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「桜男 笹部新太郎を育てた文化」展をみた

2023-03-12 01:10:42 | 展覧会
白鹿記念酒造博物館へ行った。
今回は三つの展覧会が開催されている。
・桜男 笹部新太郎を育てた文化
・変化する酒蔵建築
・節句の人形 京(みやこ)の五節句
この三つである。
前後期に分かれていて、わたしが行ったのは後期最後の前日で、前期の「めでたい浮世絵」は見なかった。

桜男 笹部新太郎を育てた文化
この展覧会のことから記したい。

笹部新太郎は大阪の堂島の大地主の息子に生まれた。
1887年だから大阪では折口信夫、小出楢重、他地域では小村雪岱、山本有三など錚々たる綺羅星と同い年である。
笹部の生まれた頃の堂島は今よりもっと広範囲の地域と捉えなくてはならない。
つまり現在の北新地の堂島で生まれたそうだ。
確かに堂島と言えば堂島なのだが、今の感覚の堂島とは少し違うのだ。
明治20年代の堂島は米相場で盛り上がりを見せていた。
相場師が大車輪で活躍し、とにかく「相手に負けたらあかん」という気概があったそうで、そうした気質を幼い頃から笹部新太郎は目の当たりにして来たらしい。
大阪弁で言うところの「ええしのぼんぼん」たる笹部新太郎は幼くして母を失い、20代初めには「堂島の丸焼け」で実家が燃えてしまった。
総領の兄が面倒を見ていたのか、その兄も早くに亡くなり、笹部新太郎が家督と大財産を継いだ。

カネはあるに越したことはないが、笹部新太郎は所謂「活きた金遣い」をした。
桜に魅せられたかれは生涯にわたって日本古来の山桜・里桜の保護育成を続け、造幣局の通り抜けの桜も、樹齢約450年の荘川桜の移植も指導し、武田尾に桜の保護地区として「亦楽山荘」を拵えて、そこで多くの桜を育て、守った。そこは今では公開されている。なお白鹿のサイトにも探訪記がある。こちら

自らを「桜男」と称したかれに惹かれた人も数多い。
自伝「桜男行状」が世に出たことから文壇との付き合いも生まれ、小林秀雄、白洲正子、水上勉らと一緒に写した写真もこの展覧会に出ている。

水上勉はその桜男をモデルに「桜守」を書き、これがベストセラーとなった。
また笹部新太郎は大正十年頃に大阪の名士らしく大阪倶楽部に入り、そこでも多くの人と交友した。
写真を見ると、日本画家で「浪速御民」を称した菅楯彦と機嫌よく笑う写真がいくつかあった。
かれらは昭和26年に同時に大阪市民文化賞を受賞したそうな。

この世代のことをわたしは「綺羅星」だと記したが、実際1887年前後に生まれて名を成した者は現代にもその名を残し業績を残し、死後も讃えられているように思う。
時が過ぎてかれらの名を知らぬ人々が現れても、それでも耀きは消えることはない。

さて笹部新太郎の年譜を見ると本当に若いうちから桜好きなのがわかる。
またそれだけでなく、生まれ育った堂島の地に生きる文化を多く吸収している。
笹部新太郎自身が大阪倶楽部での講演会でその辺りのことを詳しく話し、それが文字に書き起こされていて、ここで紹介されているので、今回興味深く読んだ。
それは堂島追想・追懐といった内容である。昭和33年の講演。

・桜橋に福井座という芝居小屋があり、二流の小屋ではあるが嵐佳笑という「いつまでたっても」綺麗な男がいて、多くの女客が押し寄せた。この一座には曾我廼家五郎も参加していた。

・大毎のところに藤井座と言う寄席があり、ここでは講談も聞けた。旭堂南陵が小南陵の時代から出ていた。
(大毎とは大阪毎日新聞の本社のことであり、現在は北館跡に堂島アバンザが、南館はホテルと堂島プラザビルがその跡に建つ。笹部の講演のあった年に南館に毎日ホールと大毎地下劇場が落成した。その二年前には北館に毎日文化ホールが落成。大毎地下劇場は二本立ての名画座。1993年3月末に閉鎖、毎日ホールは芝居、講演会、試写会など開催。その意味では藤井座の後継の地という血脈があるのかもしれない)

・梅田新道を西に入って見えるのが永楽館。よい寄席で、贅沢な内装だった。
初代春団治も機嫌よく高座に上がっていた。森繁久弥が映画で演じたような気難しい男ではなく、会うとよく喋った。

講演で挙げた三つの小屋の位置特定をした地図があるが、三つ目の永楽館だけははっきりしないらしい。お初天神の方のようだが。

笹部新太郎の残した資料や関わった資料を見ていると、この人は本当に世話好きと言うか、自分から動く人だというのがよくわかる。
造幣局の桜の通り抜けもそうだが、ちょっとした何かの世話役もするが、いずれも名のみではなく実際に行動している。
しかもそれで実績を残しているのだから、とても信頼が出来る。
後世の、何のゆかりもない第三者のわたしのような者でさえそう思うのだから、リアルに接していた人からすれば、頼りがいがあったろうなあ。
ただの夢みるぼんぼんでないところがまたよろしい。
きちんと利が出て、理が通っている。そうでないとあかんのです。

