goo

あばたをえくぼと化する虚偽の鏡

 ドイツ語が語源の「キッチュ」という言葉。それは単なる「いかもの」「にせもの」という意味ではありませんでした。しかしチェコ生まれのフランスの作家ミラン・クンデラ*01(1924~)によると、オーストリアの作家で、社会・文明評論なども手掛けたヘルマン・ブロッホ(1886~1951)の名高いエッセー「キッチ」(1933)*02が、フランス語で〈がらくた芸術〉と誤訳されたこともあって、「キッチュ」という言葉はフランスでは、ながらくきわめて貧しい意味で知られていた、といいます。しかしブロッホは、ただの悪趣味の作品とは別のものがキッチである、としていました。クンデラによると、キッチとは「キッチな態度があり、キッチな行為がある。キッチな人間のキッチへの欲求。それは、あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」であったのです。彼によれば、ブロッホにとって、キッチは歴史的に十九世紀の感傷的ロマン主義につながっている、といいます。ドイツおよび中央ヨーロッパにおいて十九世紀はどこよりもずっとロマンティックで(非現実的で)あったから、ここでこそキッチは極端に花開き、〈キッチ〉という言葉が生まれ、今でも日常的に使われているのです。
 松岡正剛さん*03によれば、このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていました。それは「軽さ」を標榜する感覚だった、といいます。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものだった、と松岡さんはいいます。そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたもの)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした、というのです。彼の「存在の耐えられない軽さ」*03という著作は、キッチという「未熟を装う存在」を書くために選ばれたクンデラの方法の様式だったのです。


*01:小説の精神/ミラン・クンデラ/金井裕・浅野敏夫訳 法政大学出版局 1990.04.27(原著1986)
*02:芸術の価値体系における悪(1933)/崩壊時代の文学/ヘルマン・ブロッホ/入野田真右訳 河出書房新社 1973.01.20
*03:存在の耐えられない軽さ/ミラン・クンデラ/集英社 1993/松岡正剛の千夜千冊 360夜 2001.08.20

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

反キッチュで定義される真の芸術

 グリーンバーグは「キッチュ」を、産業革命によって工業化された西洋に出現した「第二の文化現象」と呼びました。彼は、「アヴァンギャルドとキッチュ」*01(1939)の中で、芸術がアヴァンギャルド(前衛)とキッチュ(俗悪なもの)に分化している状況を指摘し、アヴァンギャルドやモダニズムは、消費社会によって引き起こされた文化の「大衆化」に抵抗する手段である*01/*02と述べています。そしてアヴァンギャルド(前衛)のあるところには後衛(リア・ガード、アリエルギャルド(仏))があり、それが「キッチュ」だ、というのです。
 
アヴァンギャルドとはもともと軍事用語で「前衛部隊」を意味するフランス語でした。英語でいうアドヴァンス・ガード/バンガードです。それは部隊の先頭に立って進行方向を十分に見分けるとともに、敵陣や障害物に対し、突入し、道を切り開いていく重要な役割を担っています。そこからアヴァンギャルドは、文化の発展において最先端にたつ芸術活動[前衛芸術]を指すようになるのですが、さらには「何か(旧世代に属する芸術、保守的な権威、資本主義体制など、様々なもの)への攻撃の先頭に立つ」というような、政治的ニュアンスを含んだ言葉*03ともなったのです。
 
グリーンバーグもまた、まさにアヴァンギャルドをそのように捉えます。アヴァンギャルドの真の、最も重要な機能はイデオロギーの混乱と暴力のさなかで文化を推進し得る道を探すことだ、と彼は定義します。アヴァンギャルドの詩人や芸術家は自らの芸術の的を絞るとともに、それを絶対的なものの表現にまで高めて、その高い水準を維持することを求めました。それは事実上、神を模倣しようとする行為とも捉えられるもので、「自存的で、意味、類似品、原作などに依存しないものを創造する」ことによってなされるものでした。こうした行為の中では、その内容は形式の中にすっかり溶解してしまい、芸術あるいは文学作品は全体としても部分としても、それ以外の何ものでもないものとなる、とグリーンバーグはいいます。芸術家がその名において絶対を求めるまさにその価値こそ相対的価値、美学上の価値であり、芸術家が模倣するのは実は神ではなく、芸術や文学そのものの「規律と過程」だった、というのです。これが「抽象」の起源なのだ、とグリーンバーグは主張します。
 
