臨済宗南禅寺派圓通寺

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(Survival Russian for Travelers) 3. Meeting people 2 - I'm from England.

2017-11-26 | zen lecture

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白隠禅師ーーその人柄ーー(2)

2017-11-23 | zen lecture

  人柄

禅の修行は命がけで取り組むので、禅はストイックな性格の人間をつくるのではないかと思われるでしょう。そうではありません。人間性にあふれるという白隠の逸話があります。

白隠が松蔭寺の寺子屋で子どもたちに読み書きを教えていたころのことです。ある近所の娘さんが若い大工さんと仲良くなりました。そして彼女は妊娠しました。当時の日本では親の許可がない結婚はできませんでした。ましてや子どもを産むことは赦されなかったのです。さあたいへんです。彼女のお父さんはカンカンに怒りました。「おなかの子の父親は誰か!」と。

彼女はでまかせに「白隠さんです」とウソを言ったのです。お父さんは白隠の信者ですので、そう言えば赦してくれると思ったのでしょう。彼女のお父さんは生まれたばかりの赤ん坊を抱えて白隠のところへ来て言いました。

「わしの娘が和尚さんの子だというのでこの赤ん坊を引き取ってくれ」と。白隠は何も言わずにその赤ん坊を抱きかかえました。もちろん白隠はその子の父親ではありません。さあたいへんです。もちろん白隠は子どもを育てた経験はありません。それでも白隠は黙ってその子を背負い「もらい乳」に近所をまわりました。当然、粉ミルクはありませんので母親のない赤ちゃんを育てるには、赤ちゃんのいるお母さんを訪ねてお乳をのませてもらうのです。白隠は何も言わずその赤ん坊の世話をしました。しばらくしてその赤ん坊の母親は父親に言いました。「お父さん、私はウソをつきました。あの子の父親は白隠さんではありません。この大工さんです」と。彼女の父親は娘のウソを赦し、若い大工さんのとの仲をみとめ、そして白隠禅師にお詫びをして赤ん坊を引き取りました

 

*病の自然治癒法

修行時代の無理がたたったのでしょうか、白隠は26歳のころ病にかかりました。結核と心身症だと思われるのですが、その治療のために京の都、白河(現左京区)に白幽仙人を訪ねたとされています。その経緯と治療法は白隠の著書『夜千閑話』と『遠羅天釜』に書かれています。それまでにない禅によるすぐれた心身の療病治療法です。現代的に言えば「イメージトレーニングによる自然治癒法」と呼ぶことができます。人に限らず生き物は、本来自分で病を治す力をもっています。これを瞑想によって引き出すのです。

「それではむかし聞いたところをすこしあなたにおおしえしましょう。これは生をやしなうの秘訣であり、いまでは、この方法を知っているものは、ほとんどないのである。この方法をおこたらずに修行するならば、必ず不可思議なる特効があらわれて、いかなる難病をも全治することができるものである。・・・・人間についていえば、まず生きた人間身体の、自然の運行生理作用の大要を知らなければならない。身体と心が自然の姿にもどり、秩序正しく整然とはたらき、一大調和をしたとき、はじめて健全なる生理活動を営むことができるものである。人類が生をうけて以来、脈々として永遠につたえられる生気は、臍下丹田に坐してはじめて内蔵諸器官は調子よくはたらき、血液は円滑に完全に循環するものである。・・・『夜千閑話』口語訳:直木公彦『白隠禅師健康法と逸話』p.49~50 

具体的な作法は『遠羅天釜』中巻にこのようにあります。(筆者口語訳と略、補足)

・  厚い座布団に座る。または椅子に肩幅くらい膝を開き両足のつま先を平行にしてあさく座る。 

・  背筋を伸ばし目を閉じ、体を前後にゆらしてからまっすぐにする。両手を軽く握り前におく。 

・  初心者は薬の種類やその量のことを考えてはいけない。 

・  およそ生をたもつには気を養うのがいちばんである。「気が尽きるときは身も死ぬ。民衰えるときには国が亡ぶのと同じである」これを三回くり返してからこれを始める。 

・  頭の上に「色と香りのよいカモの卵くらいの軟酥(なんそ):バター」をイメージする。さらに「これは仙人が特別の材料で作った秘薬で、どんな病気にでも効く」と信じる。 

