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茶臼山 天王寺

2008-09-15 | 街角の話し
大阪は天王寺公園にある山です。
標高:26m  全長200m

明治以降は住友家邸宅の敷地の一部となっていたが、1925年に住友家から邸宅敷地(現・大阪市立美術館)、慶沢園とともに大阪市に寄付され天王寺公園の一部となっている。公園の入場料で入れます。

「茶臼山古墳」とも呼ばれている。近年の発掘調査では、前方後円古墳説は疑問視され、円墳若しくは自然丘陵ではないかと言われているが、結論は出ていない。

大阪市内に残る四古墳(茶臼山古墳=天王寺区、御勝山古墳=生野区、聖天山古墳=阿倍野区、帝塚山古墳)の1つ。いずれも5世紀初頭の古墳と言われている。



河底池(かわぞこいけ、通称ちゃぶいけとも言う)の向こうには通天閣が見える。
この池は、788年に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地といわれている。



麓には、この看板が立っている。
茶臼山が歴史に登場するのです。
1614年(慶長19年)大坂冬の陣で徳川家康が本陣をここに置いた。
翌年の大坂夏の陣では真田幸村がここに陣をしいた。

冬、夏の両方の戦いを合わせて「大坂の陣(おおざかのじん)」と呼ばれている。

その終盤。「天王寺・岡山合戦」と言われる合戦がここで行なわれた。

天王寺は、ここ茶臼山に。そして岡山は現地名では、御勝山古墳=生野区に豊臣方が陣を敷いた。

豊臣方は総兵力55,000人。攻め込む徳川方は、総兵力155,000。圧倒的な差があった。



ここから大坂城は遠いなと思ったので地図で確認した(笑)

中央上が、現在の大阪城。
左下の赤丸が茶臼山、右の赤丸が御勝山古墳。
城までは4km少ししかない。
当時埋められていただろう外堀は、今の空堀通りあたりと思うので、地図では、松屋町筋辺り。
まさに豊臣方には背水の陣だった。
大坂城は三方を川に囲まれているので、大軍で攻めるとなると、まさにここしかない。
5月7日正午に開戦し、午後3時には、豊臣方は壊滅、城内に総退却した。
5月7日深夜に大坂城は陥落した。

真田幸村は、茶臼山の近くの安居神社で戦死した。



山頂への階段。



山頂。
山頂には何もない。
周囲は木が茂り、何も見えない。
真田幸村は、ここで何を考えたのか?





慶沢園

茶臼山の麓にある。
明治41年から名匠小川治兵衛により作庭された日本庭園。命名は伏見宮貞愛親王。

住友家茶臼山本邸庭園として完成までに10年を費やし、完成後間もない大正10年に住友家から隣接する茶臼山とともに大阪市に寄贈された。
茶臼山での激戦の想いを、ここで癒しましょう。
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