足尾銅山鉱毒事件の田中正造は、かなり、スピリチュアルなところに行った。
独自のキリスト教というか「神」観を身に着けた。新井奥邃に影響を受けて。新井奥邃、スウェーデンボルグ、エマソン的な、「神」観。
つまり、天のどこかにゴッドがいる、のではなく、自分の心の中に神がいる、っていう、近代的な、「神」観。100年前の当時には、今よりも、新しく珍しい「神」観。
~~~以下引用~~~
人の霊は「神の分体」である。神を見たいと願うならばまず汝を見よ。
汝の行いが神に告げて罪がないか、罪があれば神を見ることができないのは当然である。
汝の身に真に欠点がないかどうか自分に問うてみて、人として恥なしと確信すれば、その上は神である。
汝の身のなかにある神の分体を見ようと欲する者は、力をつくし、精をつくせば見ることができる。
天を仰いで神を見るのは、 そのあとのことである。まずさきに汝の身中を見よ。
身中一点の曇りなく、言行また明らかであると信ずれば、神を見ようとする心が生ずるであろう。真正に見ようとする心になるであろう。そうすれば神を見ることができるであろう。
このようにまず汝のうちに神を見いだし、それから天を仰いでみるならば、天の父も母も皆見える。
まず汝を見、天を仰げば、天地一物、神一物、我は神の分体にして神の子である。
~~~引用終わり~~~
なんだかほとんど牧師みたいなフレーズ。
左翼・人権派の方々が田中正造に触れたがらないとすれば、その依る所の唯物論的考えが、田中正造のこういうスピリチュアルな部分を受け付けないからだろう。
こういう田中正造は、ガンディとそっくり。これは別項で。