臨済宗南禅寺派圓通寺

Zazen 法話のページ

仏 教 と 女 性

2020-09-29 | Buddhism
大乗仏教で、女性にとって特筆すべきことは阿弥陀仏の48願の中の第35願、「女人往生願」です。これで仏教は世界宗教になりました。今日、日本の寺院参詣者は8割から9割が女性です。日本仏教は女性たちによって支えられていると言って間違いありません。

光明皇后(701~760)は日本仏教の功労者です。東大寺の建立に際し聖武天皇を助け、自ら基礎工事の土をはこんだと伝えられます。薬を病人に施す「施薬院」を設け、恵まれない人々のために「悲田院」設けました。施薬院は日本では初めての病院であり、悲田院は初めての福祉施設です。

奈良の法華寺は光明皇后の父、藤原不比等の邸宅を尼寺として開いた寺です。この寺の十一面観音は光明皇后に似せて作られたと伝えられています。以降、日本の仏像はお母さんのイメージで作られるようになったと言われています。

日本人はブッダの教えを、吾子をおもう母の愛情に重ねて理解しています。女性の姿をした仏像は日本だけです。日本の仏像は母性の表現だといえます。
坐禅会 毎週土曜日午前6:25~8:00 
久留米市宮の陣町大杜1577-1 圓通寺 
初心者歓迎 参加費無料 詳細は電話でお問い合わせください。
℡0942-34-0350
初回参加のみ千円。二回目以降つづけていただければ無料です。
●学校やクラブなど団体研修 坐禅申し込み随時うけたまわります。
出張も致します。費用はご希望に応じます。宿泊はありません。



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仏教と徒然草

2020-09-25 | 生涯学習
私が八歳になった年に父にこのように尋ねた。
「仏とはどのようなものですか」。
父は「仏は人がなるのだ」といった。
また尋ねた。
「人はどのようにして仏になるのでしょうか」。
父はまた「仏の教えによってなるのだ」と答えた。
また尋ねた「(その)教えた仏を誰が教えたのですか」と。
(父は)また答えた。
「それもまた先の仏の教えによって(仏に)なったのだ」。
また尋ねた。
「その教えをはじめた第一の仏は、どのような仏でしたか」と言った。
そのとき父は「空よりふったのだ。土よりわいたのだ」と言って笑った。
「(私は)問い詰められて、まったく答えられなくなった」と人々に語って面白がっていた。
(解説)
兼好(1283?~1350?)がこれを最後においたのは意図があったはずです。様々な人間模様を通して「仏とは人間のことである」ということを述べたかったのです。兼好は人や世の中をよく見ていますし、人の話をよく聞いています。でも本格的な修行僧ではありませんでした。そこに自ら反省するところがあって、きびしい目で様々なこと「つれづれに、よしなしごと」を述べています。
昭和の文学評論家、小林秀雄(1902~1983)は兼好についてこのように述べています。

彼には常に物が見えている。人間が見えている。見えすぎている。
どんな思想も意見も彼を動かすには足りぬ。 『全集』第八巻p25

「仏とは人のことである」「その教えは受けつがれる」は禅の教えです。兼好は若いころ大応国師(1235~1308)にあこがれていたと伝えられます。最後に父親が、問い詰められて言った「土より涌きけん」のことばは『法華経』「地涌品」に出てくる地涌菩薩のことです。兼好の父親は神職でありながら『法華経』をも読んだ教養人でした。
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仏教と美術