・  この頭の上の秘薬は体温によって少しずつとけていく。良い香りがただよい、その液体はしだいに頭全体にしみわたり、神経や筋肉のしこりはみな除かれて首にそそぐ。 

・  次に両方の肩と胸、腕を包み込み、筋肉のしこりを取り去り、指先に至る。それから膝、両脚へしみ込んでいく。胸にしみ込んだ秘薬は内蔵をうるおし、その中の病を取り除く。足に流れた秘薬は足先に達し、全体を包み込む。肩にしみ込んだ秘薬は肋骨から背骨に達し、それはさらに尾骨に至る。水が下に流れるのと同じである。

・  緊張が取れて楽になる。血の巡りがよくなり体温が上がる。軟酥は体の中の余分なものを取り除き、外に流れ出ていく。天下の名医による治療を受けたようなものである。 

・  このようにすればよい香りがただよい、筋肉や関節は柔らかくなり、心身共に調い、胃腸も調子よく、皮膚はつややかになり、大いに気力を増す。 

・  もし時々この観法を実行すればどのような病も治る。これは養生の秘訣であり、長生きの明術である。 

*病気の友人にあてた手紙

『遠羅天釜』中巻の冒頭に「遠方の病僧に贈りし書」があります。その一部分の口語訳を記します。この書(手紙)の最後が先に記した「軟酥の法」です。白隠は友人に「病気を助長するのは妄念である」と述べています。相手が禅僧だからこのように手厳しいことばなのでしょう。・・略・三十年前、ある禅匠が病気の僧侶にこのように話された。「世の中の知恵のある人の病中ほど、あさましくみっともないことは他にはない。知恵あるままに過去や行く末を際限なく思い続け、看病の人の好ききらいを非難し、旧知の人たちが見舞いに来ないと恨み、生前には世間の評判があがらなかったことを愁い、死後の冥土の苦しみを恐れ、故郷を思っては(知人より)便りがないことに不満をいだき、目をふさいでうつ伏せている様子はけなげで物静かであるがその胸中は九つの国が戦争をするよりも騒がしく、心の中は地獄や修羅、畜生道に堕ちた者よりも苦しい。三合(5.4㎏)の病に八石五斗(1275五㎏)の物思いである。このように病にたおれて死んだならば、後の世の有様が推測できだろう。物思いにふけって薬にも養生にもなる試しなら、吾々も寄り集まり手伝って物思いをさせるのであるが、はなはだしく物思いをすれば心の中の火は逆らってひどくなり肺臓は痛み弱り、水分は枯渇し、悪寒は止むことなく、自らのよだれと汗は次第にひどくなり、果てには命を保ちがたくなる。これは平生の志や行いの怠りによるのであって、少しばかりの病を妄想心の手伝いでおびただしく育て上げたものである。それだから病に害せられたのではない。妄念に食い殺されたのである。まことに妄念は虎や狼よりも恐ろしいものである。虎や狼は戸や垣根を閉めた中へは入ることはできない。妄念の狼は坐禅静慮の床の上や立派な袈裟の中へも乱れ入る奴である。・略・・

 

*  白隠の絵画

中国文化の中で発展した禅は、日本に伝えられてからもその境地を漢詩や書に表現してきました。禅匠に限らず、その影響を受けた絵師や陶芸家は日本独自のかたちで禅の表現をしました。禅匠はだれでも芸術家なのかというと必ずしもそうではありません。白隠は誰かに絵を習ったのではなく、自分でその道を開いたといわれています。友人で弟子でもある池大雅(1723~1776)は白隠67歳のころの弟子ですので、白隠は池大雅に絵を学んだというよりは影響を与えた方ではないかと思われます。ともかくも白隠は、独学で絵や書の世界を展開しました。その数は3000点現存するといわれるのですが、先ごろ、芳澤勝弘先生(1945~)はその中から1500点を図録にして出版されました。白隠の描いた「富士大名行列図」(大分県中津市自性寺蔵)があります。中央に富士山が描かれていて、その下に大名行列が描かれています。小さく描かれている人の数は164人です。大名行列とは、江戸時代の日本では大名は江戸と国元とを一年越しに規定の儀式と警備をもって往復した、その行列のことです。これにはたいへんな経費と労力がかかります。それで大名は経済的に疲弊し、庶民から取り立てる年貢:税金を高くしました。街道沿いの人々はその行列の通り過ぎる間、長い時間道端で頭を下げていなくてはなりません。白隠はこれについて「たいへんな無駄である」と述べています。白隠がそのように書いた『邊鄙以知吾』(へびいちご)は当時、発刊停止になりました。ところが面白いことに、白隠はこの富士山の絵の片隅に「ダルマを描いた」と書いています。富士山と大名行列がどうしてダルマなのか。富士山は不二山とも書きます。この世に二つとないあの美しい富士山ですから、これがダルマつまり仏法だというのは理解できても、どうして大名行列がダルマの表現なのでしょうか。

