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建築随想
形容しがたいほどの矛盾
建築家の磯崎新さんは、今井兼次のガウディに対する捉え方について「今井さんはガウディをサグラダ・ファミリアの正統として、カトリックの要素を表現するためのなにものかの手がかりで見てるところがある」と指摘したうえで、「ガウディが果たしてあれをカトリックのなにものかの再現表象、リプレゼンテーションとして、ああいうスタイルをつくったのか、そうは言えない」*01と述べています。
ガウディは後半生において敬虔なカトリック信者だった、とはよく言われていることですが、バルセロナ在住の建築家、丹下敏明さんは、この話はどうもあやしい*02と述べています。そしてガウディが生前、教会批判を繰広げるアンチ・カトリックたちの溜り場だった「カフェ・ペラヨ」の常連で、彼らと親しく交わっていた、という伝記作家の話を紹介しています。
カタルーニャ文化研究の田澤耕さんによれば、当時バルセロナには「タルトゥリア」という知識人たちの集まり*03がありました。知識人や芸術家たちは、毎夕、決まったカフェに集まり、政治、芸術などについて論じ合っていたのです。高い天井、鏡張りの壁、市松模様の石造りの床、そして大理石の小振りなテーブル。そういった作りのカフェに、夕刻になるとフロックコートに山高帽といった装いのメンバーが三々五々集まってくる。もちろん、出席をとるわけでもなければ、議長がいて司会をするわけでもない。自然に集まり、また自然に散会になる。このようにそのころの知識人や芸術家は、今よりもはるかに直接顔を合わせて意見を戦わせる機会が多くあったのです。そしてそこから新しい思想や芸術潮流が生まれることも少なくなかった、といいます。このような集まりが「タルトゥリア」でした。
バルセロナの有名な「タルトゥリア」が開かれた「4CATS」
丹下さんが紹介したペラヨ通りの「カフェ・ペラヨ」にも、そのような有名タルトゥリアがありました。そこにはノーベル賞候補にもなった劇作家やカタルーニャ文学界のドン的存在の文芸評論家、建築家でバルセロナ大学数授、カタルーニャの国民的詩人などそうそうたるメンバーが集まっていた、と田澤さんは指摘します。そしてこのカフェで、タルトゥリアが始まる前にたむろする若い連中のグループがありました。その一人がガウディだった、というのです。
ファリウ・アリアスという伝記作家の記述によると、このグループはとくに反宗教的で、彼らは連れだって出かけて行き、教会の前でミサに通ってくる信者たちを待ちうけて、「無知な子羊たちよ!」とからかうことさえあった、といいます。しかし、田澤さんによればこの内容に異を唱える専門家も少なくない*03といいます。その根拠は、同時期に、ガウディが宗教関係のデザインを少なからず手がけていることや、自分の姪の進学先として、女子修道会の学校を選んでいることなどですが、さらにはその異論を再度くつがえすような証言もあった、といいます。カタルーニャ語の散文のお手本とまでいわれた名文家のジャーナリスト、ジュゼップ・プラのエッセー集『灰色の手帳』のなかに、ガウディを直接知っていた、建築家にして詩人、美術史家と、多くの顔を持つ文化人ジュゼップ・ビジュアンの言葉が紹介されています。そこでビジュアンは、「その話(ガウディが反宗教的なグループにいたこと)が本当であっても驚かないね。なにしろガウディは、どう形容したらいいかわからないほど矛盾だらけの人物だったからね。とくに若いころは気性が激しかったし。彼のなかでは宗教的な危機もずいぶん長く続いたように思う」*03と述べています。
ガウディが「カフェ・ペラヨ」にかよい、反宗教的な言動さえしていたこの時期に、一方で彼の生涯をかけた仕事となるサグラダ・ファミリア教会の建築家にガウディは選ばれることになります。彼が若干三十一歳の時でした。
後のガウディの作風が強く示唆する、純粋で敬虔なカトリック教徒のそれとは大きく異なる、形容しがたい矛盾の何かが、すでにこの時からガウディの中には、確かに存在していた、といっていいのかもしれません。
*01:アントニ・ガウディとはだれか/磯崎新/王国社 2004.04.10
*02:気になるガウディ/磯崎新/新潮社 2012.07.25
*03:ガウディ伝-「時代の意志」を読む/田澤耕/中公新書2122 中央公論新社 2011.07.25

神との出会いの建築