2020-09-22 | Zazen
紀元前4世紀後半、アレクサンダー大王の東征によりギリシャ文化がパキスタン北東部伝えられました。大王はギリシャから石工そのほかの技術者を連れてきました。その後、仏教伝来により両者が融合し仏像彫刻が生まれました。これをガンダーラ美術と呼びます。頭初、彼らは石板にブッダの物語をレリーフに彫りました。その後、ブッダの苦行像のような形ができていきます。このギリシャ風文化はインドで紀元2~3世紀に栄え、その後、グプタ朝(4C~6C)時代にふくよかな形の仏画や仏像が流行し、これが中国、日本の仏教美術に大きな影響を及ぼしました。
もともと仏教徒はブッダの像を作りませんでした。尊いお方の姿を像にすることは失礼だと思われていました。それが、仏像ができてから仏教徒はそれまでよりずっと増えました。ガンダーラ美術がなければその後、仏教は広まらなかったことでしょう。
そこでエジプトやギリシャの彫刻とインドの仏像を比較してみるとその違いに気づきます。エジプトの壁画に見える人の姿は同じ顔つきで個性がありません。ギリシャ彫刻は豊かな個性の表現ですが、裸体が多い。裸体像は暴力の表現だといえます。たとえばミケランジェロのダビデ像は旧約聖書「サムエル記」にある「ダビデとゴリアテの戦い」の姿です。これは戦争がテーマです。
仏像はブッダ悟りの姿です。それを拝む信者にとって安心を与えるためのものです。禅ではブッダを拝むこと自分の内なる世界に目覚める修行です。ですから仏教美術は穏やかです。
京都、龍谷大学客員教授、仏師E先生はこのように言われます。
「仏像を彫刻するということは自分にとってどういうことかと、いつも考えています」と。

仏師と呼ばれる職業があるのは日本だけです。もちろんアジア諸国には仏像を作る職人さんたちはいます。ですが日本のように仏師が芸術家として敬われ、大学で講義をし、人間国宝にもなるのは日本だけといっていいのです。
日本の仏像は、その一つ一つが違うのです。仏師は伝統を踏まえたうえでブッダを、あるいは観世音菩薩などの像を彫っているのですが、それは心の内面の表現です。ですから仏像は個の表現です。
2005年、正月に京都迎賓館を見学させていただいた折、ご案内いただきました江里佐代子先生・截金人間国宝(1945~2007)にこのように尋ねました。
「ヒノキに金箔を貼ると、黄色と金色で目立ちませんが」と。
先生はこのように言われました。
「大丈夫です。400年経ったらヒノキは茶色になります。金箔の光は変わりませんので、その輝きはいっそうひきたちます。私どもは400年以上たったら重要文化財や国宝になるようなものを作ります」
また先生はこのように言っておられました。
「世界には政治や宗教では解決できないような難しい問題がたくさんあります。しかし文化はそれらをこえます。文化にはそのようなパワーがあります」と。
2007年秋、江里佐代子先生はご主人の江里康慧先生と共にフランスのアビニョン大聖堂の見学に行かれたところで、くも膜下出血のため逝去されました。「大聖堂のステンドグラスに截金をデザインしたい」というのが先生のご計画だったそうです。
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ブッダの教えと商業

2020-09-21 | Zazen
◯仏教以前のインド社会
 アーリア系民族が現在のパキスタン北部のパンジャブ州に移住してきたのは紀元前1500年ごろです。彼らは馬に乗って移動しました。紀元前1000年ごろになると彼らはインド東北部ガンジス川流域にその領土を広げ、アーリア系16カ国と呼ばれる国々ができます。この時代は悲惨な戦争がつづく時代でした。小アジアのヒッタイトにその起源をもつ鉄器文化は、このころインドに伝播し、青銅製武器が鉄製になったことで、それまでより戦争が拡大し、悲惨なものになっていきました。
ブッダはそのような中、紀元前5世紀にシャカ族の国に生まれました。ブッダ出家のきっかけは『本行集経』「四門出遊」の逸話にありますように、仏陀がお伴の者とカピラ城の東西南北それぞれの門を出たとき、老人病人死人修行者と出会って、出家を決意したとあります。このことは当時、世の中が戦争の拡大で疲弊した社会であったと理解できます。
その様な中、人々は「この乱れた世の中に悟りを開いた人が現れて、私たちを苦しみから救ってくれる」という古来よりの伝説を信じていました。ブッダはそのような乱れた社会の要望に応えたのです。