実はこの絵に描かれている164人のうち、二人だけ富士山を見ています。一人は、泣き笑い愚痴をこぼす自分で、もう一人は、黙ってそういう自分を見ているもう一人の自分です。これがこの絵に描かれているダルマという意味です。白隠はダルマ大師の絵をたくさん描いています。若いころのそれより晩年80歳で描いた方が、力がみなぎっています。白隠の描いたダルマ大師は自分の顔です。ダルマ大師はインドから中国に禅を伝えた過去の偉い人ではなく、ここに生きている白隠自身です。

レンブラント(1606~1669)は自画像を多く描いています。彼は彼独特の明暗と色調で人間の深い精神世界を描きました。彼の自画像はその練習のために描いたといわれています。白隠はダルマ大師を描くことで自分の姿を表現しました。「ダルマと自分は別ものではない」というのでしょう。白隠の影響でそれ以降の禅僧はダルマ大師を描くようになりました。これは他に類のない禅独特の精神的表現といえるでしょう。

その他にも白隠は観音像を斬新な手法で描いています。それはどこか薄気味悪い印象の観音像です。どうして薄気味悪いのか。それは地獄の表現だという意見もあります。観音像は人生の苦難に耐えた姿です。禅では「刻苦光明、必ず盛大」といいます。「苦しみに耐えている姿そのものが貴い」という意味です。だから白隠の観音像は薄気味悪い雰囲気で描かれています。

 

*先見の明

白隠のすぐれた点を次のように整理することができます。

①   すぐれた教育者であった

②   禅をそれまでよりも庶民のものにした

③   勝れた弟子がたくさんあった

④   廻りの人たちから人格的に慕われた

⑤   先見の明があった

 

①から④は既に述べました。先見の明とは将来どうなるかを見抜く見識のことです。その先見とは「禅は庶民の文化になり、ひろく世界で称賛されることになる」です。ダルマ絵などの禅画と言われるのがそうですし。「坐禅和讃」などのカナ法語もそうです。今日では「坐禅和讃」は英語やドイツ語に翻訳され、また日本語のままで世界中の禅道場で唱和されています。ですから世界の臨済禅になったその種は白隠の功績です。

禅の世界は漢文が主ですが、和歌で禅を表現した禅僧は一休禅師(1394~1481)など白隠以前にもあります。白隠のそれは庶民的で、どこかユーモアがあり人間的です。富士山を恋人になぞらえています。よほど富士山が好きだったのでしょう。 

おふじさん霞の小袖ぬがしゃんせ雪のはだえが見とうござんす 

恋人は雲の上なるお富士さん晴れて逢う日は雪の肌みる 

お富士さん裾模様まで春がすみ

 

*白隠と『法華経』

2013年秋にモスクワジャパンハウスでの講演会の折、ある若い男性が「臨済宗は法華経をどのように学ぶのですか」と質問されました。そのときは十分なお答えができなかったので、ここに白隠が『法華経』をどのように学んだのかを紹介します。白隠は7歳のとき母に連れられてお寺参りをしました。そのお寺は法華宗でした。その後、伯父さんが建てた松蔭寺に行くようになり。経典をそらんじるようになりました。その経典は『法華経』の中の『観音経』でした。その読経の声は家の外にまで響き、近所の人たちがその声に驚きました。白隠(幼名岩次郎)の父親はわが子の出家に反対でしたが、熱心に経典をそらんじるわが子の姿を見て出家をゆるしました。今日の専門道場において『観音経』は重要な経典で雲水は毎朝これを唱えます。また信者さんの命日や法要においても必ずこの経典を唱えます。白隠は公案:禅問答体系をととのえました。その中で『観音経』の中からとられた公案は重要な問答とされています。

白隠は42歳のとき一晩、『法華経』を読んでいました。その中の「譬喩品」を読んでいたときその奥深い教えに感動して、それまでより深遠な境地に達しました。白隠は「若いころ譬喩品を読んでもその内容が深いとは思わなかったが長年禅を修めてからこれを読んでみるとその教えの深さに感動した」と述べています。禅は悟りの文化で実践を重んじる家風ですので、禅道場では『法華経』を詳細に解説することはしません。白隠禅師のように禅を修めたのちに経典を見れば悟ることができるという方針です。これを『楞伽経』には「一字不説」とあり、禅の各派はこれをモットーとしています。

