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廃墟の美

 かつて廃墟の美とは「芸術美と自然美の中間」にある、という見方がありました。一方で編集工学を提唱する松岡正剛さんは、「芸術が自然を模倣しているのでもなく、自然が芸術を模倣しているのでもなくて、自然と芸術の両方が廃墟を模倣し、廃墟が自然と芸術を模倣しているにちがいない」01と述べています。このように廃墟は、自然と人工とが渾然一体と溶け合った中で生み出された「美」をもっている、といっていいでしょう。
 それは従来の対立概念としての自然-人工という枠組みをこえ、人工物と自然なもの、作られたものと生まれたものの垣根が取り払われた後に浮かび上がるあらたな「美」の領域、といえるのかもしれません。
 『Wired』誌の創刊編集長で作家のケヴィン・ケリーさんは、人工物と自然の区別をつけず総体として捉える考え方をヴィヴィシステム02とよんでいますが、廃墟の美は、自然美と人工美のたんなる中間という位置づけにとどまらず、それらを超えたあらたな「美」の創造の可能性を示唆しているのです。


セラペウム/ヴィラ・アドリアーナ/イタリア

 こうした自然と人工の関係性の中で廃墟の美をとらえる見方がある一方で、哲学者で科学史家の下村寅太郎さんは、廃墟の美はロマンティシズム時代の懐古趣味から生まれたものであり、過去の栄光の跡がないと廃墟美にはならない03と述べています。それはトルソtorsoと同じく、本来あるべき部分が欠けている状態が、見る人々の想像力を働かす快感、美感の媒介物となるからであり、小説家の小川国夫さんもいうように、現代人は、その自由な想像を働かせてギリシァの廃墟を見て美しいといっている03のであり、廃墟を見て美しいと感じること、すなわち廃墟の美とは、見る側の美意識が投影されたもの、ともいえるのです。

01:松岡正剛 千夜千冊 1052/『廃墟の歩き方』栗原亨/2005.8.1
02:複雑系を超えて―システムを永久進化させる9つの法則/ケヴィン・ケリー
/アスキー出版 1999.02.10 服部桂監修 福岡洋一・横山亮訳
03:光があった-地中海文化講義/下村 寅太郎+小川 国夫/朝日出版社1979.07

 

 

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二つの永遠

 作品としての建築は、「錯綜的、複合的な時間性を無視」することで「みずからの純粋な形態の超越性を確保」しようとしている01と哲学者の小林康夫さんはいいます。建築においては「時間が排除され、消去され、隠蔽されている」というのです。しかしながら、純粋な形態として発想された建築は、現実の空間に実体化した途端に「時間の予測しがたい暴力にさらされ、洗われ」01ざるをえないのです。
 建築家の創作の歴史は、こうした時間の暴力に対する抗いの歴史でもありました。時間性を無視することができないなら、それを建築に取り込んでしまおう。あらかじめ建築家が意図したかたちで建築の中で時間を表現しよう。純粋な形態を思考する中で、時間をどう扱えばよいのか、様々な試みがおこなわれてきたのです。
 こうした時間に対する抗いの歴史の中で、つねに注目を集めてきたのが“廃墟”です。
 “廃墟”は建築が時間の暴力にさらされ、洗われた結果といっていいでしょう。建築に対しどのように永遠性、不滅性を求めても、またどんなに資材と労力と叡智を投入しても、それがいずれは瓦礫の山の“廃墟”と化すのだとすれば、私たちの努力は無でしかないのではないか。時間への抗いという人間の行為は、結局は絶望感しか残さないのではないか。“廃墟”はこのように人間が時間に抗うことの無意味さを示している強烈な証拠とされたのです。
 そしてそれは“廃墟”を前にした私たちひとりひとりの心境にも跳ね返ります。廃墟において時間がもたらした荒廃を目の当たりにした時、孤独と沈黙が私たちを支配し、私たちはもはや存在しないものからひとり取り残されたことを知るのです。それはヨーロッパにおける“廃墟”の理解の歴史の中でも同じで、美学者で批評家の谷川渥さんは、18世紀のフランスの哲学者で、18世紀を代表する出版物『百科全書』の編纂・刊行の中心人物であったドニ・ディドロ(1713-1784)の次のような言葉を紹介しています。