◯仏陀の教えが受け入れられたわけ
ブッダの教えがインド社会に受け入れられた大きな要因は何かを考えてみます。前述のように社会が疲弊した理由は戦争の拡大に加えてカースト制度があります。バラモン・クシャトリア・バイシャ・スードラの身分制度です。国民はこれによって職業や結婚も決められていました。ブッダはこれに真っ向から反対するというのではなく「まことのバラモンとは何か」というように説得しました。

悪しきを去るがゆえに婆羅門というなり
行ずること均正なれば沙門と謂わる
おのれの垢を棄てたればそのゆえに出家というなり 『ダンマパダ』388

当時のインドでは、農耕中心の村社会が次第に大きくなり、商業が発展していく時代でした。たとえば商人のところへ地主が品物を求めて来たとします。地主は「わしは地主だ」といって値下げを要求します。あるいは支配階級だと「タダにしろ」と言ったかもしれません。物の値段はだれに対しても同じ価格ではなかったのです。
それが平等を旨とするブッダの教えですので、商人は喜んで信者になりました。今日でいうところの「定価販売」です。ブッダのもとに多くの商人が入信したのはそのような理由です。「行ずること均正」とはそのようなことです。
近代まで西洋社会は奴隷を使って経済発展してきました。それは事実です。ブッダの時代、ギリシャやローマでは市民の半数が奴隷でした。その時代にインドで仏陀は「人は生まれながらに平等である」という教えを説き、実践しました。これは驚異的な」ことです。

◯ブッダと商人
『ダンマパダ:法句経』の翻訳で知られる友松圓諦(1895~1973)は次のように述べています。

(仏教は)は商人階級に非常に受け入れられました。いちばん大きい代表が長者です。今で申しますと金融資本家です。その一人が祇園精舎を建立したのです。(--中途略--)よくお寺さんのことを導師といいます。導師とは導く師です。しかし元来、導師とは経済用語なのです。原語ではサッタバーハ(sãrtha-vãha)キャラバンを引っ張っていく人なのです。指導者が導師なのです。その時分は導師が村や町を歩きまして、「今度はずっと向こうのパキスタンのほうへ商いに行くのだが、塩のあるものは塩をもってこい、品物のあるものは品物をもってこい」と集めて、隊商を作って旅行に出ます。この場合、階級はいらない。
----ですから「仏法は市の如し」と経典にはたびたび書いてあります。
----人間の価値そのものを見ようというのがヒューマニズム、人間性、これが仏教の根底なのです。ですから(仏教は)商人階級とガッチリ手を組んだ。
『浅草寺佛教文化講座』「仏教の経済思想」第11集1966より

あるとき、モッガラーナとシャーリープトラが250人の弟子たちを引き連れてブッダの教団に入門してきました。そこで教団組織の規則を作る必要ができました。そのとき参考にしたのが商人たちの組織運営です。仏教の組織はサンガと呼びます。4人以上の比丘たちで組織されます。サンガは元々商人の集団、あるいは政治的には共和国のことです。商人たちは月に二度集会を開き情報交換をしました。これをウポーサタとよびました。ブッダはこれを教団に取り入れました。教団では月に二度、ブッダの教えに反しなかったかどうか反省会をしました。前述の導師も同じです。そのように仏教はインド社会の商業と共に発展したのです。

◯ダーナパチ
日本語の旦那さん、檀家さんの語源はインドの言葉、ダーナパチ(dãna-pati)で「恵みを与える人」という意味です。ブッダは苦行の後、川のほとりで倒れたときスジャータに牛乳入りの粥を施されて息を吹き返した。スジャータは仏教における最初のダーナパチです。仏教は与えることから始まったといっていいのです。
 先般、友人の案内でスリランカの建築中の寺院を訪れました。白いパゴダやブッダ像を建築中でした。スリランカでは山の上にお寺を建て、町を見下ろすように大仏を建てるケースが多いのです。その理由を尋ねると「ブッダが見える町では犯罪が少ない」のだそうです。
この日、そのお寺の近くの銀行に支店長さんを訪ねました。40代の若い支店長さんで、イギリスに留学の経験があるそうです。支店長さんがこのように話してくれました。「アジス氏の設計で今、この町にお寺を建築中です。今、スリランカの国も景気が悪いのです。この町の人たちも経済的に苦しいのです。その中でみなさんはお寺のために寄付をしています。アジス氏がこの銀行に口座を開いて、その世話をしてくれています。」と。
 これを差し出したら見返りがあるとか、こうしたら良いことがあるというのではなく、利害をのりこえた支え合い、それがダーナ:布施です。ブッダの教えの「我無し」はこのようなことです。
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仏さまの知恵

