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◆私たち自身も、心の中でうめきながら、

2014年12月04日 14時26分22秒 | 聖書

子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。(ローマ八・二三)

このうめきは聖徒に共通のものである。それはすべての者が多少なりとも感じている。それはつぶやきや不平のうめきではない。苦悩ではなく、むしろ願望の声である。保証金を受け取った私たちは、自分の持ち分のすべてを受け取ることを願うのである。私たちは、腐敗と弱さと恥辱とを脱ぎ捨てて、主イエスがその民に授けられる朽ちないもの、永遠のいのち、栄光、霊のからだをまとうことを熱望する。私たちは、自分が神の子どもとされたことの現れを待ち望む。
「私たちは……うめく。」しかし、それは「心の中で」である。偽善者のうめきではない。偽善者は、自分が惨めであるため、うめくことで人々に自分が聖徒であるかのように思わせようとする。私たちの嘆息は神聖なものである。人に吹聴するにはあまりにも聖い。私たちは、自分の願いをただ主にのみ打ち明ける。
それから使徒パウロは、私たちが「待ち望んでいます」と言っている。それは「私のいのちを取ってください」と言うヨナやエリヤのように、私たちがいらだつことを言うのではない。また仕事に疲れ果てて、すすり泣きし嘆息をもらしつつ、この人生を終えることを求めるのでも、主のみこころが成就されるのを待たずに現在の苦しみから逃れることを願うのでもない。私たちは栄光をあえぎ慕うが、主のお取り計らいが最善であることを知って、忍耐強くそれを待つべきである。待つことは、準備ができていることを意味する。愛する主が戸を開き、私たちをご自身のみもとに伴われることを期待しつつ、玄関に立つべきである。
この「うめき」はテストである。何をうめき求めるか。これによってその人を見分けることができる。ある人々は富を求める。性急な人々は人生の苦難の下で絶えずうめく。しかし、神にあこがれる人、キリストのようにされるまで安心しない人は幸いである。主のご再臨と私たちの復活のためにうめくことができるように、神が私たちを助けてくださいますように。

 


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