ブッダの最初のころの弟子の一人に、アッサジがいました。彼がマガタ国のお城の敷地で托鉢をしていたとき、遠くからその姿をシャーリープトラが見ていました。シャーリープトラはバラモン教の修行者で、サンジャヤという名の指導者について修行していました。シャーリープトラは、彼の托鉢をして歩いている姿が立派だと思い、彼に話を聞いてみることにしました。
シャーリープトラは尋ねました。
「あなたのお師匠さんはだれですか」
アッサジは答えました。
「ブッダです」
シャーリープトラはまた尋ねました。
「ブッダはどのような教えを説かれていますか」
アッサジは答えました。
「私は入門してまだ日が浅く、ブッダの詳しい教えをあなたに伝える資格がありませんが、仏陀は日ごろ『物事には種がある』と教えておられます」
シャーリープトラは言いました。
「私は何年も修行してきたが、そのような教えを聞いたことがありません。『物事には種がある』という意味はよく分からないけれども、仏陀は私のようなものでも弟子にしてくださるでしょうか」
アッサジは答えました。
「私たちは雨をしのぐ家もなく日々修行をしております。それでもよろしいでしょうか」
かくしてシャーリープトラは、友人のモッガラーナと若い弟子たち250人を引き連れてブッダのところへ入門しました。それまで50人足らずだったブッダの教団は、一気に大きくなりました。その後、アッサジは勿論、シャーリープトラ、モッガラーナたちの入門のおかげでブッダの教団はその後、一大発展を遂げました。そのように仏教はすぐれた弟子たちの努力によってその後に発展しました。
物事には「たね=原因」があって、それを取り持つ「えにし=条件」があって、「みのり=結果」があります。この教えは「縁起」と呼ばれ仏教のみならず、政治、経済、物理化学、医学、人間関係その他、あらゆる分野で役立ちます。たとえば、分子や原子も粒子=「たね」です。実は、ニュートンによって光も粒子だとされました。2002年ノーベル物理学賞を受賞された小柴昌俊先生の研究、ニュートリノも粒子です。ブッダの教えは普遍的で時代を超えます。
「物事には種がある」を自分に置き換えて考えてみましょう。仏教徒としての「たね」は「仏心」で、両親を「えにし」に「わたし」というみのりがこの世に生まれてきました。仏教徒はブッダの心が「たね」です。理屈ではなくそのように感じたいのです。平和で安らかなブッダの心を拝んでいきたいと思います。