「廃墟が私のうちに目覚めさせる想念は雄大である。すべてが無に帰し、すべてが滅び、すべてが過ぎ去る。世界だけが残る。時間だけが続く。この世界はなんと古いことか。私は二つの永遠のあいだを歩む。どこに目をやっても、私を取り囲む事物は終焉を予告し、私を待ちうける終焉を諦観させる。崩れ落ちたこの岩、穿たれたこの谷、いまにも倒れんばかりのこの森、頭上に覆いかぶさって揺れているこの塊りといった存在に比べれば、私の束の間の存在とはいったいなんだろう。私は墓の大理石が崩れ落ちて塵と化すのを見る。それでも私は死にたくない!…一本の奔流がいくつもの民族を次々と同じ深淵の底に引きずりこむ。私は、この私だけはふちにふみとどまり、波濤を真二つに裂いて両わきを流れさせてやりたいのだ!」02 
 谷川さんは、ディドロは、悠久の過去に思いを馳せながらも、滅びへと向かう未来の悠久の時間へといやおうなく意識を振り向け、そうした「二つの永遠」のあいだに立つみずからの存在のはかなさを感じている、と指摘します。どんなに「私は死にたくない!」と叫んでも、時間は、私の存在をも含めて、すべてに滅びをもたらすだろう、というのです。


ドニ・ディドロに「廃墟の詩学」の想をあたえた02フランスの画家ユベール・ロベール(Hubert_Robert 1733-1808)の廃墟
Hubert_Robert_View of the Port of Rippeta in Rome, (c.1766)


01:身体と空間/小林康夫/1995.11.25 筑摩書房
*02:廃墟の美学/谷川 渥/集英社 2003.03.19
Denis Diderot, Œuvres esthétiques, Gamier Freres, 1968.

Denis Diderot, Sur LArt et Les Artistes, Hermann, 1967.


 

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記憶の風景

 東日本大震災から12年。地震や津波で破壊された建物などを、その甚大な被害の記憶を忘れずに後世に伝えるとともに、教訓として防災・減災の強化につなげるための「震災遺構」として保存する試みが各地で続けられています。建築物でいえば、宮城県南三陸町の旧防災対策庁舎のように、3階建ての建物全体が津波に飲み込まれために、外壁や内装すべてが剥ぎ取られ鉄骨の骨組みのみを残す無残な姿が、津波の恐ろしさと悲劇を象徴的に物語っているものもあります。


