座間コミニティー

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お帰りなさい

2013年09月27日 20時35分56秒 | 日記

きょうは素敵な笑顔ですね。

やはりあなたには嬉しそうな笑みが似合いますね。

私の青春の思い出のカクテルを~。

http://www.youtube.com/watch?v=zdTMK6TZRuA

http://www.youtube.com/watch?v=-OLIJVZWXqc

http://www.youtube.com/watch?v=b_3aPGBDzZs

この曲を聴くたびにあの人のことを想います。

http://www.youtube.com/watch?v=E-mrSzx2olc

今日は少ししゃべりすぎましたね。

あなたのことをゆっくりきかせてください。


◆私の愛する方が戸の穴から手を差し入れました。

2013年09月27日 15時47分20秒 | 聖書

私の心は、あの方のために立ち騒ぎました。(雅歌五・四)

私の心は、あまりに眠気に満たされていたので、戸をたたかれるだけでは不十分であった。私は、立ち上がって戸を開けるには、あまりに心が冷たく、恩知らずだったからである。しかし私のたましいは、主の有効な恵みに触れたためにかきたてられた。私の愛する方の忍耐よ。主が戸の外に閉め出された時、私は怠惰の床にいたのに、主は戸の外で待っていてくださった。主は幾たびとなく戸をたたき、声をかけて、戸を開くようにと願われた。どうして私は、主を拒むことができたのだろう! 卑しい私の心よ。赤面し、ろうばいせよ! しかし、これはなんと大いなる親切であろう。主ご自身が門番となり、戸の穴から手を差し入れてくださるとは! かけ金をはずし、かぎを回してくださるそのへりくだりの御手は幸いである。
今、私は知る。主の御力以外の何ものも、邪悪のかたまりのような私を救うことはできないことを。私にとって儀式は効果をもたない。福音すら、主の御手が私に差し伸べられなければ、何の効力も発しない。他の何ものをもっても開けられなかったのに、主は開かれた。主の御名はほむべきかな。私は今も、主の恵み深いご臨在を感じる。
主が私のために耐えられた一切の苦しみを思い、私の卑劣な仕打ちを思う時、私の心が主に向かって動かされるのは当然のことではないか。私は愛情をほかに移していた。そして主を悲しませた。不貞な妻がその夫を扱うようにしてきた。おお、私の残忍な罪よ。私の無慈悲な自我よ! 私はどうすればよいのだろう。私の悔い改めを表すには涙も足りず、私の全心は私に対する憤りに燃える。ああ私は、私のこよなき喜びであるお方を、あたかも未知の人のように扱った。
イエス様。あなたは赦しを与えてくださいます。しかし、それだけでなく、この私が不忠実な者にならないようにしてください。私の涙をぬぐって、心をきよめ、それを七重の綱をもってあなたに縛り、再び迷い出さないようにしてください。

 


◆気落ちするな

2013年09月27日 08時48分35秒 | 聖書

もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
あなたの力は弱い。        (箴言二四10)

苦難(ツァーラー)の日とは、逆境にある日です。逆境の時に気がくじけ、絶望したらだめだ。そこから人生がくずれてくるというのです。自動車を何かにぶつけてへこませたまま放っておいたら、そこからペンキがはげ、さびてきて、ぼろぼろになってしまいました。人生もそのとおりです。気をくじいたところからくずれてきます。
悪魔が店じまいするので、自分の道具を売りに出しました。並べられた物の中で、一番ちびた、たがね(鋼鉄製ののみ)のようなものに一番高い値段がつけてあるので、「あれは何ですか」と聞くと、「絶望のたがねですよ。これを打ちこむとたいていの魂をやっつけることができる」と、悪魔がうそぶいたという話があります。
私たちは、逆境の時はどうすればいいのでしょうか。
第一に、「逆境の日には反省せよ」(伝道者七14)、また「あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです」(Ⅰペテロ五6)と、聖書は言います。まず自分を反省して、罪があったら徹底的に悔い改めることです。すると、神があなたを強くしてくださいます。
第二に、悔い改めができたら、もう思いわずらわず、一切を神にゆだねることです。聖書は言います。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです」(Ⅰペテロ五7)。いつまでも思いわずらっていると、心がさびて、くさってきます。大胆に神にゆだねて、過去を忘れて新しく局面に立ち向かうことです。弱さの極限に立ちながら神を信じてその力によりたのむ者に対して、聖書は言います。「弱い時に強い」(Ⅱコリント一二9―10参照)と。

 


◆しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。

2013年09月27日 08時47分54秒 | 聖書

主に救われた民。(申命三三・二九)

