姫路城で、秀吉・官兵衛の面影を探そう! <姫路城を歩こう・中編> -「軍師官兵衛」ゆかりの城④-

2014-03-02 23:38:17 | まち歩き
姫路城 ひめじじょう  (兵庫県姫路市)



今回は、姫路城を散策して、秀吉と官兵衛のコンビが活躍した時代の面影を探してみましょう。


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B19635

JR姫路駅の中央口を出ると、大通りの先に姫路城が見えます。
進むにつれて、視界の中で天守が大きくなってゆくこのロケーションは最高です。



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B1974

やがて、堀端に至ります。
この堀に沿った石垣は、五層の大天守と同じく、江戸時代初めの城主・池田輝政の大改修によって築かれたものです。

堀に橋が架かっています。
ここが大手門に相当する姫路城の正面入り口です。



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B1976

橋の名前は、「桜門橋」と言います。
橋を渡ってすぐの位置にあった「桜門」に因む名前です。

桜門といえば、秀吉が後に築いた大坂城の本丸大手の門も「桜門」でした。

推測の域を出ませんが・・・・
秀吉は、大坂城に先行して築いた姫路城でも、大手の門を「桜門」と名付けていたのかも知れません。
そして、江戸時代に大改修された姫路城でも、「桜門」という名前が引き継がれたのではないでしょうか?


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せっかくの姫路城散策です。

ここから先は、大天守が素屋根(すやね)で覆われる以前の写真を使いましょう。

実際に素屋根(すやね)の撤去が完了するのは、平成26年8月です。
さらに、内部の公開が始まるのは平成27年3月27日からの予定です。



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B586

三の丸から見た大天守です。
記念写真スポットとして、おなじみの場所ですね。


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B593

さて、大天守が建つ姫山に注目してみましょう。
山の中腹に低い石垣が築かれています。
近くで見てみましょう。


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B2678

この石垣は、秀吉の築城当時のものです。
加工しない自然石を積んだ「野面積」(のづらづみ)の石垣です。
一見、粗野に見えます。
しかし、築城からおよそ440年経った今も、しっかりと原型をとどめる堅牢さです。

なお、「野面積」ではあまり高い石垣を築けません。
そこで、高さ3メートルほどの石垣を二段に分けて築き、高さを構成しています。


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B2683

ちなみに、この石垣がある区画の名前は、下山里曲輪(しもやまざとくるわ)と言います。
そして、二段の石垣の上が上山里曲輪です。

この山里曲輪という名前の区画があるのは、秀吉が築いた城の特長です。
大坂城・伏見城・肥前名護屋城のいずれも、本丸から一段下がった位置に山里曲輪がありました。
姫路城も、まさに本丸の一段下に上山里曲輪が立地しています。
秀吉時代の姫路城の面影と考えて良いでしょう。

山里曲輪は、茶室と庭園がある空間です。
山里の庵(いおり)のような侘びた茶室に、自然のままのような簡素な庭が添えられていたのでその名があります。
信長家臣団は、信長の許可が無ければ茶道を嗜むことができませんでした。
秀吉は、中国地方遠征の総大将に任じられた時、信長から茶道を許され、茶道具と朱色の日傘を下賜されました。
姫路城内に山里曲輪を構え、得意満面の秀吉の顔が思い浮かぶような気がします。


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B601

下山里曲輪から、姫山の裾を右手(東側)にまわってみましょう。
一変して、仰ぎ見るような高石垣がそびえています。
この石垣は江戸時代の初期、池田氏に代わって姫路城主になった本多忠政によって築かれたものです。
石垣を築く技術が、最高潮に達した時代の遺構です。


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B1186

江戸時代の姫路城では、東側は裏口とされていました。
しかし、秀吉の姫路城では、こちらが姫山の登り口の大手、つまり正面だったと伝わります。


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では、高石垣の裾にある「と の四門」から、姫山に登ってみましょう。
姫路城では、数多くある櫓や門に「い・ろ・は」で名称をつけています。
東側の上り坂に構えられた門は「と」の門です。
麓から順に「と の四門」「と の三門」「と の二門」「と の一門」の四つの門があり、厳重な構えでした。



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坂道を登り詰めたところに、外壁が板張りの櫓門があります。
「と の一門」です。
白壁の建物が基調の姫路城の中で、やや異色な感じがします。
この門は、秀吉が姫路城を築く際に、播磨北部にある置塩城から移築したものだと伝えられています。

さて、これから内側にも、まだまだ秀吉・官兵衛コンビが活躍した時代の名残があります。
ご期待下さい。


〈以下次号〉