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漢字への強い執着

 外来語である漢字を習得しようとした時、日本人は、漢字の原文を一つ一つ時間をかけてゆっくりと、書き順をなぞるように目で追いながら、その〈意味〉を読み解いていきました。そして日本語でその〈意味〉にもっとも適した言葉の「音」をその漢字に与え、日本語の統語法(シンタックス)にしたがって、読み下し、書き綴っていったのです。
 七世紀後半ごろから「訓読」を前提とした方法で、日本語そのものを写すスタイルが登場した、と言語学者の大島正二さん*01は指摘します。「漢字文」と呼ばれるもので、その文は漢字でつづられていても、文章としてはいささかも漢文ではありませんでした。それはまだ仮名が生まれない段階の、日本語文だった*01のです。
 その後、音・訓共用の「古事記」(712年)、日本語の送り仮名を訓読みした漢字で記した「宣命書き(宣命体)」を経て、すべてを訓読した日本語である万葉仮名で書かれた「万葉集」(759年~)が登場します。そしてついに表音文字である平仮名、片仮名(9世紀~)が生まれ、現在に至る漢字仮名交じり文(11世紀~)が登場してきたのです。
 この一連の流れの背景には、どのようにしたら漢字で日本語を書くことができるか、ということに対する私たち日本人の、長い間の悩み、悪戦苦闘の歴史がありました。もともと構造がまったくちがう日本語を書きあらわすのに、中国語用の漢字を用いることには、どう考えても無理があった*01のです。それにもかかわらず、日本人の先祖たちは、漢字に対する強い執着がありました。漢字のもつ限りない魅力、誘惑、共感がそこにあったからこそ、彼らは漢字を用いた日本語の言い表し方の実現にこだわったのです。
 それは、アルファベットが古代エジプトのヒエログリフから生まれてきた経緯とは大きく異なるものでした。ヒエログリフもまた古代中国と同じように先進文明であった古代エジプト文明がつくりだした複雑で精緻な表語文字でした。それは古代文明の周縁にいて、その先進文明を受容せざるをえなかった人々にも強い影響を与えました。しかしその複雑な文字を使いこなすことができなかった彼らは、必要に迫られ、ヒエログリフの字形を借用し、簡略化し、その「音」のみを自らの言葉の「音」にあてはめて利用する術を見いだしました。それこそが一つの「音」だけを表す究極の文字、アルファベットの誕生の経緯だったのです。それはまさに文明の「周縁」から生まれた文字でした。これに対し、同じ先進文明であった中国文明の周縁にあった日本では、その先進文字の受容の在り方が大きく異なるものとなったのです。


元暦校本万葉集

*01:漢字伝来/大島正二/2006.08.18 岩波書店

 

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一つ一つ目で追って読み解く

 漢字が日本ではじめて用いられるようになったころ、漢字は外国語の文字にほかなりませんでした。言語学者の大島正二さん*01は、漢字でつづられた文章は、中国音で音読される中国語の文章(いわゆる漢文)そのものであり、ごく限られた数の文字でことたりるアルファベットのような表音文字とちがって、その体系はまことに複雑で習得は容易ではなかった、と説明します。伝来しても長いあいだにわたって漢字は、〈音〉も〈意味〉も日本語とはまったく結びつかない、遠いかなたの外国語のようなものであり、閉ざされた世界のなかにある文字であった*01のです。
 大島さんは、最初は渡来人やその子孫によって移植された漢字・漢文は、仏教伝来などを期に本格的な学習がはじめられ、「十七条憲法」や「日本書紀」が純漢文として書かれるまで習熟されるようになった、といいます。そしてやがて訓読という平易化した読解形式を獲得する段階へと移行していった、というのです。
 「訓」とは、もともと漢字の〈意味〉を指している言葉ですが、日本で「訓」といえば、一つ一つの漢字がもっている中国語の意味を、日本語に翻訳した単語の社会的に固定した「読み」をさしています。「山」に対する「やま」、「池」に対する「いけ」などです。大島さんは、中国語という外国語を書きあらわす漢字に「訓」があたえられたことは、まことに大きな事件で、日本における漢字が、文字としての性格をまったく変えたことを意味していた、と指摘します。漢字から中国語がきりはなされ、漢字は日本語を書きあらわす文字として生まれかわった、というのです。
 漢字の訓読は、漢文(中国語の文章)の訓読という、世界に例をみない日本独特の外国語テキストの読みかたを生みだした、と大島さんはいいます。それは、他の外国語テキストの通常の翻訳のように、原文からはなれた訳文をつくるのではなく、原文の漢字を一つ一つ目で追いながら、片端から日本語におきかえて読みすすんでいく方法でした。したがってその作業はつねに原文の漢文を見ながら行われ、原文から離れることはなかった*01のです。このようにして日本人は、原文を離れた訳文をつくるのではなく、原文の漢字を目で追い、日本語の統語法にしたがって〈返り点〉や〈送り仮名〉をほどこしながら訳していく方法*01を生み出していったのです。


