らの文化の自殺に他ならない、とタウトは危惧したのです。
 
しかしそもそも日本人は床の間とその裏側にあるものを、タウトがいうように「まったく類を異にする両つの世界」と捉えていたのでしょうか。


若き日のブルーノ・タウト

 
ブルーノ・タウトは、日本とは何か、ということについて多くの文章を残しています。松岡正剛さんがその論旨をまとめたもの*02によれば、東洋と西洋の本質的な相違は、「静の境地」と「動の成果」との差にあらわれるとタウトは考えていた、といいます。そしてこれらの相違を生んでいるもともとにはロゴスの相違がある、というのです。
 
東洋的な思考では、その欠点に対してなんら補償となるべきものがなくとも、その欠点や少なさや弱さに向かって表現が洗練されるという特色が生まれた、といいます。一方、西洋的思考はもともとが合理のロゴスをもって始まっているので、この合理を補うものはすべて技術として評価される。それが西洋文明の技術世界の価値観をつくっていった、というのです。
 
明治以降、西洋文明とその思考が日本に怒涛の如く流入してきました。そして西洋的思考によって、いったんこの欠点や弱さをカバーしようなどと考えてしまうと、そこは洗練の極みによって表現されているために、そこには何もないはずなのに、それを西洋的なもので一知半解に補おうとしてしまうことになる、とタウトは考えました。
 
また西洋にもむろん「静の境地」はあるのですが、西洋はこれをたいてい神秘主義扱いをしています。これがそのまま日本に流入すると、日本の最も比類のないものすら神秘主義の対象になってしまう、というのです。
 
この洋の東西の交流のまちがいはひどいもので、はなはだ危険なものでした。そんなものを表面だけ輸入して使う必要はない、とタウトは断じたのです。

01:「床の間とその裏側」(1936)/忘れられた日本/ブルーノ・タウト/篠田英雄編訳 1952.09 創元文庫(2007.06.25 中公文庫 中央公論新社)
02『忘れられた日本』ブルーノ・タウト/松岡正剛の千夜千冊1280夜2009.01.11

 

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タウトの憂鬱

 床の間とその「裏側」にあるものを、「まったく類を異にする両つの世界」*01、すなわち現実世界を支配する実用的・技術的なるものと、世界が創造せられた時に人間に賦与された文化的・芸術的なるものの著しい対立、と捉えたブルーノ・タウトですが、そこには、クレメント・グリーンバーグが、産業革命の産物として西欧とアメリカに出現した、キッチュという代用文化と本物の文化の対立*02という、当時の西洋の教養人が共有する、産業化による社会と文化の急激な変化に対する危惧の構図と共通するものがありました。
 
グリーンバーグはさらに、キッチュは「地理上の境界や民族文化の境界に対しても、何ら配慮を示さない」といい、キッチュは「意気揚々と世界制覇の旅に出て、次々と植民地の土着の文化を押し退け、汚し」ていき、その結果、今では「普遍文化、かつて類を見ない最初の普遍文化と自称」するまでになった、と指摘します。タウトも、「芸術」をもって本来芸術に関わりのないような効果を挙げようとする意図が、世界の芸術的活動をあまねく支配している*03といい、明治時代以降の日本では、外来の文物を盲目的に模倣する傾向が強く、「日本が西洋から受けいれた文物は、少数の例外を除けば他はすべていんちき(=キッチュ)だと言い得る」と指摘するのです。
 
かつての日本には、「床の間」が、他の部屋と表裏相接している仕方のように、異なる両つの世界の事実上の勝劣を明らかに示す形式が創造されていました。この緊張した案配を日本が失うとき、日本は最悪なものになるのではないか。そう、タウトは見抜いた*04と指摘するのは松岡正剛さんです。タウトのもうひとつのエッセイ「メランコリイ」*05。ここでメランコリイと言っているのは、日本人が平気で文化自殺をしてしまうことについての憂鬱だった、というのです。


日本文化私観/ブルーノ・タウト/森儁郎訳 1992.10.05 講談社学術文庫

01:「床の間とその裏側」(1936)/忘れられた日本/ブルーノ・タウト/篠田英雄編訳 1952.09 創元文庫(2007.06.25 中公文庫 中央公論新社)
02:アヴァンギャルドとキッチュ(1939)/グリーンバーグ批評選集/クレメント・グリーンバーグ/勁草書房 2005.04.15 藤枝晃雄編訳
03:「いかものといんちき」(1936)/忘れられた日本/ブルーノ・タウト/篠田英雄編訳 1952.09 創元文庫(2007.06.25 中公文庫 中央公論新社)
041280夜『忘れられた日本』ブルーノ・タウト/松岡正剛の千夜千冊2009.01.11
05:「メランコリイ」/日本文化私観/ブルーノ・タウト/森儁郎訳 1936 明治書房(1992.10.05 講談社学術文庫)

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