多くの人との交友をみる。
・寄席の年賀状や暑中見舞いが並ぶが、おばけが飛び出る仕掛けものは楽しかった。
・笹部新太郎本人の年賀状は毎年版画制作に励んでいたようで、そのハンコが並んでいた。
干支の動物を描きこむもの。
・大阪倶楽部の人々との記念撮影 
中でも仲良しの菅楯彦との写真がいい感じ。菅楯彦は四天王寺との関係が深く、おうちでは天神祭もしてはるので、神主さんみたいなかっこで写っている。いわゆる「うちの天神様」。
菅楯彦の描いた桜の一部


木谷蓬吟編集の「大近松全集」には多くの日本画家による一枚絵の版画がついている。
今回は七点並んでいた。チラシにはその一部分がいくつか載る。
野田九甫「毛剃」船乗りなので海上にいる。
富田渓仙「文覚」これはほぼ全景だな。滝に打たれて修業していた文覚の熱心さに不動明王と童子たちが現れたところ。

前期に出たらしき北野恒富「梅川」もある。

上村松園さんの雪女もある。
島成園の紫鉢巻の立兵庫は「夕霧」。
この大近松の版画については以前に近松研究所のある園田学園女子大の展覧会の感想で細かく書いている。
こちら

おお、加賀正太郎の「蘭花譜」も並んでいた。大山崎山荘の加賀正太郎。

かれは桜ではなく蘭愛好者で、その為にあの大山崎に山荘を建てて蘭栽培をしたのだ。2007年に大山崎山荘で絵を見ている。
その加賀の大山崎山荘から向こうを見た図絵もある。チラシにも一部出ているので挙げよう。



それにしても、花好きな人は少なくない。
菊好きな人、五月・躑躅に懸命な人、月下美人を待つ人、いろいろ。
そう言えば清岡卓行には「薔薇ぐるい」という作品があったな。
ところで今回初めて知ったのだが、笹部新太郎の接ぎ木する用のお道具は名工・千代鶴是秀の切出刀なのだった。
時代的にそうだわなあ。2015年に竹中大工道具館で展示があったのだが、その時に限って見に行ってないのだ。

チラシの笹部新太郎の肩の辺りに「浪花方言(上方なまり言葉)大番附」なるものがみえる。
これは他に京都編もあって比較するのも面白かった。
だいぶ失われた言葉も多いが、それでも今も活きてる言葉もある。
「ええし」は今も使うが「だいなしや」って大阪弁なのか!
色々と面白かった。これは杉本宇造という人の出したもの。杉本書店。

ちょっと調べたら「浪花風俗図絵」正続本とか色々出してはるね。
それでなまりシリーズがある。
浪花、紀州、大和、兵庫、京、岡山と言う順で刊行している。
昭和32年から。
こういうのを調べ出すと時間がいくらでも必要になるのでここらへんで止めよう。
そうそう、チラシ左上の「紅葉を訪ねて」はよく見るとふざけた内容でなかなか楽しい。

これやもん。

ところで菅楯彦との交友の他にその菅の女弟子の生田花朝とも交友があった。
こちらは花朝の父の生田南水からのつきあいでもある。
花朝の手紙が紹介されていた。おお、サインは「生田花朝女」だ。わたしはこちらのサインを先に見知っていたので、ずーっと「生田花朝女」というのが正確な雅名だと思っているのだが、「大阪の日本画」展では「花朝」と表記しているので最近はそれに倣っていたが、やっぱり本人がサインに入れてるから「女」をつけるべきか。
それともこれは加賀の千代女と同じものなのか。

生田南水も粋(すい)な人で、俳画を以前に大阪歴博で見ているが、ここでも色んな芸人の様子を描いた絵巻などがある。よう考えたら5年ぶりか、見るの。
当時の感想はこちら「ほのぼの俳画、生田南水」と大坂画壇の絵など。
因みにわたしが最初に生田南水の絵を見たのは2013年が最初らしい。
くらしの今昔館の「なにわユーモア画譜」展の感想に記していた。


大阪にはやはりこうした豊かな文化的土壌を享受して育った才人が多い。
今の大阪ではなく、昭和までの話だが。
最後の粋人は肥田晧三さんだが、近年亡くなられたなあ…
INAXギャラリーでええ展覧会があったのはまことによかった。

本当によい展示を見せてもらえました。

さて二つ目に見たのは丸平の節句人形を中心とした展示。

こちらだけでなく、阪神間では旧山邑邸にもあるし、奈良の寧楽美術館では曲水の宴を人形で再現していた。
東京の三井記念美術館では三井各家の歴代の大木平蔵の人形があった。
このチラシの五節句官女は七世大木平蔵の制作で、今回の展覧会のために京都の丸平文庫から出てこられたそうな。
絵の方は上村松園、中島来章、植中直斎、猪飼嘯谷らの節句絵が並ぶ。
直斎の「秀吉の瓢」は2015年にこちらの「関西の彩り 近代日本画を中心として 」展で見ていた
その時にも大近松の版画を見ている。
松園さん以外はもう殆ど忘れ去られた画家たちなのが淋しい。
復活してほしいものだが…

平田陽光の昭和初期の人形の周囲に現代作家・崎山智水のうさぎたちを配するのはいいと思った。
平田陽光は平田郷陽の弟。
以前、郷陽のいちまさんと崎山のうさぎの共演が三井記念美術館であった。

なお三つ目の「変化する酒蔵建築」展は別稿で挙げる。
いずれも既に終了。

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