夏目漱石と自殺願望の女性
漱石は28句ほど時鳥の句を作っている。俳句では時鳥は初夏の季語である。今日では時鳥の鳴き声は山間に行かなければ聞けないが、明治20年頃は東京の街中でもその鳴き声はよく聞こえたのだろう。だから漱石には時鳥の句が多いのだ。
漱石の俳句は明治22年から記録がある(全集第12巻)。それが次の二句である。俳句のスタイルとしてはその後の「写生句」とは随分違う。どこか面白い雰囲気がある。時鳥は「不如帰」とも書くので最初の句はそれをもじったのだろう。「子規」も時鳥の異名である。
歸 ろ ふ と 泣 か ず に 笑 へ 時 鳥
聞 こ う と て 誰 も 待 た ぬ に 時 鳥
漱石は明治24年から精力的に作句に励んだ。正岡子規の影響である。以前にも述べたが、その多くは子規が丁寧に漱石からの手紙を保管していたからだ。この句も明治22年5月に子規へ送った手紙にあるのだが、子規が添削をしたのではないようだ。ここでは時鳥はひらがなになっている。それも意味があるのかもしれない。明治25年に子規に宛てた手紙に次の句がある。これもどこか笑えるような句である。
鳴 く な ら ば 満 月 に な け ほ と と ぎ す
明治40年6月、当時の総理大臣西園寺公望(1849—1940)から文学者たちを集めたパーティー「雨声会」の案内が来た。漱石は体の具合も良くなかったのだが、そもそも権威主義が嫌いなのである。その断りのハガキに次の句がある。総理大臣からの案内にハガキで返事を出したとは呆れた話だ。よくこんな句を書いて問題にならなかったものだ。
時 鳥 厠 半 ば に 出 か ね た り
この句は俳句とは言えない。ただ云っただけである。『全集』の解説者で漱石の弟子、小宮豊隆も「床屋俳諧(漫談)の域を出る事のない月並みに過ぎない」と述べている。では漱石のすぐれた句はどのようなものか。それは写生句である。そこで見た感動を詠った句が良い句である。明治27年の句に次の句がある。
菜 の 花 の 中 に 小 川 の う ね り か な
参考資料:岩波書店『漱石全集』第12巻
839-0803
久留米市宮ノ陣町大杜1577-1 編集:吉冨冝健
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