もうひとつ今井兼次がガウディの類まれなる特徴として強調したのが、ガウディの高い宗教性と倫理観でした。彼が最初にバルセロナを訪ねた1926年の時点で、すでにサグラダ・ファミリア聖堂建立にあたってのガウディの次のような献身的な姿が紹介*01されています。
ガウディは建設の半ばにして、寄付金が日に日に減少し、自己の全財産を提供してもその難題は容易に破ることができず、諸材料の支払いにも窮し借財する状況でした。彼が何ごとか偉大な感応に打たれたのはこの時だったといいます。名誉も捨て、家族とも親しむことなく、総ての時間を工作と寄付を募るために見知らぬ家々を次から次へと訪問し、いわゆる托鉢にその時間を費やしたというのです。こうして彼は全生涯を奉仕に捧げてしまったのです。
神の栄光に輝き、信者の謙虚にして熱烈な信仰を表すこの聖堂は、ガウディの芸術が信仰との一致において彼の制作態度の中に貫かれていたゆえに、始めて偉大な芸術となっている、と今井兼次は強調します。それは信仰なき芸術のよくなし得る規模のものではない*02というのです。ガウディは、構造力学、芸術、信仰面を基として中世ゴシック聖堂を現代に発展せしめようとした*03のであり、「死ぬことのない神に奉仕する」という究極の人間像を探求することなくしては、彼の建築・芸術の綜合について言葉を進めることは困難だ*04と今井兼次は断言します。
またカタルーニャ文化研究の第一人者である田澤耕さんも、ガウディの神との出会いについて次のように述べています。「合理的な構造に支えられた美を追い求めているうちにガウディは気がついたに違いない。自分が目指しているものはすべて、既に自然の中に存在しているということを。身を削るような思いで設計しても、作り出せるものは自然のほんのひとかけらにもおよばない。これほど完全なものを生み出せるのは神以外にはありえない。私は自然を模倣しているにすぎない!それはガウディの偽らざる心境だった・・・自らの天職である建築に打ち込む内に神と出会い、その仕事の完璧さの前に謙虚に頭を垂れ、親交を深めて行った」*05のだ、と。そして田澤さんはガウディの次のような言葉を引用します。
『私は創るのではない。写しているのだ。』
「キリスト降誕の扉上の“聖家族”」
クロヴィス・プレヴォ:ガウディ・ヴィジョンClovis Prēvost/GAUDI VISION 展カタログより
東京=1990年9月27日(木)~10月8日(月)大丸ミュージアム
主催=朝日新聞社
*01:海外に於ける建築界の趨勢(其二)/今井兼次/建築学会パンフレット第一集第一〇号 1928
*02:芸術家の倫理/『職業の倫理』現代生活倫理講座第七 1958/作家論Ⅱ-芸術家の倫理/今井兼次/中央公論美術出版 今井兼次著作集三 1994.01.05
*03:力学を超えた建築家-アントニオ・ガウディのこと/「芸術新潮」一九五七年二月号)/同上
*04:アントニオ・ガウディ/「新建築」一九五九年七月号/同上
*05:クライアントは神だった/田澤 耕/ガウディが知りたい!/エクスナレッジ 2004

組積造のトポロジー変換
ガウディを四十年先行する現代建築の預言者と呼んだ今井兼次は、その理由として、ガウディの建築における芸術と科学の調和をあげています。つまり建築の造型美と構造力学の融合が、生命体の生き生きとした総合美の中で完成されている*01というのです。ガウディは、冷たい合理の追求のために力学的重要性をことさらに示そうとするのではない。彼の力学は、建築芸術の有機的な表現の中で、「つつましくはあるが力強い役割」を果している、というのです。
ガウディの建築の外部的な形と、常識では想像できない表現は、単に感情のみから生み出されたものではない。形態を決定する必要性への追求と深い構造的な配慮のあらわれだ*02と今井は分析します。ガウディは「自然に対して強い関心をもち、注意深い観察の中から、これらを支配する法則の研究に進み、その中から形態と構造の幾何学的原則を求めようとした」*02のです。
今井によればガウディは、自然の光の中に形の大胆さ、優美さと輝く色によって生命なき物質に生命を与え、あたかも血液が流れているかのごとく、力強いダイナミックな躍動をかもし出し*02ています。しかし、その動的な中にガウディは「一瞬の休息を忘れず平衡を与えることにつとめ」ていて、その秘密は「生物のみが到達しうる自由と均斉のリズム」*02にある、というのです
