慣れると、いずれ馴れる。
馴れると、いずれ狎れちゃう。
慣れ→馴れ→狎れ。
鍵山秀三郎
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これはいい。
私の昔の後輩にもいた。
慣れたせいか、馴れちゃって、ゆくゆくは狎れていた。
つまり私が舐められていた。
一度、こういう慣れ→馴れ→狎れを体現したような人に会った私には、この
慣れ→馴れ→狎れ
がすごく刺さる。
慣れるのはいいですが、馴れ馴れしくしてはいけませんね!
親しき仲にも礼儀あり。
「なぜなぜ分析」を人にやると、鬱になる。
「なぜ」「どうして」を部下にぶつけるのは、鬱の発生装置。
私が学んだ、アドラー心理学@ヒューマン・ギルドでも、テキストに
「『なぜ』『どうして』と聞かれると、質問された人はつじつま合わせの回答をしようとして、半分以上ウソがまじりがちである」
とまで書いています。
この「半分以上」はデータに基づいたものではないようですが、私の体感的にも、むべなるかな、という気がします。
有名な動画。
リーダーシップが重要なんじゃない。
フォロワーシップが重要。
そう受け取っています。
日本が変わるスイッチが入っている映像 - 裸の男とリーダーシップ
武士道のバイブルというか嚆矢の、『甲陽軍鑑』。武田信玄の行動とかを書いた。
そこに、
三番からは惣がかり
って言葉がある。
戦で、一番エラいのは、一番槍。
勇気があるから。
2番目のフォロワー(一番槍を刀で助けに行く人)も、エラい。
でも、3番からは、総掛かりになるから、エラくない。
大将首を獲ったところで、どデカい手柄ではない。
実際、桶狭間でも、大将首を獲った(今川義元を討ち取った)毛利新介は、対して報奨を得ていない。
要するに、ファーストペンギンになれよ、ってこと。
勇気ある奴は、一番最初に手を上げろってこと。
リーダーになれ。
なれなければ2番のフォロワーになれ。
リーダーシップとフォロワーシップの重要性を言っています。
有名なこの動画みたいですね。
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なお、世界中で大将首を獲った人は数多いるけど、この毛利新介って、日本人ではいちばん有名ですね。
調べると、本能寺で討ち死にしています。 こちら
カリスマ結婚コンサルタントの白駒妃登美さん曰く、
素敵な縁に恵まれない人の共通点は、
素敵な人の前だけでいい顔をすること
言えてる。当たってる。
誰に対してもいい顔を。
誰に対しても笑顔を。
誰に対しても眼施を。
大阪中央公会堂。
111年前に建築され、105年前に内村鑑三がイエス再臨運動で講演した由緒ある建物。
ここで、「信仰の価値を未来に紡ぐ」ためのONE OSAKA 10.14イベントに登壇してきました。
さすがにいい会場でした。宗教の力って何? って話をしてきました。
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こちら大阪の気の合うクライアントさんと話して解像度が上がった、最近気になっているネタ。
我々ビジネスマン、特に私は、「一瞬一瞬が勝負」だと思ってコミュニケーションしている。
初対面のクライアントから信頼を得るのは、一瞬。
クライアントから信頼を失うのも、一瞬。
その一瞬の緊張感の中に生きている。
例えば、クライアントから「⚪︎⚪︎についてどう思いますか?」と訊かれて、「えぇとぉ〜、それはですねぇ〜」的に、ダラダラと、そのクライアントが想定する答えよりレベルが低いことを言ったら、その瞬間、もうそのクライアントから一生仕事をもらえない。
足元を見られる。我々(国際弁護士、でなくてもレベルの高い弁護士)はそういう世界に生きています。
一方、宗教の方は、どうやら、それほど「一瞬」に対する緊張感がない方が多いようだ。
特に、その宗教内の、内輪の会話ばかりしている場合。「愛」と「赦し」が支配する、温かいカルチャーにいるから。
つまり、宗教者が、外部とコミュニケーションしていくためには、「愛と赦し」の世界から抜け出して、「一瞬一瞬が勝負」的な、コミュニケーションの緊張感を上げることが必要かもしれない。
ビジネスの世界で、ダラダラ的を射ない話をしていては、愛されないし、許されない。