グリ―ンバーグは真の芸術をこのように「抽象」あるいは「非具象」の芸術に求めました。それは「具体」あるいは「具象」の芸術と呼ばれるものが、産業革命以後「キッチュ」という大波に飲み込まれてしまっていることを危惧したからだったのではないでしょうか。彼が道破した産業革命が生み出した「キッチュ」という大波は、いままでの「文化的伝統」を利用し、それを都合よく再編してしまいます。彼の分析に従えば、産業社会の中で、その大波から逃れることはかなり困難なことだったのです。
 
グリーンバーグは「キッチュ」をアヴァンギャルド(前衛)に対する「後衛」と位置付けました。しかしむしろ「キッチュ」は「後衛」というよりも、すでに本隊である従来の伝統的文化(すなわち第一の文化現象)に取って代わろうとするものだった、といっていいのではないでしょうか。アヴァンギャルドは本隊の先頭に立つというよりも、その本隊に取って代わった「キッチュ」に対し、鋭く切り込み、異議を唱える存在にその役割を変えていったのではないでしょうか。
 
グリーンバーグの求める真の文化・真の芸術はむしろ「反キッチュ」、「キッチュでないもの」とでしか定義できないものになってしまっている。そう思えてならないのです。


Marching Formation

01:アヴァンギャルドとキッチュ(1939)/グリーンバーグ批評選集/クレメント・グリーンバーグ/勁草書房 2005.04.15 藤枝晃雄編訳
02:クレメント・グリーンバーグWikipedia
03:アバンギャルドWikipedia

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

アカデミックであるものは全てキッチュである

 「キッチュ」という言葉は一九世紀中頃、安物の美術品を指す隠語としてドイツ・ミュンヘンの画家や美術商たちが使い始めた*01といわれています。英語の「スケッチ」をミュンヘンの美術家が誤って発音したという説やドイツ語の方言などその由来には諸説があるようですが、いずれにせよキッチュという言葉が芸術的価値の低い、通俗的な悪趣味な模造品、贋物などを指し、専門的見地からも「とるに足らぬもの」と批判する際に使用された言葉*01だったのです。ところが二十世紀になるとこの言葉は次第に「とるに足らぬ」どころではない存在感をもつようになります。新たに芸術の享受者や所有者となったブルジョア市民の登場、そして芸術の大衆化とその進行とともに、通俗的なものが大量に流通しはじめたのです。
 
このような状況に対しクレメント・グリーンバーグは、第二の新たな文化現象が工業化された西洋に出現した、それがキッチュだ*02と道破します。キッチュは西欧とアメリカの大衆を都市化し、いわゆる万人共通の教育を確立した産業革命の産物であり、新しい都市の大衆は、自分たちの消費に適う類の文化を提供するようにと社会に圧力を加えた。その新たな市場の需要を満たすために、新たな商品が考案された。それが、本物の文化の価値に対して無感覚で、にも拘らず、ある種の文化のみが提供できる、気晴らしに飢えている人々のために用意されたキッチュという代用文化なのだ、というのです。
 
キッチュは原料として本物の文化の劣悪でアカデミシズム化したまやかし物を用いる、とグリーンバーグは指摘します。キッチュの前提条件、それなしではキッチュではあり得ない条件とは、完全に成熟した文化的伝統を手近に人手できること、それによってその文化的伝続の中で発見し、獲得したもの、また完全に身に着いた自意識をキッチュは独自の目的に利用する、というのです。キッチュは文化的伝統から仕掛け、企み、策略、経験則、テーマを借用し、それらを一つの体系に変換してその他のものを棄て去ります。キッチュはこの蓄積された経験の貯蔵所から、いわばその活力源を抜き取る、というのです。かつては過去の斬新な、深遠な芸術や文学であったものが、十分な時間が経過した時、新たなものが新たな「新機軸」として略奪され、しかる後に薄められて、キッチュとして供されるのです。グリーンバーグは「全てのキッチュはアカデミックである。そして逆に、アカデミックであるものは全てキッチュである」とまで言い切ります。いわゆるアカデミックというものはそれだけではもはや独立した存在ではなく、キッチュのもったいぶったお飾りとなっている、というのです。
 