法隆寺金堂薬師如来像光背銘
仮名が生まれる前の、「訓読」を前提として漢字で綴られた日本語文/7世紀後半頃

*01:漢字伝来/大島正二/2006.08.18 岩波書店

 

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「まねること」から始める

 漢字という文字をつくりだしてきた中国では、漢字を、「線」を構成する種々のルールに則った、より抽象的な操作によってつくりだしてきました。それはこの世に存在するすべてのものを“数”的に、論理的に解き明かそうとした西洋の捉え方に対し、この世に存在するすべてのものに〈かたち〉を与え人為の中に取り込もうとした東洋の捉え方の成せる業だった、といっていいかもしれません。そしてその与えられた〈かたち〉が「漢字」だったのです。
 これに対し、一貫して漢字の受容国であった日本では、漢字を「まねること」からスタートしました。日本に最初に漢字が伝わったのは、4~5世紀頃といわれています。当初は、行政文書・記録として活用されましたが、6世紀中庸の「目に見える神」である仏教の伝来が漢字の本格的な導入を促進することになります。そこでの写経や教育を経て、漢字文化が確立していったのです。
 書を学ぶときに必ずおこなう「臨書」というのがあります。臨書とは、手本をそっくりまねして書くことですが、漢字が伝来した時も人々は同じように「まねる」ことから学習を始めたことでしょう。いま学校で学ぶ習字のように字形や用筆法の技術的習得とともに、外来語である「漢字」の「よみ」と「意味」をあわせて習得していったのです。
 まねをして書くということは、書をじっくり見て、自分の手のうちで再現するということです。目で見て私たちの脳内に記憶された「漢字」という「文字」のヴィジュアル・イメージを、獣毛でできた筆を利用して、紙の上に再現します。そのためにもっとも適した手や腕の動きを制御する運動指令群のトレーニングが繰り返されるのです。そこに「漢字」の「よみ」という「音」の関連付けがおこなわれます。特に仏教では声をだしてお経を唱えますが、そのお経のリズムは写経するときのリズムからきているのではないかとも思われるほどで、「漢字」の習得は、人間の「手(書くこと)」と「目(見ること)」に加えて「口(声に出すこと)」と「耳(聞くこと)」をも総動員した連合学習によってつくりあげられていったものだったのです。
 この「まねること」は文字を追体験することでもあります。時間をかけてじっくりと一字一字、書き順をたどるようにして、ある一定の時間をかけて、目でなぞっていくと、絵画を見るときとは違い、時間とともに展開していく、線の動きを味わう*01ことができます。そのことによって手本を書いた作者の意図や気持ちを汲み取ることや、作者がその書を書き記した時の状況、時空間がひとかたまりになったタイムウィンドウとしての状況を、追体験することも可能となるのです。


古典(九成宮醴泉銘)の学習(臨書)

*01:書のひみつ/古賀弘幸+佐々木一燈(イラスト)/朝日出版社 2017.05.30

 

 

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ふたつの驚異的な映像

 東北地方に未曽有の大災害をもたらした東北大地震、そしてテクノロジーの原罪を露呈した福島原発事故から8年がたとうとしています。このタイミングで先月末から今月初めにかけてふたつの印象的で、ある意味驚異的な映像が公開されました。そのひとつが2月28日に公開された「福島第一原子力発電所2号機原子炉格納容器内部調査映像パノラマ化」です。これは2018年1月19日に撮影された映像を合成処理しパノラマ化したもので、高放射線が充満し、溶融した核燃料(デプリ)が溜まった格納容器内部の全体像を、はじめてヴィジュアル的に、鮮明にとらえたものでした。それはコンピュータ内に作成された仮想のドーム内面に撮影時刻の異なる小さい映像を投影し、仮想のドームの中心から見たパノラマ映像としたもので、映像結合部に濃淡やズレ等が生じているものの、コントラストを強調するなど見やすさの処理が施され、原子炉内部の全体像がリアルに、三次元的に把握できるようになっているのです。
 冷却水が雨のように降り注ぐ格納容器の中で、ペデスタル(原子炉本体を支える基礎部)底部に溜まったデブリや中間の作業台を支える鉄骨柱(錆もなく黒光している!)、制御棒駆動装置の下部と思われる円筒状のものに錆びた配管類が垂れ下がっているグレーチング上部の天井などが手に取るように見て取れるのです。
 この映像を放送した報道番組では、廃炉に対し「ゴールが見えない」「いまだめど立たず」などの悲観的な意見が目立ちました。たしかに廃炉まで40年、最大81兆円とも見積もられている事故対策費などを考えれば、まだまだ先は見えないといっていいでしょう。しかし当初、放射線が非常に高いため半導体損傷など電子機器に与える影響が大きく、内部を窺い知ることさえ不可能ではないか、といわれていたことを考えれば、今回のこの内部の鮮明な映像は、テクノロジーの進展に対してある種の驚きをもって受け取ることができる、といっていいのではないでしょうか。