ある人は、キリスト教は人をみじめにすると断言するが、キリスト教を全く知らないためにそのように言うのである。キリスト教が私たちをどれほどの地位に高めるかを見るならば、これが人をみじめにすると言うのは的はずれである。キリスト教は私たちを神の子とする。あなたは、神がすべての幸福をその敵に与え、ご自身の家庭のためには悲しみのみを残しておかれると思うのであろうか。キリストと関係のない罪人が幸福にあふれ、私たちは、何もない、物を乞う人のように嘆いていなければならないのか。そんなことはない。絶えず主にあって喜び、私たちの相続するものを光栄に感じている。それは私たちが、「人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父。』と呼」ぶからである。
私たちは時には懲らしめのむちを必要とする。それは私たちのために働き、快い義の実を結ばせる。そのため「主に救われた民」である私たちは、救いの神にあって喜ぶ。私たちはキリストに結ばれた。それなのに、私たちの偉大な花婿がその配偶者を長く悲しませるということがあり得ようか。私たちの心は主に結合され、主の肢体となっている。そしてしばしばかしらである主がかつて苦しまれたように、私たちも苦しむかもしれない。しかし現在この瞬間にも、主にあって天の祝福によって祝されている。私たちは、相続の手つけとしてすでに少なくない聖霊の慰めを受けている。
私たちは永遠の喜びを相続する者として、私たちに対する分け前をすでに味わっている。私たちの永遠の日の出を告げる喜びの光は、すでに現れている。私たちの富は海のかなたにあり、堅固な土台の上に立つ私たちの都は、川の対岸にある。御国からの栄光の輝きは私たちの心を励まし、かつ促して前進を続けさせる。
「しあわせなイスラエルよ。だれがあなたのようであろう。主に救われた民」との聖句は、実に至言である。

 


士師記1章8-10節

2013年09月27日 08時46分39秒 | 聖書

1:8 また、ユダ族はエルサレムを攻めて、これを取り、剣の刃でこれを打ち破り、町に火をつけた。
1:9 その後、ユダ族は山地やネゲブや低地に住んでいるカナン人と戦うために下って行った。


 エルサレムは、主の民の都となったところです。

しかし、初めからそのような所ではありませんでした。

異教の民が住んでいて、その地を征服する必要があったのです。

そこを戦い取ることによって、後に主の都とされた所であったのです。

彼らはさらに、山地やネゲブや低地に住んでいたカナン人と戦いました。

その結果ヘブロンでも、カナン人と戦いました。

この約束の地にも、多くの異教の民がすでに住んでいたからです。

 ところで、戦いに出る時にどの部族が一番初めに出るべきなのかと、民は主に聞きました。

主は答えられて、「ユダが上っていかなければならない。」と言われました。

なぜなのでしょう。

それは、このエルサレムということに関わりがあるようです。

主が共にいる所が得られた時、国は安定するからです。

そして、それはユダ族に属する町であったからでした。


エステル記10章3節(同9章)

2013年09月27日 08時44分38秒 | 聖書

 ★  それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。

■O:今日のコラム

エステル記を通して、私達が勝利を得た主の民として生きる為の、三種類の姿を見る事が出来ます。
   
一つは言うまでもなくエステルです。これは麗しさと力と大胆な信仰に満ち溢れ、王の愛と好意を一身に受けて生きる、キリストの花嫁をあらわす勝利者の姿です。

もう一つはモルデカイです。モルデカイは王ではありませんでしたが、王の次に高い権威を持ち、多くの人々の尊敬を受ける人物でした。
   
8章を読むとモルデカイは王の服を来て国民の前に立つ姿が記されています。つまり、これは、真の王の王に仕え、その王の王にあって、権威と力を受けたキリストにある王としての勝利者の姿です。

さらに、エステルにもモルデカイにも共通した働きがあります。それは「とりなし手」としての姿です。

ハマンによってユダヤ人の虐殺が計画された時、モルデカイは民とエステルの間に立ってとりなし、さらにエステルは王と民の間に立ってとりなしました。
   
彼らは断食を持って命をかけたとりなしによって、この悪の計画を阻止したのです。これはキリストにある祭司としての役割を果たす勝利者の姿と言えるでしょう。
   
このようにエステル記は、異教の地にあって少数派であった主の民が勝利を得た姿が記された書であり、その勝利は現在も起こります。
   
この日本の中で、クリスチャンは少数派であり、時には教会に向かって厳しい逆風が吹く事があります。異教の文化の中で福音を伝える事に困難を覚え、私達の力の無さに失望する事もあるものです。しかし、今日このエステル記を通して大胆な信仰を受け取りましょう。

たとえ少数派であっても、主の民がキリストの花嫁、王であり祭司として立ち上がる時、この国の文化はひっくり返され、霊的領域に打ち破りが起こり、そしてこの地に御国が見える形で到来する事となります。

モルデカイが自分の民の幸福を求め、民族全てに平和を語ったように、私達もこの日本の民のイエス・キリストにある救いを切に求めてとりなし祈り、この民全体に平和の福音が語られる事を信じて、現代のエステル、モルデカイ、王であり祭司、キリストの花嫁として共に立ち上がりましょう。

■A:考えてみよう

エステル記を読んで、聖霊様から勝利の信仰を受け取ろう。
それぞれの家庭や学校、職場や街でこの主の勝利を現す事が出来ますように。

■P:祈り

主よ。私を現代のエステル、モルデカイとして用いて下さい。麗しい王である主イエスの熱烈な愛の中に生きる花嫁とし、主イエスの権威を持った王とし、主の前に忠実に仕え、とりなし祈る祭司として下さい。

主イエス・キリストのお名前によってお祈りします。