 

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白 隠 禅 師 ―その人柄― (1) はんにゃの会 2017年12月号より

2017-11-13 | zen lecture

 *  500年に一度の禅匠

「駿河(静岡県)には過ぎたるもの二つあり。富士のお山に原(沼津市)の白隠」といわれました。その白隠慧鶴(1685~1768)は500年に一度の禅僧といわれ、江戸時代中期に低迷していた臨済宗を復興した禅匠です。

栄西禅師をはじめとして中国から伝えられた禅は24派があり、そのうち22派が臨済宗です。その中で今日、日本の臨済禅はすべて大応国師(1235~1308)が伝え白隠禅師につながる一派のみです。大応国師(1235~1308)につづく大灯国師、関山慧玄の名前をとってこれを「応灯関の禅」と呼びます。

大応国師の家風は「一機、瞥(べつ)を転じれば閃電猶遅し:ひとたび横をにらめば、稲妻よりも早い」といわれました。大灯国師から17代後の白隠は禅の修行体系を構築するにあたり、大灯国師の『大灯録』をそのベースにしました。日本には尼僧堂を含め41の専門道場があります。その規則や修行体系は詳細にきめられていますが、すべて白隠が整理し弟子たちに伝えたものです。白隠は500年に一度のすぐれた教育者であったといえるでしょう。

 

*  修行時代

白隠は11歳の時に母に連れられて寺参りをしました。そのとき地獄絵を見てたいへん怖がり母親の胸に抱きついて泣いたといいます。このことが起因となって15歳で松蔭寺の単嶺祖伝和尚に入門しました。その後祖伝和尚がなくなりましたので、白隠は師匠を求めて諸国を行脚しました。当時の禅修行は一つの寺に長くとどまるのではなく、師を求めて諸国を遍歴するのが通例でした。

白隠は24歳のとき越後(新潟)の英岩寺で性徹和尚の講座を聴講しました。英岩寺では日夜寺裏の墓所で坐禅に励みました。夜明けに遠くの寺の梵鐘の音をきいて白隠は悟りが開けました。「この三百年間で自分のように痛快な悟りを得たものはいないだろう」とまわりの人たちに言いました。そのときの白隠は高慢な気持ちがあって、まだ本物の悟りではありません。このとき白隠のそばに信州(長野)から来た雲水がいました。彼は白隠に言いました。

「飯山に正受老人(道鏡慧端1642~1721)という方がおられる。この方は無難禅師(1603~1676)に法をつがれた方だ。遠くから教えを求めて来る雲水があるが、その指導はたいへん厳しい。一度、師を訪ねてみなさい」と。禅では「法縁」ということを大切にします。白隠にとってこの雲水との「法縁」がなければその後の白隠はないと言って過言ではありません。白隠は早速、飯山の正受老人を訪ねました。

あの雲水の言った通りその指導は熾烈でした。禅修行では師匠が弟子を褒めることはありません。逆に弟子をけなすことは度々です。正受老人も正にそのようでした。

ある日、白隠は他の雲水と共に托鉢へ行きました。托鉢はたいせつな禅の修行です。各家々を廻り米や金銭の寄進を受けます。白隠がある家の前に立ったとき、何を勘違いしたのかその家の老婆が白隠の頭をめがけて棍棒で一撃したのです。白隠は気絶しました。周りの人たちが心配して白隠を介抱しました。そのおかげで白隠は昏睡状態から目を覚まし立ち上がることができました。そのとき白隠は師匠からもらっていた公案(禅問答)は雲が晴れるように解けました。喜び勇んで白隠は正受老人のもとへ帰って、見事に公案を透過することができました。これは正受老人の元へ来て八か月後のことです。そこで正式に白隠は正受老人によって悟りを認められました。

