goo

見て考える

 人間は発話するとき、脳内に生まれた目標音声にもとづいて、舌等の発声器官に運動指令を送り音声を発するのですが、他の運動指令と同じくその伝達プロセスの中で遠心性コピーがつくられ脳内に内在化します。発声器官の動きが何らかの理由で抑制されると、その内在化した目標音声(舌等への運動指令の遠心性コピー)が、心的イメージとして意識に上がる(=内言)のです。つまり黙読や内言をしているとき、私たちは遠心性コピーを「聴いている」*01のです。
 
このように意識にのぼってくる思考、すなわち自分自身がつくり出した“言葉”によって自分自身が〈理解〉するというプロセスは、音声として舌等から外に向かって発せられない“言葉”(=内声)を“聞く”ことによってなされているのです。
 
今から31000年前の現生人類たちが、ショーヴェ洞窟で岩の壁に動物たちのイメージをペイントしようとした時、つまり仲間に伝えたい〈かたち〉を、どうそのペイントする手の動きに収斂させていくかをシミュレーションしていた時、彼らはその手の動きの運動指令の遠心性コピーを“見”ていたのです。私たちが内声を聞いて“考え”るように、彼らは手の運動指令が描き出す〈心的イメージ〉を“見”て“考え”ていたのです。そしてもっとも望ましい効果を導き出す運動指令群を選びだし、それによって実際に岩肌に絵を描き出したのです。
 
ショーヴェ洞窟の壁画は、このように誰もが驚き、衝撃を受け、その完成度と高い芸術性を絶賛する声が途切れることがありません。一方で、それがほとんどの人が考えているようなものではまったくないかもしれない、という否定的な意見もあります。その一人、心理学者のニコラス・ハンフリーさんは、この「洞窟絵画は、新しい次元の知性のサイン徴候というにはほど遠いもので、ひょっとしたら、大昔の白鳥の歌[=遺作]と考えたほうがいいのかもしれない」*02と述べています。こうした考え方の多くは、新しい次元の知性のサインである“文字”の登場までに、さらに数万年の時間を要している事実をその理由に上げています。
 
たしかに洞窟壁画を彷彿とさせる象形文字が最初に登場するのは今から3300年前のことで、ショーヴェ洞窟の壁画から実に28000年もあとのことなのです。その間には大きな断絶があるように見えますが、最新の研究ではこの3万年は、まったくの空白期間ではなかったということがわかってきています。
 古人類学者のジェネビーブ・ボン・ペッツィンガーさん*03は、氷河期の洞窟の多くから、動物等の壁画とともに32の抽象的な記号が見つかっていることを明らかにしました。それらは時と場所を超えて繰り返し登場するもので、初期に勢いがあり、やがて人気が衰え消滅した記号や 後の時代に発明された記号もあります。しかし全記号の65%が3万年の間、ずっと使われ続けていたというのです。何千キロにもわたる範囲に広がる記号もありますが、分布パターンがもっと限られている記号もあります。古代岩壁画は驚くほど類似性が高く、その類似性はフランスやスペインから、インドネシアやオーストラリアにまで及んでおり、このような広範囲でたくさんの同じ記号が描かれたとなると、この発明をさかのぼるとアフリカという共通の起源に行き着くのではないか、と彼女は指摘するのです。
 
現生人類の手になる最古の動物壁画といわれているショーヴェ洞窟では、実はこの32の記号のうち人の手形のみしか見つかっていません。人間の手を岩に押し付け顔料を吹き付けて手のシルエットを残すネガティブ・ハンドと呼ばれるそれは、壁画に描かれた動物たちの周りにいる人間たちを表していることは明らかです。あくまで写実的に描かれた動物たちに対し、手形が表す人間たちはある意味抽象的です。それでもこの洞窟で共同生活をしていた彼らの仲間たちには、それが指し示すものは自明のものだったのです。ここに、仲間に伝える〈かたち〉が、具象性の高いものから、簡略化、抽象化した記号へと変化していく手掛かりが見受けられるのです。
 
それは、〈心的イメージ〉を“見”て“考え”ていた彼らが、簡略化、抽象化した記号を経て、明瞭に仕分けられ、内声化した“言葉”によって“考え”るようになっていったプロセスの存在を示しています。そしてそのプロセスのスタートと進展の背景として、人間たちが住み込み、〈意味〉が生まれる物理的世界の中で、内なる空間として仕分けられていった洞窟という、自己の存在「空間」があったことをそれは示しているのです。


最古の32の文字?
First Signs: Unlocking the Mysteries of the World's Oldest Symbols

*01:
対話がつくる心-運動意味論からみた対話/月本洋/心理学ワールド(64) 日本心理学会 2014.01

*02:
喪失と獲得-進化心理学から見た心と体/ニコラス・ハンフリー/垂水雄二訳 紀伊国屋書店 2004.10.30
*03:最古の文字なのか?-氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く/ジェネビーブ・ボン・ペッツィンガー/櫻井裕子訳 文芸春秋 2016.11.10

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 壁画を描くこと 自らの手でつ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。