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文化の自立を図る宣言

 18世紀ドイツの美術史家ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマン(1717~1768)は、自ら著した「ギリシア美術模倣論」(1755)や「古代美術史」(1764)において、古代ギリシア美術を最高の価値基準として提示し,後の美学・芸術思想に大きな影響を与えました。
 
当時、古典古代と呼ばれたギリシア・ローマ文化が西洋文化の源泉と広くみなされていましたが,その中でもローマ人こそがギリシア文化の真の後継者といわれていました。そしてイタリアやフランスは,このローマの文化を自国の文化と連続したものとして捉え、西欧における美術の伝統において圧倒的な優位を誇っていたのです。
 
そこにヴィンケルマンは,「高貴な単純と静かな偉大さ」というキーワードをかかげて、ローマを経由しないで、純粋の源泉としてのギリシアに直接つながること*01を求めたのです。それは起源への遡及としての「歴史」の登場を意味しました。その結果、それまでのローマ文化を背景にしたフランス・イタリアの圧倒的な文化支配から,直接ギリシア文化につながることによるドイツ民族文化の自立が図られたのです。そして同時にそれは、王侯・貴族の支配する宮廷文化からの、市民階級の文化の自立を図る宣言*01でもありました。
 
ヴィンケルマン以降次々と登場する各国の「建築史」「美術史」も、それぞれの民族の共同精神の現れと位置づけられた国民様式を通して、国家の確立を図るための装置*02となったのです。
 
「日本建築史」の発明者であった伊東忠太においてもこの発想は共有*02されていました。それは日本に「歴史」があったかどうか、ということではなく、日本という「国家」及びその「国民」があるのだから、そこには独自の連続的文化があるはずだ、という「観念」にもとづいたものだったのです。

 

 
ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンラファエル・メングスによる肖像画

01:ヴィンケルマンが目指したもの-「ギリシア美術模倣論」について/島田了/愛知大学 言語と文化 No20 2009.01
02:思想としての日本近代建築/八束はじめ 岩波書店 2005.06.28

 

 

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「創造=発明」された「歴史」

 明治初期、西欧諸国で開催された万国博覧会は、当時の日本にとって「国策(殖産興業)と美術という制度の整備が共に行われた場」*01だった、と八束はじめさんは指摘します。そして文化-制度空間の整序と同時に必要とされたのは、西洋と同じテーブルにのせるために個々の作品を位置づける「歴史」化の作業*01でした。
 
フランスの哲学者ミシェル・フーコーさんが「歴史が出現した場所、それは十九世紀ヨーロッパであった」*02と述べているように、いま私たちが持つ「歴史」という概念も、実はヨーロッパで十八世紀末から十九世紀初めにかけて出来上がったものでした。我が国で「歴史」化が始まる一世紀ほど前のことです。
 
しかしながら明治以降、西洋から押し寄せた様々な文物に合わせて再コード化を余儀なくされたこの国では、この彼我を隔てる一世紀の諸変化は過去の数世紀に匹敵した*01と八束さんはいいます。移入は遅れた分だけ凝集されねばならず、明治とは歴史を構成する意志に充満された時期であった、というのです。
 
アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインさんによれば、19世紀に急速に発展した歴史学は「国民」を形成するための「ナショナリズム」装置だった*03といいます。日本に押し寄せた様々な文物のカテゴリーの、それぞれの「歴史」化を通して、それらを囲い込む「日本」という枠組が構成されたのです。「美術」や「建築」とその歴史は、「国民」や「国土」を、そしてその先に「日本」を-相互的かつ可逆的に-生産する装置*01だったのです。
 
西欧文化の翻訳であった「美術」や「建築」も、「歴史」を与えられることではじめて「美術」となり「建築」となった、と八束さんはいいます。つまり「建築史」は「建築」の「歴史」を記述するだけでなく、それを生み出す装置でもあった*01のです。
 
このようにして明治初期の日本では、岡倉天心が「日本美術史」を、伊東忠太が「日本建築史」を、各々「創造=発明」*01したのです。

 

 
UN DIALOGO SOBRE EL PODER Y OTRAS CONVERSACIONES (En papel)
MICHEL FOUCAULT , ALIANZA EDITORIAL, 2012

01思想としての日本近代建築八束はじめ 岩波書店 2005.06.28
02:ミシェル・フーコー思考集成/蓮實重彦・渡辺守章 監修/筑摩書房 1993-2001
*03:入門・世界システム分析/イマニュエル・ウォーラーステイン/山下範久訳/藤原書店 2006

 

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「四角張った文字」にまかせた意味

 

 柳父 章さんは、私たちの国は一貫して翻訳受け入れ国であった*01といいます。そして翻訳されるべき先進文明のことばには、必ず「穏(おだやか)なる日本語」で表現できない意味がありました。そこで、私たち日本人は、そのとらえ難い意味を「四角張った文字」じたいにまかせた、というのです。
 
新しい文字の、いわば向こう側に翻訳されるべき先進文明のことばの意味があるのですが、それは翻訳者が勝手においた約束で、多数の読者には分からない、と柳父さんはいいます。分らないのですが、長い間の私たちの伝統で、むずかしそうな漢字には何か重要な意味がある、と読者の側で受け取ってくれる、というのです。
 
日本語における漢字の持つこうした効果を柳父さんは、casset(小さな宝石箱)効果と名付けています。小さな宝石箱cassetは中味が何かは分らなくても、人を魅感し、惹きつけるものなのです。上代以来千数百年、中国などの先進文化を、漢字という書きことばを通じて受け入れてきた歴史的な背景がそこにはありました。
 