一瞬でバカにされ、蔑まれ、葬り去られる。
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ちょっと別の切り口ですが、宗教者も、something of everythingで、つまり森羅万象についてアンテナを立てて多少は何かを語れるようにしたおいた方が、外部の人とのコミュケーションは進む。
家庭連合ではなく、宗教一般の話。
その宗教のことだけではなく、広く社会についても勉強しているのであれば、外部から見ても信頼性が上がる。
むしろ、「その宗教のことしか知らない」人に対しては、その宗教によほど興味があるのではなければ、魅力を感じない。魅力を感じない人とはコミュニケーションも広がらない。
こう考えると、宗教が、今後、「社会から理解される」ようになるためには、むしろ、進んで「自分たちが社会を理解する」ことが大切になってくる。
最近、反家庭連合の紀藤正樹弁護士とかその後輩の阿部弁護士のTweetとかを見ていると、言葉足らずで意を尽くしていないので、なんだか品がないな、と感じる。
ま、多数派に属して、裁判の結果とかがいいと、どうしても言葉足らずになり、それが少数派から「下品」「傲慢」「高慢」って受け取られるんだろう。。
って考えると、本日のさいたまシンポジウムでパネルディスカッション(窪田順生さん、小嶌希晶さん、今中カナさんと)をしながら、ひらめいた。
多数派の言動は、少数派からは、
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
ってのは、ほとんど一般化できる普遍的真理ではないか、と。
こうも言い換えられる:
支配派の言動は、被支配派からは、
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
高慢・下品に(デリカシーなく)見える
例えば、
- 日本で、日本人が、外国人に対して、デリカシーがない
- 仕事で、男性が、女性に対して、デリカシーがない
- 健常者が、障害者に対して、デリカシーがない
- 健康な人が、病気がちの人に対して、デリカシーがない
- 能力ある人が、ない人に対して、デリカシーがない
- 学歴ある人が、ない人に対して、デリカシーがない
- 金持ちが、貧乏人に対して、デリカシーがない
- 出世した人が、左遷された人に対して、デリカシーがない
- モテが、非モテに対して、リテラシーがない
- ノッポが、チビに対して、デリカシーがない
- 巨乳が、ペチャパイに対して、デリカシーがない
- 美人が、ブスに対して、デリカシーがない
- イケメンが、ブサメンに対して、デリカシーがない
- 子がある者が、子がない者に対して、デリカシーがない
- ストレートが、LGBTに対して、デリカシーがない
- 英語得意な人が、不得意な人に対して、デリカシーがない
これらすべて、実際に「デリカシーがない」かどうかはともかく、「デリカシーがないように見える」ってことは、たくさんあるはず。
例えば、英語が不得手な人にとっては、だれかが英語を喋るのを聴くだけで、「鼻につく」と受け取られる。そう聞こえちゃう。
私なんか、仕事的には、多数派(ないしは、支配的な地位にいる側)に属するが多い、、
東大卒の私が言うことと、同じことを高卒の人が言ったとして、同じ内容なのに、私が言ったからという理由で、聴き手が腹を立てる、ということはある。
「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が重要だったりする。
能力の低い人からは、能力の高い人の「存在だけで不愉快」だったりしますから、、 私も私の存在自体がハラスメント的になっている場合もあるだろう、、、 心せねば。
いい他山の石になりました。
この、多数派の言動は、少数派からは、高慢・下品に(デリカシーなく)見えるってのは、多数派には、気が付かない。
自分が多数派に属するということ(少数派が存在するということ)すら自覚的ではない場合がありますから、、、
反家庭連合さんのお陰様で、すごくいい勉強になりました。常に社会の片隅にいる(ように思える)少数派の存在を念頭においた、言動をとらないといけませんね!
最新刊『宗教・カルト・法』の、最後の、若松英輔さんの、以下のコメントが良かった。
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(中山註:愛についての「核心にふれる言葉」として)
フランスの哲学者シモーニュ・ヴェーユの一節です。
「・・・・・・その言い方は、何気なく発した言葉が人間存在のどれくらい深い領域から出てきたかによって決まる。
そして驚くべき合致によって、その言葉はそれを聞く者の同じ領域に届く。
それで、聞き手に多少の洞察力があれば、その言葉がどれほどの重みをもっているかを見極めることができる」(鈴木晶訳)
宗教の世界に生きる者は、あまりに「あたま」から語り過ぎたのではないでしょうか。何と呼んでもよいのですが、私たちが通常「こころ」と呼ぶよりも深い場所から言葉を発すること、そうすれば、相手の深い場所に届くというのです。
宗教における言葉のはたらきはきわめて重要です。
しかしそれが「知」の言葉で終わってはならない。井筒俊彦は、知の言葉には終わらない、沈黙さえも含んだ意味の顕われを「コトバ」と 表現しました。
言葉だけでなく、「コトバ」において他者と向き合うこと、そこに私たちの最初の、そして究極の実践があるのではないでしょうか。
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さすが若松さん。
この文脈は、党派性なく、「カルト」云々とかとは無関係に、語られたものです。
上記の「あたま」からではなく、「こころ」と呼ぶよりも深い場所から言葉を発する、というのは、若松さんの本(彼の詩を含めて)をほぼ全て読んでいる私には、なんとなく分かります。
「アタマ」で演繹的に理論をこねくり回すのではなく。
「ココロ」ないしそれより深い肚の底から、帰納的に、自分独自の、湧き上がってくる言葉を紡ぎ出す。「魂の叫び」を、言語化する。拾う。
それが、今の宗教界に重要な、「対話」のあり方だと思う。
そしてこのコミュニケーションの態度は、宗教だけではなく、一般的なコミュニケーション全般にも、通じるはず。
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上記シモーニュ・ヴェーユの引用を、今一度、御覧ください。彼は、話す「内容」について語っているのではありません。
「言い方」について、語っています。内容よりも、「言い方」に、話者の、態度、人格、姿勢、誠実さ、、、 これら全てが、自ずから、隠しようもなく、にじみ出るのです。
その「言い方」に、対話を促す態度・姿勢を感じさせるか。
または、対話を拒む態度・姿勢を感じさせてしまうか。
対話の成否と行方については、すべて、「言い方」が問題だったりする。内容ではなく。
実際、夫婦喧嘩の9割も、話す「内容」ではなく、話す「言い方」に端を発しているはずです!
アメリカでは、18世紀とか19世紀、ベンジャミン・フランクリンとかがいた建国初期の頃、キリスト教の説法がすごく流行った。

数百、数千、数万人が、牧師の演説に熱狂する。フランクリンも自伝でいくつか書いている。
その辺の演説などを分析すると、話者の身体がたくさん聴衆に見える方が、聴衆は盛り上がる。
スティーブ・ジョブズの演説みたいに。私もそのスタイルですが。

「身体と露出度と、観客の共鳴度は一致する」そうです!
GMOの株主総会に行ったことがあって、そこで、GMOトップの熊谷正寿さんが、身体全部を株主に見せていた。縁台の後ろに隠れて、ではなく。これは、GMOの透明性を象徴しているようで、印象が良かった。
のみならず、観客(株主)の「共鳴度」を引き上げる効果もあったんですね!