2020-09-14 | Zazen
 
「悲智円満」という仏教の言葉があります。仏さまの知恵はやさしいばかりでなく、ときには厳しいこともあります。そのような表情を感じるのは奈良、興福寺運慶作の(薬師)如来像です。江戸時代に西の金堂が焼け落ちてお釈迦さまの頭部だけが残りました。この仏像の表情は神秘的です。頭だけが焼け残ったという由縁を含めて不思議な存在です。近年になって古文書の研究から運慶の作だと分かったのだそうです。興福寺の国宝館にあるこの首だけの像は背筋がぞっとするような美しい表情です。

仏像の姿だけではなく、お堂のなかの荘厳や境内の建物、庭園、木立、境内の外、借景の山々、鳥の声などあわせて仏さまの智慧を表現しています。仏教寺院で神聖な場所は塀の中だけではありません。塀の外の世界を含めて清浄世界で、ずっと大きく広がっていきます。

京都、南禅寺の庭園を例にとれば、青い空と白い雲、東山の山々、大玄関の屋根、庫裡の建物が波のように重なって見えます。塀の外と内側の石庭が続いているような感じがします。南禅寺方丈庭園は江戸時代初期の作です。この時代の庭園は明るく開放感があります。背景の山々と瓦の屋根、木造建築はよく似合います。これがもし鉄筋コンクリートの建物だったなら風景にとけ合いません。

慈悲の実行をともなって仏さまの智慧です。だれかのために一生懸命に何か仕事をすれば相手に喜んでもらえます。「ありがとうございます」と感謝されれば自分も嬉しいです。仕事に限らず何かをいっしょにして共に協力できたときの達成感は大きな喜びです。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
と、お互いに頭を下げる。あるいは合掌をすれば、お互いの関係に垣根はありません。

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南無阿弥陀仏と禅 Ⅲ

2020-09-01 | Zazen
●作務
禅では祈りと同様に作務(作業労働)をたいせつにする。その原点が古い経典にある。チュッラパンタカとマハーパンタカの逸話である。

祝利は極の意味である。この比丘は鈍かった。ブッダは、掃箒(の偈)を誦(とな)えるように教えた。箒(ほうき)をもって妄(まよい)をはらうようにしよう。掃(掃除)をもって忘をはらうようにしよう。六年間に専心にこれをとなえた。意(こころ)は遂(つい)に解悟した。そうして自らおもって言った。箒は篲(ほうき)。掃は除く。箒は即ち八正道のたとえである。糞は三毒の垢(あか)である。八正道の篲をもって三毒の垢を掃うことである。所謂(いわゆる)掃箒の意味は正(まさ)に此(これ)をいうのだろうか。深く此の理(ことわり)を思えば心は即ち真理を了解できる。阿羅漢の道を得させた。 『分別功徳論五』(現代語訳)

チュッラパンタカとマハーパンタカは兄弟である。二人とも路上で生まれたのでパンタカと呼ぶと経典にある。兄のマハーパンタカは聡明であったが、弟のチュッラパンタカは愚鈍であった。兄に誘われて仏陀の弟子になったのだが、三か月たっても短いお経すらおぼえることができなかった。チュッラが仏陀にいとまごいを申し出たら「箒をもってこの偈(短いお経)をとなえなさい」と指導された。チュッラはまじめに6年間箒をもってこの偈を唱え、ついに悟りが開けた。その後二人とも十六羅漢に列せられた。