キッチュには多種多様な水準があり、中には、真の光を求める素朴な人にとっては「危険なほど高度なもの」もあるとグリーンバーグは警告します。時にキッチュは何か優れたもの、何か本物の民衆的風味を持つものを生み出すのです。これらの偶発的な、孤立した事例が、そのようなことは分かってしかるべき人々を欺いてきた、と彼はいいます。
 
キッチュは地理上の境界や民族文化の境界に対しても、何ら配慮を示さず侵食し、それらの文化を押し流します。キッチュはもう一つの西欧産業主義の大量製品であり、意気揚々と世界制覇の旅に出て、次々と植民地の土着の文化を押し退け、汚していき、その結果、今では普遍文化、かつて類を見ない最初の普遍文化になったと自称する*02のです。
 
ではなぜキッチュがこのような絶大な力を有しているのでしょうか。キッチュのこの旺盛な精力、この抗い難い魅力をどう説明したらよいのでしょうか。グリーンバーグは、それは同じ安さで次々と大量に複製できるからだ、と説明します。それは私たちの投資と利益回収をもとめる生産システムの不可欠の一部となっている、というのです。キッチュは膨大な利益を生み出すのです。それは野心的な作家や芸術家たちにとっても誘惑の源であり、必ずしも完全にキッチュに屈服しないまでも、キッチュの圧力の下で自分たちの作品を修正しようとするのです。


キッチュの館/ダリ美術館/ジローナ スペイン

0120世紀の空間デザイン/矢代眞巳+田所辰之助+濱嵜良実/彰国社 2003.11.10
02:アヴァンギャルドとキッチュ(1939)/グリーンバーグ批評選集/クレメント・グリーンバーグ/勁草書房 2005.04.15 藤枝晃雄編訳

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

根源的な感情と関係するもの

 建築家の磯崎新さんは、日本人はキッチュな造形を好む感覚を持っているといいます。もともと日本人の感覚では、驚嘆した時にでる「めずらしい」「見たことがない」「おやっと思う」ことが「美しい」ということでした。これは驚嘆したときにビューティフルというようないい方をする英語の感覚ともかなり似ている*01といいます。どちらも人間の感情や反応から出た言葉ですが、キッチュなものには、「見る者」が見たこともない異様なものや「意外な組み合わせ」「ありえない組み合わせ」、あるいは、「見る者」にとって異文化に属するものや、時代を隔てたりしているものなども含まれています。それらのものに接した時の人々の反応は、いずれも環境世界の具体的な経験に直結した「根源的な感情」と密接に関係しているといっていいでしょう。
 
人類誕生の時から受け継がれてきた「世界に存在し、反応する」ために必要な根源的な感情。それは現実の環境世界の中で、生き物たちが自身の直面する事態の意味を理解し、それに対処するために「判断することなき合理的考慮」すなわち「感情」を必要としたことから生まれてきたものでした。その感情をもって環境世界に存在し、反応し、自分で考え、行動する究極の存在が人間です。人間は、環境世界に「意味」を見いだすだけではなく、自分自身の〈内部〉に「意味」-すなわち「意志」を見いだす唯一の存在といっていいでしょう。しかしこの〈内部〉に「意味」を見いだす高次のレベルの振る舞いも、より下層に位置する「根源的感情」という振る舞いのレベルを包摂する関係にあるのです。高次のレベルが機能するかどうかにかかわりなく、低次のレベルは働き続けているのです。
 
哲学者の渡邊二郎さんは、「美しい」ものは、主観的な「意識現象」や「表象」を越えて、客観的な現実のなかから、立ち現れ、私たちを虜(とりこ)にする*02といいます。すなわち「美しいこと・美」とは、一般に「良いこと」「快いこと」であり、人間のもつ根源的な、すなわちより下層レベルの振る舞いである「感情」と密接に関係しているのです。キッチュなものもこの「根源的な感情」と密接に関係しているのです。


生き物たちに共通の「根源的感情」
*01:「しるし」の百科/荒俣宏/1994.10.15 河出書房新社
*02:渡邊二郎著作集-芸術と美/渡邊二郎/筑摩書房 2011.02.15

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )