上田城  <もうすぐ桜だより2014 ①>

2014-03-16 23:22:42 | まち歩き
昨日の仕事帰り、気分転換に遠回りして河川敷を歩いた時のこと。
一見して、冬枯れのままの風景の中、よく見ると土手の若草が芽吹き始めていました。
春は着実に訪れつつあるようです。

それでは、今年もこのシリーズをいってみましょう。
桜の名所のお城を、お花見シーズンに先駆けてご案内する「もうすぐ桜だより」。
第1回目は、このお城です。


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上田城 うえだじょう  (長野県上田市)



上田城は、天正11年(1583)、戦国の知将・真田昌幸(さなだ まさゆき)が築きました。



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昌幸は、武田信玄・勝頼の武田氏二代に仕えた武将で、上田から北東へ8キロメートルほど離れた松尾城を居城としていました。

天正10年(1582)3月、武田勝頼は織田信長に滅ぼされます。
しかし、そのわずか3ヶ月後、今度は織田信長が「本能寺の変」で死亡します。
相次ぐ支配勢力の消滅。
信州は、上杉景勝、北条氏政、そして徳川家康といった、近隣の大勢力による争奪戦の舞台となります。
昌幸の上田城築城は、そんな情勢下で、独立した大名としての生き残りを賭けたものでした。

完成した上田城を拠点に、昌幸は知力の限りを尽した外交戦術を展開します。
しかし、徳川家康とは交渉が決裂。
天正13年(1585)、7000人を超える徳川軍が上田城に攻め寄せました。
昌幸は、息子の信幸と信繁(幸村)、そして真田家臣団とともに、わずか2000人の兵で上田城に籠城。
巧みに徳川軍を挑発して、十分に上田城に引き寄せた後に反撃し、豪胆にも撃退しました。

この戦いで昌幸の武勇は天下に鳴り響きました、
そして、豊臣秀吉の評価をも得て、真田氏は豊臣政権下の大名としての地位を確立しました。

たとえ小さな勢力でも、知恵と胆力、そして人の結束があれば、絶体絶命の危機をも乗り越える。
私たちの日常に置き換えてみる時、何とも勇気を与えてくれるお城です。



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15年後、真田昌幸は再び上田城で徳川軍を迎え撃つことになります。

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦を前に、昌幸は西軍(石田三成)への加担を表明。
上田城には、東軍の主力・徳川秀忠が率いる精鋭3万8000人が迫ります。
昌幸は巧妙な作戦を展開し、徳川軍を翻弄します。
しかし、関ヶ原の本戦では西軍が敗北したため、上田城を徳川方に開城し、紀州の九度山へ配流されました。

上田城は、昌幸の長男・真田信幸(家康の養女を妻にしていた縁で、東軍に加担)に与えられましたが、
元和8年(1622)、信幸は松代へ領地替となりました。

その後、上田城は仙石氏が三代、つづいて藤井松平氏が七代続いて城主を務め、明治維新に至りました。

歴史の上では、藤井松平氏が上田城主を務めた時代が最も長いのです。
それでもやはり、上田城といえば真田の城という印象が根強いのが現実です。
それはきっと、この城を舞台に動乱の世を生き抜いた真田一族の熱意に、誰もが心を打たれるからでしょう。



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桜の上田城を訪ねて


 <撮影:平成17年(2005)4月12日~15日>



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内堀越しに見た上田城本丸です。
まさに、霞か雲かの如く、桜花爛漫です。


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東側正面から見た上田城本丸です。

この景観は、江戸時代初期の城主・仙石氏によって整備されました。
両端の二重櫓はその時代の遺構で、右が北櫓、左が南櫓です。

中央の渡り櫓門は、明治初期の古写真に基づき復元されたものです。


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北櫓です。


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内堀です。
向こうの山並みは、この地方のシンボル・太郎山山系です。


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南櫓です。

上田城の南側は、断崖になっています。
こちらから見上げると、この城の堅固さが一層実感できます。


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かつて、この崖の下には、千曲川の分流が流れ込み、尼ヶ淵(あまがふち)と呼ばれる深い沼になっていました。
上田城の南側は、敵の接近を許さない、まさに天然の要害だったのです。

写真は、もう一棟残る二重櫓の西櫓です。


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上田城には、もうひとつ必見の遺構があります。
場所は上田城本丸・二の丸とJR上田駅のほぼ中間地点。

堀と土塁で囲まれた遺構です。


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これは、上田城主の居館・「御屋形」(おやかた)です。
真田信幸が、大手門に近いこの地に築いたものです。
以後、歴代の上田城主は、本丸ではなく、この「御屋形」に住みました。

現在は、長野県立上田高校の敷地になっています。

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「御屋形」の門が、今はそのまま上田高校の校門になっています。
歴代の上田城主がくぐった門です。

毎日、この門をくぐって登下校する生徒の皆さんがうらやましいですね。

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夜桜・上田城



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