最新刊『宗教・カルト・法』の、最後の、若松英輔さんの、以下のコメントが良かった。
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(中山註:愛についての「核心にふれる言葉」として)
フランスの哲学者シモーニュ・ヴェーユの一節です。
「・・・・・・その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。
そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。
それで、聞き手に多少の洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができる」(鈴木晶訳)
宗教の世界に生きる者は、あまりに「あたま」から語り過ぎたのではないでしょうか。何と呼んでもよいのですが、私たちが通常「こころ」と呼ぶよりも深い場所から言葉を発すること、そうすれば、相手の深い場所に届くというのです。
宗教における言葉のはたらきはきわめて重要です。
しかしそれが「知」の言葉で終わってはならない。井筒俊彦は、知の言葉には終わらない、沈黙さえも含んだ意味の顕われを「コトバ」と 表現しました。
言葉だけでなく、「コトバ」において他者と向き合うこと、そこに私たちの最初の、そして究極の実践があるのではないでしょうか。
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さすが若松さん。
この文脈は、党派性なく、「カルト」云々とかとは無関係に、語られたものです。
上記の「あたま」からではなく、「こころ」と呼ぶよりも深い場所から言葉を発する、というのは、若松さんの本(彼の詩を含めて)をほぼ全て読んでいる私には、なんとなく分かります。
「アタマ」で演繹的に理論をこねくり回すのではなく。
「ココロ」ないしそれより深い肚の底から、帰納的に、自分独自の、湧き上がってくる言葉を紡ぎ出す。「魂の叫び」を、言語化する。拾う。
それが、今の宗教界に重要な、「対話」のあり方だと思う。
そしてこのコミュニケーションの態度は、宗教だけではなく、一般的なコミュニケーション全般にも、通じるはず。
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上記シモーニュ・ヴェーユの引用を、今一度、御覧ください。彼は、話す「内容」について語っているのではありません。
「言い方」について、語っています。内容よりも、「言い方」に、話者の、態度、人格、姿勢、誠実さ、、、 これら全てが、自ずから、隠しようもなく、にじみ出るのです。
その「言い方」に、対話を促す態度・姿勢を感じさせるか。
または、対話を拒む態度・姿勢を感じさせてしまうか。
対話の成否と行方については、すべて、「言い方」が問題だったりする。内容ではなく。
実際、夫婦喧嘩の9割も、話す「内容」ではなく、話す「言い方」に端を発しているはずです!