西欧文明の翻訳語である「美」や「美術」もまた、そのような効果を持った言葉でした。
 
もともと漢字の「美」という字は3000年以上前に中国において発明されたものですが、それは「羊が大きい」という具体的な意味を持っていました。羊をいけにえにささげる風習や家畜の文化圏では、羊が肥えているというのはとても好ましい状態であり、これが日本で「美(うま)し」というやまと言葉と合体していったのです。
 
本来、「うまし」という言葉は、うまい、味がよいという意味ですが、もう一つ、物に対する賛美の気持ちをあらわし、立派な、素晴らしい、良い、美しいという意味にもよく用いられています。もともと日本人の感覚では、驚嘆した時にでる「めずらしい」「見たことがない」「おやッと思う」ことが「美しい」ということでした。これは驚嘆したときにビューティフルというようないい方をする英語の感覚ともかなり似ている*02といいます。どちらも人間の感情や反応から出た言葉でした。
 
このように日本における「美」とは、環境世界の具体的な経験に直結した根源的な感情と密接に関係したものでした。そこにはまさに「美しい」花という、具体的な対象と結びついた、感情としての使われ方があったのです。
 
近代以降西欧文明の、花の「美しさ」というような具体的な対象から離れた、普遍的で、いわば自立した「美」の概念に出会ったとき、翻訳者は、同じ「美」という漢字の向こう側にこの新しい舶来の意味を込めたのです。そしてその時、このような西欧的な「美」のとらえ難い意味を、私たち日本人は、伝統に従い「美」という「四角張った文字」じたいにまかせてしまったのです。

 

 
日本が初めて参加したウィーン万国博覧会ではじめて「美術」という用語が用いられました。ウィーン万国博覧会・日本館1873


 日本ではじめて「美術」という用語が用いられたのは、一八七三年(明治六年)のウィーン万国博覧会に参加したときだった*03といわれています。それは出品した陶器や絵画を「美術品」として西洋と同じテーブルに乗せる必要に迫られ、導入した概念でした。そしてその成果は、欧州にジャポネズリー・ブームを巻き起こし、明治一〇年代後半から二〇年代の輸出総額のうち、伊万里焼などの美術工芸品の占める割合は一〇パーセントにも及んだといわれています。「美術」は個人の表現意欲のうちなどではなく、国際市場という経済的な平面で成立した*03のです。

01:翻訳語成立事情/柳父章/岩波新書189 1982.04.20 岩波書店
02:「しるし」の百科/荒俣宏/1994.10.15 河出書房新社
03:思想としての日本近代建築/八束はじめ 岩波書店 2005.06.28

 

 

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美を解しないはずの国の「建築」に「美」を見いだす矛盾

 伊東忠太を魅了した、すべての知識をもって人々を統率し、都市文化をつくりあげるウィトルウィウス的建築家(アーキテクト)像。それはまた「一箇ノ美術品トシ生気風韻ノ凝固体01として建物をつくりあげる存在でもありました。しかしながらここで伊東が取り上げた「美」という言葉もまた、明治以降に翻訳された舶来の概念だったのです。
 
「翻訳語」の成立過程を手がかりに「翻訳文化」としての日本の学問・思想の基本性格を問い正してきた柳父 章(やなぶ_あきら)さんによれば、「近代以前、日本では、「美」ということばで、今日私たちが考えるような「美」の意味を語ったことはなかった」02といいます。それは小林秀雄さんが「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」03と述べているように、私たちの国では「花の美しさ」という抽象観念によって美しいものをとらえようとする言い方も乏しく、したがってそのような考え方もほとんどなかった02というのです。
 
もちろん柳父さんも指摘するように、「花」「わび」「幽玄」「風雅」など、舶来の「美」の概念とある程度似た言葉は日本の伝統の中にもありました。しかしながらそれらの言葉はそれぞれ茶道や能など特定の体験を重視する、極めて具体的な概念でもあったのです。それらの言葉によっていわば「芸術の理念に対応するような価値観」が語られましたが、それはあくまでその“道”特有の体験を通して、その“道”を究めようとする人々の精神を支える、という性格のものでした。したがって西欧の「美」のように一つの普遍的な概念としての「美」を現わすものではなかったのです。


日本の伝統的な「美」の概念は、特有の体験を通してその“道”を究めようとする人々の精神を支える極めて具体的な概念でした。
能楽/文化遺産オンライン

 「建てる」「築く」という意味の「建築」という言葉には、物理的存在としての構築物である建物と、それをつくりだす技術・施工という面が強く込められています。私たちはこの日本語の「建築」という言葉の意味に引きずられてしまっています。いまだに多くの日本人が建築家と伝統的な匠(たくみ)-ものを作る工芸技能に優れた人の敬称-とを混同する理由がそこにあるのです。
 
もともと「アーキテクチュア」という言葉がもっている建物に込められた「芸術性」や「思想」・「方法」という意味が日本では十分に受け入れられませんでした。それは「建築」という翻訳語の失敗でもありますが、もともと「美」という普遍的な概念そのものが日本になかったことも大きく影響していたのではないでしょうか。そもそも伊東忠太が日本に「建築」という言葉を移入した時から、「美」の概念が不在であり、従ってその「匠工」が美を解しないはずの国の「建築」に「美」を見出すという矛盾*04があったのです。

01:伊東忠太「建築哲学」一八九二/藤森照信校注『都市 建築』『日本近代思想体系』一九、岩波書店 一九九〇に一部が所収
02:翻訳語成立事情/柳父章/岩波新書189 1982.04.20 岩波書店
03:「当麻(たえま)」/モオツァルト・無常という事/小林秀夫/新潮社 新潮文庫 1961.05.17
04:思想としての日本近代建築/八束はじめ 岩波書店 2005.06.28

 

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