ある日、仏陀はチュッラパンタカに500人の尼僧たちに説法をする任に当たらせた。尼僧たちはそれを聞いて先ず笑った。そうして彼が来たら彼が仏陀から教えられたという短い偈をみんなで唱え、彼が何も言うことができないようにしようと申し合わせた。
そのときが来た。尼僧たちは顔を見合わせて笑った。
チュッラパンタカは高座に昇ってこのように言った。
 「私は愚鈍で無才であります。出家者となってわずかに短い一偈だけ覚えただけです。今からその意を述べるので静かに聴いてほしい」と。
 そのとき若い尼僧がその偈を口に出していおうとすると、その舌が縮んで一言もいうことができなかった。彼女はそのことを大いに恐れて、自ら懺悔した。 参考『龍谷仏教大辞典』

 ここで注目すべきことは「短い一偈を六年間となえた」という点である。これを禅では「拈提」あるいは「拈得」という。臨済宗の道場では修行者は師家より公案(禅の問題)をもらい、坐禅中はもちろんのこと、掃除をするとき入浴中など一日中これを首からぶら下げたようにする。そうすることによって自己の鍛錬につながっていくのである。
 チュッラパンタカの「六年間、箒をもって一偈を唱えた」というのは臨済禅の拈提とまったく同じである。そのように禅における作務は、祈りと同様に重んじられる。もちろん掃除はみなさんに気持ちよく参詣していただくためであることは申すまでもない。

●趙州和尚と阿弥陀仏
因みに僧あり、趙州に問う、
「如何なるか是れ諸仏の師」
州曰わく
「阿弥陀仏」
(禅宗の人は、この阿弥陀仏を、普通の阿弥陀仏、解しているかもしれぬが、あるいはこれは今でも中国の僧侶間にとりかわされる、出会いの挨拶語であったかもしれぬ。われわれが、「お早う」といったり、We geht’s Ihnen? とか、How do you do? とかいうのにあたるかもしれぬ。そう解して、日常語が直ちに諸仏の師と転ずると見てもよい)鈴木大拙『禅とは何か』春秋社P.236

前に述べたが、友人がベトナムの僧侶に「悟りとは何か」と尋ねたら「南無阿弥陀仏」とこたえた。彼らは手紙の最後に「南無阿弥陀仏」と書き添える。ベトナムでは今でも生活の中の南無阿弥陀仏である。ちなみにベトナム仏教は中国系の大乗仏教で、とりわけ臨済宗との関係が深い。
理屈ではないのが禅であるので「諸仏の師」を頭で考えてはいけない。即答できなければいけないのではないか。
久留米寺町のある禅宗の住職さんが檀家さんに「南無阿弥陀仏でいいですか」と尋ねられた。住職さんは「いいですよ」と答えたそうだ。その理由は「自分の内側から出てきた南無阿弥陀仏だからそれでいい」とのこと。自分の内側から出てきた南無阿弥陀仏とはいい言葉である。

●阿弥陀仏の四十八願
阿弥陀仏が過去世に法蔵菩薩であったときにたてた願をこのように呼ぶ。その全部を記さないが、大乗仏教のたいせつなところを見てみたい。

第18願:一切の生あるものが至心に安楽して私の浄土に生まれようと欲し、わずか十声の念仏でも唱えた人を救えないならば、仏とはならない。

これを「念仏往生願」と呼び、親鸞はこれをもっともたいせつな教えとしたので「王本願」と呼ばれる。日本の浄土宗でも南無阿弥陀仏を十辺となえる。
先年、モスクワで禅講座を開いた。楽屋に訪ねてきたある青年が私に言った。「わたしは必ず悟りを開く」と。
すごい意気込みだった。彼はモスクワで日本人の禅マスターに禅指導をうけているという。阿弥陀の第18願とはいかないまでも行き過ぎはよくない。ゆっくり進むのが禅の道である。


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