先日読んだ『論語とやせ我慢』に、以下の書評をAmazonに書いておきました。
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小林秀雄が、士道とは痩せ我慢であり、士道なんてきれいごとを言っていると俗化(陳腐化ってことだろう)するけど、痩せ我慢って言っておけば俗化の心配がない、と言っていることが勉強になりました。
また、痩せ我慢が公私の別の文脈にあることにも納得感がありました。美学とは痩せ我慢であり、我々が論語その他古典から学ぶのも、「痩せ我慢という美学」なのかもしれません。
また、痩せ我慢が公私の別の文脈にあることにも納得感がありました。美学とは痩せ我慢であり、我々が論語その他古典から学ぶのも、「痩せ我慢という美学」なのかもしれません。
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いい本には書評を書く。これが著者へのリスペクト。
コンビニの店員さんがネパール人だったら、ありがとうの代わりに「ナマステ」と言う。これが彼ら彼女らへのリスペクト。
ビルの清掃の方々の名前を覚えて、名前で呼ぶ。これも彼ら彼女らへのリスペクト。
<「損得勘定のない人間関係」において、どれだけ相手をリスペクトできるか。>
ここに人間性の本質が出るし、少しでも思いやりのある振る舞いをすることが、人生の修行の一つと心得ています。
小林秀雄が『考えるヒント』で、痩せ我慢とは「私情と公道の緊張関係の自覚」と書いたらしい。
と、『論語と痩せ我慢』に書いてあった。
わかる。
この、痩せ我慢が「公私の別に関係する」ってのは、腑に落ちる。
似たような話を、先日聞いた。
私が尊敬するある名誉教授と先日一献をお付き合いさせていただいた際、このお教授は、40年近く、怒ったことがないそうな。
決して怒らない工夫をしてきたそうな。
それは、「喜怒哀楽を憚りなく表すのは、家族等の親しい関係のみ」という信念と美学から来ている。
- 大口を開けた大喜び。
- 感情的に怒る。
- 哀しんで泣く。
- 性の悦楽の恍惚の表情。
これらみんな、プライベートであるべきもの。パブリックに、人前では、見せるべきではない。
だから、職場で怒りそうになったら、「はて、私はこの人に対して怒るほど、この人と親しい関係だろうか」と逡巡するらしい。
そして常に「NO」という答えが出る。だから、怒りの感情が湧き上がってきたとしても、決してその悪感情を表情に示す、ということがないそうな。
とても刺激になりました。
私もこれからこの「私が怒るほど、この人と親しいか」を吟味することにしよう。
文脈不明だが、いい言葉に出会った。
今読んでいる本の、章の扉に書いてあった。
自分が間違っている可能性に思いが至らない者は、ノウハウしか学ぶことができない。
こんな感じで受け取りました。
もっとシンプルには
自分が間違っている可能性に常に思いを致すのが、知性。
そう受け取りました。
自分の依って立つ立場が間違っているかもしれない。
そういう姿勢って、言動とか、言葉の節々とか、行間から、分かる。
私の弱点は、こういう「自分の依って立つ立場が間違っているかも」というメッセージを伝えるのが苦手なところ。
ま、意識的に説得力を強めようとしているところもありますが、、、
同じことを言っても、弁護士と資格を持っていない人とでは、受け取られ方は異なる。
同じことを言っても、学歴の高い人とそうでない人とでは、受け取られ方は異なる。
そこに思いを致して、もっと謙虚に、丁寧に、伝えないといけない。
勉強になりました!
鍵山秀三郎の本を読んでいる。掃除道で有名なイエローハット創業者。
この神渡さんの本も買ったけど読めてない、、、
私は学生時代から月刊誌『致知』を購読しているので、鍵山さんのことはよく知っている。彼ほど掃除ができていないのは私の修行不足、、
彼の本に、「複写ハガキ」ってのが出てくる。
書いたハガキを手元に残す工夫かな。
森信三の弟子の徳永康起って人がやっていたんだ。
この神渡さんの本も買ったけど読めてない、、、
ハガキに心をこめる。それを「ハガキ道」と名づける人もいる。
まあ、メールやチャットで済ますのとはまた大きく違う何かがある。
私も「人の期待を超える」感謝の示し方をするために、手紙を書くことがしばしば。
お世話になった、契約関係の終わった社長に、手紙をしたためよう、、、、
筋肉は、形状記憶する。
顔の筋肉も、形状記憶する。
日頃から笑顔を作っていると、普段、無意識的に、笑顔が出る。
逆に、日頃からブスッとしていると、肝心なときにも、ブスッとしちゃう。
日頃から笑顔を作って、「このスマイルを形状記憶させるべし」って思うのがいいかもですね。
私は毎朝のGYMとかジョギング時に、歯を食いしばるような表情をして、顔の筋肉の全てを重力に反して上に上げるようにして、表情を豊かにするように努めています!
4か月くらい、毎日続けたら、顔の表情が豊かになったと人様からも言われるようになりました!
これからも、「顔筋を笑顔で形状記憶」させるように頑張ります!