*  白隠の悟り

白隠は自ら36回悟ったと言っています。白隠は500年に一度のすぐれた禅匠ですから36回も悟ることができたのでしょう。白隠は24歳のとき性徹和尚のもとで遠方の梵鐘を聴いて悟ったのが初めての悟りで、正受老人の元で修行していたとき托鉢に出たとき老婆に竹箒で頭をたたかれて悟ったのが大きな悟りでした。その後26歳で故郷の松蔭寺にもどりましたが、32歳までは各地の禅匠を訪ねて行脚しました。42歳のとき『法華経』の「譬喩品」を読んでいるときその奥深さを悟り、以前この経を軽んじたことを反省しました。この後、白隠の心境が大解脱の域に達したと伝えられます。禅では「悟後の修行」といって、悟った後の修行がたいせつとされます。

白隠は35歳のとき初めて雲水のために講座を開き、36歳のころから多くの雲水が集まるようになり、東奔西走、80歳を過ぎてからも精力的に請われればどこにでも赴き講座を開きました。禅は「教外別伝」をモットーにします。師匠から受け継いだ法:ダーマをそのまま弟子に心から心へと伝えるのでそのように言います。それなのにどうして白隠はカナ法語を書いたり、各地で講座を開いたりしたのでしょうか。

前述のとおり白隠は一般人に禅を布教することに力を注ぎました。その代表作が「坐禅和讃」です。本来、禅は以心伝心なのだけれども、そのことを踏まえて縁の遠い方にも縁のある人にもこのような和讃を通して仏陀の教えに縁を結んでいただき、悟りの岸に近づいていていただきたいとの白隠の思いでしょう。白隠の道を求める気持ち(上求菩提)はそのまま一般民衆への布教(下化衆生)なのです。

悟りを開くことができない私たちでも、白隠禅師の教え、仏陀の教えを深く信じることはできます。「坐禅和讃」には「一たび耳にふるるとき讃嘆随喜する人は福を得ること限りなし」とあります。そのような人は悟りが開けたと同じだということです。これを法悦と呼びます。その心境は大きな悟りを得た人も、一般信者も同じだと説いているのです。これは画期的な教えです。

 *  清貧の生活

雲水が集まってくるようになったとはいえ松蔭寺の貧乏は相変わらずです。ある日の斎座(昼食)に冷たい汁がそえてあった。白隠がその汁椀をのぞくとその中に虫がおよいでいたので典座(炊事係)を呼んでそのことを叱責しました。

典座はこのように言いました。

「醤油に虫がわいていました。殺すのはかわいそうで別に毒にはならないと思ったので水を加えてお汁にしました」

白隠は言いました。

「それなら新しい醤油はないのか」

典座は言いました。

「この寺は貧乏で新しい醤油を買うことはできません。それで醤油屋に行ったら腐って捨てようとしている醤油があったので、それを貰ってきました」と。

また、あるとき雲水が典座寮(台所)に何やら焦げた匂いのする土鍋があることに気が付きました。他の者に聞くとお師匠さんの鍋だというので、そっと開けてみると真っ黒な焦げ飯が入っていました。その雲水が白隠にたずねました。

「これは何ですか」と

白隠はこたえました。

「これはお前たちが食べ残したものじゃ。もったいないので炊きなおしてわしが食べておる」と。

 

*  寺子屋の先生

32歳の11月、白隠は父親の病を見舞うため松蔭寺にもどり、翌年正月住職になりました。34歳で妙心寺第一座(師家)となり、正確にはこれより白隠と号しました。名は慧鶴、鵠林とも号します。35歳のころから修行者がくるようになったのですが、それまでは寺子屋の先生でした。寺子屋は当時の小学校です。近所の子供たちが寺の和尚に読み書きソロバンを習いました。前花園大学教授芳澤勝弘先生(1945~)によれば白隠の寺子屋先生ぶりはこのような様子です。

白隠は材木屋の息子には台帳の書き方を教え、宿屋の娘には帳簿の書き方を教えました。当時は「寺子屋で勉強するよりは家業の手伝いをしなさい」という時代でした。これはそのことを見越した指導です。親たちは「帳簿の書き方を教えてくれるのなら寺子屋へいきなさい」といったでしょう。これは白隠の実践的な相手に応じた説法だということができます。

 *白隠の弟子

白隠に参禅した弟子は僧侶と一般をあわせて1300人ほどです。嗣法:印可の弟子は50人ほどです。その中に「おさつ」という女性がありました。彼女は白隠の親戚筋に当たり16歳で縁づいたものの45歳で未亡人となり、その後、父親に従って白隠に参禅するようになりました。何と彼女は日を置かずして白隠の最初の印可を受けました。