ガウディが今日、これほどまでに脚光をあびている最大の理由として、その特異な造形的形態が、実は力学的な構造原理に裏打ちされた技術的な合理性を持っている、という議論があります。このことについての今井兼次のいち速い指摘の後、建築家の磯崎新さんも1965年に「トポロジー変換された組積造」*03の中で、ガウディの仕事は「有機的建築の系譜で重要なポイントに置かれることは間違いない」としつつ、さらにはそういった外的な諸要因から触発されたイメージを、具体的な形態へと転換していく際の方法、すなわちガウディの建築構造へのアプローチについて言及しています。彼は構造を建築形態の表現の基本とした。彼の作品の形態的な異様さは、「組積造を、それが破壊しない限界内で、可能なかぎりトポロジー変換したもの」だった、というのです
また現在のガウディ研究の第一人者で、建築家の入江正之さんも、G・R・コリンズとJ・J・スウィーニィ、J・L・セルトらが1960年代初頭にそれぞれ発表したガウディの「形態と構造」に関する論究の中で「ガウディの形態の世界は、自然の諸法則にもとづく規則性をもつ幾何学的二次曲面の形態と、力学的・合理的構造の総合とに定義づけられる」としたことが、60年代にガウディが世界的に地理的広範囲に理解を得られるようになった一つの要因である*04と指摘しています。
ガウディの構造合理性の追及を示すコロニア・グエル教会の”逆さ吊り”実験。
/サグラダ・ファミリア・ミュージアムの再現模型
*01:芸術家の倫理/『職業の倫理』現代生活倫理講座第七 1958/作家論Ⅱ-芸術家の倫理/今井兼次/中央公論美術出版 今井兼次著作集三 1994.01.05
*02:アントニオ・ガウディ/「新建築」一九五九年七月号/同上
*03:トポロジー変換された組積造/磯崎新/みずえ 1965.4
*04:アントオニオ・ガウディ論/入江正之/早稲田大学出版部 1985.05.25

四十年先行する現代建築の預言者
今井兼次は、ル・コルビュジェのロンシャン礼拝堂の登場を受け、1957年の雑誌に、「ガウディはル・コルビュジェより四十年を先行した現代建築の予言者」*01であった、と書き記します。それはまるで、それまで永く沈黙せざるを得なかった鬱憤を晴らすかのように高らかに。
たしかに、彼がガウディの遺作(サグラダ・ファミリア)を訪ねた一九二六年頃は、ル・コルビュジェの世界建築界への抬頭期でもあり、ガウディの作品はスペインでさえその光りを認められず、孤独の姿のまま、当時世界の脚光を浴びはじめた現代建築の主流からはるか遠く置き去られ*01てしまっていました。
しかしそれから三十年、時代は変わったのです。今井兼次は「彼こそ現代建築の健全な明日の方向性を決定する重要にしてかつ豊かな無限の糧を内包するもの」*02だった、と明言します。さらにはガウディを高く評価するル・コルビュジェ自身の言葉*04を引用し、「ガウディは偉大なる芸術家であった。人々の心に感激を残すものだけが残り、それのみが存続するであろう。高遠なる意向が支配する時、その意義が明らかにされた建築、構造、経済、技術、用途など建築の第一線上に集中して生ずるあらゆる問題に対決して行われた建築、内的きわまりない建築への追及の心遣いの結果、建築が彼の性格の結実となった」*03と称賛するのです。
今井自身が1926年に実際に会っている、世界の建築界を巻き込む大きなうねりを引き起こした天才。そのル・コルビュジェ自身が、ガウディを称賛し、ついには自身の作風にガウディを取り入れたようにさえ見える。それは暗い、怖しい心におそわらながらも、ガウディをその心の奥底にしっかりと刻み付けた今井兼次にとって、我が意を得た心境だったに違いありません。
*01:力学を超えた建築家-アントニオ・ガウディのこと/「芸術新潮」一九五七年二月号/作家論Ⅱ-芸術家の倫理/今井兼次/中央公論美術出版 今井兼次著作集三 1994.01.05
*02:不死鳥の建築家の作品 ガウディとシュタイナー/『ガラス』一九六四年三月号/作家論Ⅱ-芸術家の倫理/今井兼次/中央公論美術出版 今井兼次著作集三 1994.01.05
*03:アントニオ・ガウディ/「新建築」一九五九年七月号/作家論Ⅱ-芸術家の倫理/今井兼次/中央公論美術出版 今井兼次著作集三 1994.01.05
ル・コルビュジェが序文を寄せたスペインで刊行されたガウディの作品集
04:gaudi /Le Corbusier - Gomis, Joaquin - Prats Vallés, J./ Published by Barcelona: Editorial R.M. /1958