南三陸町の旧防災対策庁舎

 その外見上の特徴はいわゆる“廃墟”と同じですが、しかしながらそれはヨーロッパにおける古代ギリシア・ローマの廃墟やユカタン半島の密林に潜むマヤ文明のピラミッドの廃墟とは本質的に異なります。後者は太古の時代に建物が放棄されて以降、発見されるまでの間の悠久の“時間が蓄積”されたものであるのに対し、前者は被災した時点で強制的に“時間が停止”させられたものなのです。また同じ時間が停止された原爆ドームの廃墟ともそれらは異なっています。
 欧米の人類学や地理学の分野で浮上してきた言葉に「記憶の風景(メモリースケープMemoryscape)」というものがあります。被災した建築物の「震災遺構」としての保存は、こうしたメモリースケープとしての固定化の試み、といっていいでしょう。社会学者の直野章子さんによれば「記憶の風景」とは「想起と忘却という記憶行為を通して、個人や集団が過去を解釈する際に参照する歴史の枠組であり、想像力を媒介にした記憶行為によって命を吹き込まれ、維持され、変容される過去のイメージ」01ということになりますが、直野さんも指摘する通り、どの視点に立つかによって、見えてくる記憶風景は違ってくるわけで、同じ“廃墟”の外見を持つヒロシマの原爆ドームのように、その成立が極めて人為的な過程をもつものにあっては、メモリースケープとしての固定化のプロセスにも大きな問題や課題を孕んでいる場合もあるのです。
 ただし今回のような自然災害に起因する場合は、そのメモリースケープを構成するイメージに、大多数の人々が知覚するそれと大きな隔たりはない、といっていいでしょう。
 しかしながらその成立に巨大な権力が加担している原爆ドームのメモリースケープ化と違い、多くの人々の共通のイメージのみで成り立っている震災遺構のそれは、その維持に重要な影響を及ぼす人々の記憶の劣化が大きな問題となります。また強制的に“時間が停止”された建築物ではありますが、現実の空間に存在している以上「時間の予測しがたい暴力にさらされ、洗われ」ざるをえません。先に上げた南三陸町の場合も、保存した場合の維持管理費が一自治体では負担しきれないとして一時保存を辞退し解体する方針を固めていました。結果的に県が同建物を県有化することで保存が決定した経緯がありますが、それも2031年までの時限的なものでそれ以降の課題は残っています。
 またそれは他の事例も同じで、保存時の費用は国が負担したものの1000万円以上の年間維持費や中期修繕で多額の費用が予想されている施設もあります。人々の記憶の劣化と同じく、今後の大きな課題といえるでしょう。
 こうした状況に対し、国土交通省東北地方整備局などによる「震災伝承ネットワーク協議会」や東北経済連合会などによって設立された一般財団法人「3・11伝承ロード推進機構」などが震災遺構のネットワーク化を進めているほか、2016年4月に震度7の地震が28時間以内に2度発生し、甚大な被害をもたらした熊本地震に対し、熊本県と関係市町村が「熊本地震 記憶の廻廊」という熊本地震の記憶を未来へ遺し学ぶ回廊型フィールドミュージアム構想を展開しています。
 こうした試みは今後どう発展していくのでしょうか。あるいはマヤの遺跡群がミュージアム化の後にテーマパーク化していったようなプロセス02をたどるのでしょうか。施設の維持に対する経済上の問題が無視できない状況になった時にはそうした事態も生じるのでしょうか。ただ「震災遺構」群のメモリースケープは、震災の悲劇をもとにして成り立っていることを忘れることはできません。

01ヒロシマの記憶風景/直野章子/社会学評論 2010604号 日本社会学会 2010-03-31
02知のケーススタディ/多木浩二+今福龍太/1996.12.10 新書館

 

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時への抗い

建築においては「時間が排除され、消去され、隠蔽されている」01と哲学者の小林康夫さんはいいます。すなわち作品としての建築は、「錯綜的、複合的な時間性を無視」することで「みずからの純粋な形態の超越性を確保」しようとしている、というのです。
 たしかに建築家にはそうした思考の中で建築を発想する傾向があります。建築家の磯崎新さんも「時間の進行を停止させることが、設計である」02と述べていますが、さらに磯崎さんは「にもかかわらず、徐々にこの(作品の)風化は進行する」と続けて述べているように、純粋な形態として発想された建築は、現実の空間に実体化した途端に「時間の予測しがたい暴力にさらされ、洗われ」01ざるをえないのです。
 建築家の創作の歴史は、こうした時間の暴力に対する抗いの歴史であったといえるかもしれません。建築に時間を取り戻すために、スペインの建築家ガウディは「絶えず変貌してやまないある種の生命体」01として建築を考えました。また「日常的な時間がもたらす乱雑化、不安定化を上回る複合性をあらかじめ建築のうちに仕掛け」01ようと試みた建築家もいました。
 ヨーロッパの大聖堂では、ステンドグラスを通した光の変化による“時間の軌跡”を建築のなかに取り込み、古代マヤのチチェン・イッツアにあるククルカンのピラミッドのように都市的空間のなかにモニュメンタルに時間を取り込んだ例03もありました。また古代ローマのハドリアヌス帝は、時と空間を越えて世界中(当時知られていた限りの)の景勝や建物を一箇所に再現しようとしました。このような試みが「不滅性、永遠性の希求となって、数々のモニュメントの制作として歴史に記録され」02たのです。


ククルカンのピラミッド/チチェン・イッツア/メキシコ

01:身体と空間/小林康夫/1995.11.25 筑摩書房
02:廃墟論/磯崎 新/見立ての手法 1990.08.10 鹿島出版会
03北面の階段の最下段にククルカンの頭部の彫刻があり、春分の日・秋分の日の太陽が沈む時、ピラミッドが真西から照らされ、階段の西側にククルカンの胴体(蛇が身をくねらせながら階段を降りてくる姿)が現れます。ククルカンの降臨と呼ばれ、多くのの観光客が押し寄せています。

 

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