ある日、おさつの孫娘がなくなりました。おさつは孫娘のがん桶にすがりついて泣きました。

近所の人が言いました。

「おさつさんは白隠和尚のところで坐禅をしているのでしょう。それなのにどうしてそのようにがん桶にすがりついて泣くのですか」と。

おさつは言いました。

「これは真珠の涙です」と。

坐禅をしたら涙が出なくなるのではない、悲しいときには悲しいと、おさつは言いたかったのでしょう。

白隠67歳のとき、備前:岡山の宝福寺からの帰り、京都妙心寺塔頭養源院で『碧巌録』の提唱をしました。このときにはおしのびで皇族、貴族方の聴講もありました。そのとき浪人大橋の娘が貧乏の故、遊女に売られていたと聞き、白隠はその娘をあわれんで得度を受けさせ弟子にしました。その名を恵林といいます。

だれかに遊女の身請けをしてもらわなければ尼にはなれません。その身請け金はだれが出したのでしょうか。記録にはありませんが、それは白隠が支払ったに違いありません。今日、日本では人身売買はありませんが、そのような時代、身売りされた女性の不幸はいかばかりであったことでしょうか。そのような不幸な人の救済はむずかしいのだけれども、恵林尼のような例は究極の救済といえます。ちなみに、白隠には、おさつや恵林尼を含めて女性の弟子が6人ほど知られています。人数としてはけっして多くはありませんが、6人とも立派な禅者になっています。

またこのとき絵師の池大雅(1723~1776)と縁があり知友となり、また師弟の間となりました。その後、池大雅は夫婦で白隠の住職する松蔭寺の近く浮島ヶ原に庵をむすび、三年間そこに住みました。池大雅が如何に白隠を慕っていたかが分かります。

 *白隠の功績

白隠の功績で重要なことは大きく二つあります。一つは禅修行体系の確立です。最初に述べましたようにそれまで道場における規則、雲水の指導方法などを体系化しました。その詳しいところは専門書を見ていただくとして、二つ目には禅の一般市民への布教です。それまで禅修行をする人は貴族や武家といった特別な地位の人たちだったのですが、白隠の弟子には近所のおばあちゃん、あるいは石工職人もいたのです。その点がそれまでの禅匠とは違ったところです。一般の人も白隠のもとで悟りを開いきました。

 庵原というところに平四郎という石工がありました。ある日、平四郎はお不動さんの石像を山の中の滝つぼのそばに安置しました。滝つぼにおちる珠をおどらせているような水の泡を見ていると、30センチメートルいって消えるのもあれば60~90センチメートル、あるいは2~4メートルいって消えるのもある。世間の無常はすべてこれらの泡のようなものだと悟り、いてもたってもいられなくなりました。以前、沢水禅師の法語を(お寺の和尚に)読んでもらったのを思い出しました。「勇猛な修行者はすぐに覚ることができるが、怠け者は気の遠くなるほどの時間を経なければ悟ることはできない」と。

 それで家に帰って風呂場の戸を閉め、背筋を伸ばして一心不乱に坐禅をした。最初のうちは妄想がおき、これと格闘しました。するとついに三昧の境地に至ったのです。朝が明けるとスズメが家のまわりを飛びまわり鳴くのを聴きました。自分の感覚はなくなっていて、目の玉が飛び出して地上に落ちているのを見ました。次の瞬間、爪の際が痛いのを感じ、両目は元の位置に戻って手足の感覚も戻っていました。

 そのようにして三日間、坐り続けた。三日目の朝、顔を洗って庭樹を見ると以前の様子とはまったく違って見えました。近くの寺の和尚にそのことを話したが何も言われませんでした。そこで白隠禅師に会ってみたいと思い、籠にのって峠を越えたところで小浦の風景を見ました。そのとき初めて「世の中の様子は成仏の姿だ」と分かりました。そうして白隠に会って参禅し、いくつかの公案を透過しました。 

白隠禅師『臘八示衆』「第五夜」より現代語訳

 ダルマ大師 彫刻;卓洲禅師  画:吉富大箴和尚

●坐禅会 毎週土曜日午前6:25~8:00 久留米市宮の陣町大杜1577-1圓通寺 初心者歓迎 参加費無料 詳細は電話でお問い合わせください。℡0942-34-0350

初回参加のみ千円。二回目以降つづけていただければ無料です。お休みのお知らせ。

●学校やクラブなど団体研修 坐禅申し込み随時うけたまわります。出張も致します。費用はご希望に応じます。宿泊はありません。出張講座もいたします。

 

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