2019/02/28(木)福島第一原子力発電所2号機 原子炉格納容器内部調査映像 パノラマ化/東京電力ホールディングス株式会社

 もうひとつの印象的で、驚異的な映像が3月4日に公開された「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」にタッチダウンした際の映像です。地球から2億8000万キロ離れた、直径700mの「りゅうぐう」の地表に、わずか1mの誤差で実施されたミッションの様子を連続映像で捉えたものです。それは、「人類の手が新たな星に届いた」瞬間というJAXAのコメントも決して大げさには響かない感動を伝える映像だった、といっていいでしょう。そしてここでもまた、その驚異的な映像とそれを成し遂げたテクノロジーの進展への驚きを感じざるを得ないのです。


2月22日7:29に「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」に着地し、サンプルを採取した、「人類の手が新たな星に届いた」瞬間の連続画像
JAXA | 宇宙航空研究開発機構/2019/03/04 に公開

 宇宙空間も高エネルギーの宇宙線が充満し、電子機器等に様々な影響を与える環境です。このような中で開発された世界最高の放射線に強いカメラが福島原発の廃炉処理用に技術活用されています。またいずれも人間の手の届かないところで自律的に処理を行う能力がそこで働く機械には求められており、そうした意味でのテクノロジーの進展がこのふたつの映像に共通して感じられるものでもあるのです。それもまた未来への希望をつなぐテクノロジーの可能性を強く示している、といっていいのではないでしょうか。

 

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「見ること」と「書くこと」

 諸芸術の中で「書」は、自然科学の中で数学が占める地位に相当する*01と中国の書の研究家、陳廷祐さんはいいます。彼は「書は無形の絵画であり、無声の音楽であり、紙を舞台とする舞踏であり、また線で組み立てた建築だ」*01という言い方を用いて書をたとえ、賛美します。書は文字を表記したものですが、その文字は実用上の必要から生まれてきたものです。文字に造形上の変化を加え、デザイン的、装飾的意味をもつ字体にしていったものは世界各地の文字にみられますが、これらを超越し、一つの独立した高級芸術にまで昇華させていったものは中国の「書」だけであり、世界的に見て極端に特殊な現象だ*01と陳さんは主張するのです。
 では「書」とは何でしょうか。
 「書」という漢字は、「聿(いつ)」と「者」、つまり、書く道具である“筆”と文字を表現する“人”から成っています。つまり書は人が筆(ふで)で紙に書いて表現した文字のこと*02なのです。文字は、実用を超えて人間の感情・意志・思想などを表現、あるいは伝達する手段として工夫されてきました。そしてこうした人の思いを書き写していったものが「書」*02なのです。
 そしてそこに筆という道具の存在があります。筆は獣毛でできていることで、手の抑揚や強弱にダイナミックに反応し、人間の「手(書くこと)」と「目(見ること)」を連携させる働きをする*03と書・文字文化を専門とする古賀弘幸さんは指摘します。「書くこと」は「見る(読む)こと」に支えられていて、「見ること」は「書くこと」と分けにくく、表裏一体の関係にあり*03、それは他の芸術とは違う、「書」のちょっと独特なところだ、というのです。筆を持つことがもっと日常的であった時代には、「見ること」と「書くこと」の結びつきは、より強いものだったのです。


空海/風信帖(一部)

*01:書の美学/陳廷祐/成家徹郎訳 東京書籍 1992.03.25
*02:書の美/島谷弘幸/東京国立博物館監修 毎日新聞社 2013.07.15
*03:書のひみつ/古賀弘幸+佐々木一燈(イラスト)/朝日出版社 2017.05.30

 

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