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壁画を描くこと

 ショーヴェ洞窟の壁画を描いた人々がどのような“言葉”を使っていたかはわかりません。でも彼ら現生人類以前に活動していたネアンデルタール人たちはHmmmmm(Holistic、Manipulative、Multi-Modal、Musical and Mimetic)と呼ばれる“全体的”なコミュニケーション形式を用いていた*01といわれています。動物たちの多くは敵を発見すると警戒音を発し仲間に危険を知らせますが、氷河期を狩猟生活をしながら生き延びた初期人類たちは、仲間との協力行動を高度に発達させていくなかで、警戒音だけでなく様々な感情表現を発声やしぐさに込め、また物を使うなどして、全体的、操作的、多様的、音楽的、模倣的な方法でコミュニケーションを成立させてきたのです。このHmmmmmは同一の時空間の中で、同一の実体験をリアルタイムで共有できる少人数の集団において有効なものでした。
 
ところがこのHmmmmmは“全体的”であるがゆえに、ひとつひとつの単語を組み合わせてつくりだす新しい表現にたどり着くことができなかったのではないか、と認知考古学者のスティーヴン・ミズンさんは指摘します。このことが、氷河期の厳しい環境の中で、小人数を維持するのがやっとな狩猟に依存せざるを得なかったことと合わせ、20万年にわたる「極度に固定した文化」をもたらし、彼らの中でいわゆる“言語”を生み出すことがなかった原因だったのではないか、というのです。
 
われわれ現生人類(ホモ・サピエンス)は“言語”を使います。しかしその初期の段階では、いま私たちがなじみ親しんでいるような言語体系とは異なったものでした。ネアンデルタール人たちの全体的なHmmmmmから、もの・ことの仕分けが進行し、形式的な、抽象的な“言葉”が徐々にかたちづくられていったのですが、その最初期の〈かたち〉がショーヴェ洞窟の壁画だったのです。
 
「壁画を描く」という行為はどういうことなのでしょうか。そこに描かれたものは、彼らが実際の環境の中で遭遇した一連の出来事とその行動のプロセスの総体が詰まった心的イメージでした。彼らはそのイメージを生み出した総体の〈意味〉を、心の中でそのイメージを再現することで〈理解〉していました。そして仲間にもその〈理解〉を伝えるため、その〈意味〉に〈かたち〉を与えようとしたのです。そこに現れるのが「内なる」空間として仕分けられた洞窟の「空間」です。その空間は居住の原単位としての“巣”ではありませんでした。彼らの高度化した共同生活が生み出した仲間と共有する「内なる」空間だったのです。そしてその「空間」こそ、〈意味〉を共有するための〈かたち〉が求められた場所でもあったのです。その場所で彼らが見たものは、外の空間で彼らが遭遇し、心に刻み込まれていたある心的イメージを彷彿とさせる岩の形状でした。彼らはそれを見て、心的イメージを心の中で“再現”し、〈理解〉し、それを何とか仲間たちに伝えようとしたのでしょう。そこで彼らの脳内に蓄積されたイメージ(ニューロンの反応群)から、彼らの脳内のニューラル・ネットワークが選び出したものが、酸化鉄や炭などの自然素材の顔料などの初期のペイントの材料に対する博物的知識と、それを岩肌に塗るという技術的知識、そして実際に腕と手を動かして壁に顔料を塗りつけていくという運動指令群の選択でした。さらに仲間に伝えたい〈意味〉に与えられる〈かたち〉としての〈心的イメージ〉を、どうそのペイントの動きに収斂していくか、という選択がおこなわれていったのです。イメージの中に一番強く残っている動物たちの輪郭線の情報が選択され、ペイントする運動指令群に伝えられていったのです。
 
この一連のプロセスの中で彼らは、まず自分自身の中でその一連の作業がどのような〈意味〉をもつ〈心的イメージ〉をつくり出すか、すなわち〈理解〉できるか、ということをシミュレーションしたに違いありません。そしてもっとも自分にとって望ましい効果を導き出す運動指令群を選びだし、それによって洞窟の岩肌に〈かたち〉を描き出していったのです。
 
このプロセスは、自分がつくり出した“言葉”によって自分自身が〈理解〉するという、“言葉”の生成と〈理解〉の生成の自己再帰的構造による考える「自己」意識を人間が持つようになったプロセスと同じです。「壁画を描く」という行為は、この考える「自己」意識によってなされたものだったのです。


壁画を描くこと
Gilles ToselloさんのHPより。

01歌うネアンデルタール-音楽と言語から見るヒトの進化/スティーヴン・ミズン/熊谷淳子訳 早川書房 2006.06.20

 

 

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