座間コミニティー

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◆海の上に悲しみがある。

2013年09月07日 16時33分22秒 | 聖書

それは静められない。(エレミヤ四九・二三英訳)

私たちは今この時間に海の上にどのような悲しみがあるか知らない。静かな自分の部屋で安全である。しかし、はるか遠くの海上では、ハリケーンが残酷にも人の命を奪おうとしているかもしれない。聞け。死の波風が船の綱を引きちぎるばかりに怒号しているのを。波が破壊のつちのように打ちかかると、船の骨組みははずれそうになる。神が、あわれな、ずぶぬれのあなたを助けてくださいますように! 私は、海陸を統べ治める大いなる主に向かって祈る。主があらしをなぎとし、あなたを目指す港に着かせてくださるように。
私は祈りをささげるだけであってはならない。絶えずいのちの危険にさらされている人たちのため、益をもたらすことを努めなければならない。私は彼らのために何をしたであろうか。何をすることができようか。
どれほどしばしば、荒れ狂う海が水夫たちを飲み込んだことだろう。海底には幾千という死体が横たわり、海の上には死の悲しみが漂っている。それはやもめや孤児の泣き叫ぶ声のこだまである。多くの母親や妻は海を思いつつ泣く。無情の大波よ。おまえは女たちの愛と家庭の支柱を飲み去った。海がその死者を吐き出す時、大海の深い洞窟にはなんという復活があることだろう。その時まで海の上には悲しみが漂っている。
さながら陸上の悲しみに同情するように、海はとこしえに無数の海岸に打ち寄せ、海鳥のような悲しみの叫びをあげ、不安なうつろな波の音をとどろかせ、騒然たる不満の叫び声を上げ、怒りのざわめきを発し、あるいはまた、無数の小石のつぶやく声でわき立っている。海のとどろきは、喜びの声をもつ人には楽しいものだろうが、悲しみの子にとって、果てしなく広がるこの世界より、さらにわびしい。これは私たちの安息の所ではない。休みなく寄せる波がそう告げている。
かなたには、海がもはやないという国がある。私たちは主が語られたその国へ行こうとしている。顔を堅く向けて。しかし時が来るまで、昔海の上を歩み、海底を通って民を無事に導かれた主に、自らの悲しみをお任せしよう。

 


◆真理のことばの確かさ

2013年09月07日 09時22分30秒 | 聖書

これはあなたに真理のことばの確かさを教え、
あなたを遣わした者に
真理のことばを持ち帰らせるためである。(箴言二二21)

このことばは、きのうの箇所の続きですが、「真理のことばの確かさ」ということばが心を強く打ちます。イエス・キリストは、「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネ八32)と言われました。ほんものの真理は、私たちを自由にする確かさを持っているというのです。
私たちは自由だ。一己の人間として自由を持っていると、近代の人間は豪語します。しかし、実際はどうでしょう。「罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ八34)とイエス・キリストは言われました。人間は、原子力を利用し、ロケットを月に打ちあげ、コンピューター時代を築きあげてきました。しかしいまだに、人を愛し、人をゆるし、人のために与え、人のために祈る自由を持ちません。互いに、憎み、うらやみ、奪い、ねたんでいます。人間は、このままではけっして自由ではないのです。
魚は水の中にいて初めて自由です。魚自身が自由なのではありません。何百馬力の機関車も、砂浜に置かれてはにっちもさっちもいきません。二本のレールの上にのせられて、初めて自由に力を発揮できます。
このことは、私たちにも同じなのです。私たちを、造り支配し愛し、私たち一人一人にかけがえのない使命を与えておられる神がいらっしゃいます。私たちは、神という真理の中にあって初めて自由になるのです。イエス・キリストはご自身が真理であることを示し、「子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです」(ヨハネ八36)と言われました。
私は、この真理の確かさを年を経るごとに感じています。この真理のことばを、神から遣わされた者としてあなたにお伝えしたいと思います。

 


◆群衆のためにイエスに近づくことができなかったので、

2013年09月07日 09時21分29秒 | 聖書

その人々はイエスのおられるあたりの屋根をはがし、穴をあけて、中風の人を寝かせたままその床をつり降ろした。(マルコ二・四)

信仰は創意に富む。家には人がいっぱいで、入口から入ることができなかった。しかし、信仰は中風の者を主の御前に運んでいく方法を見いだした。ルカの福音書第五章一九節によれば、瓦をはがさなければならなかった。とすれば、ほこりが立ち、下にいる者にはある程度の危険があったことだろう。しかし、危急の際には、少しばかりの危険や無作法を気にしていてはならない。医者であるイエスがそこにおられる。そのために、どんなことが起ころうとも、あわれな中風の者の罪が赦されるため、信仰はあえて危険を冒した。
ああ、私たちももっと大胆な信仰をもちたい。愛する読者よ。自分自身のために、また同労者のために、今朝この信仰を求めることができないだろうか。そして今日、たましいを愛し、主の栄光を現すために、何らかの思いきった仕事をしようではないか。世界は常に趣向をこらし、天才は人間のすべての要求に応じようと案をねる。信仰も発明をすることができないであろうか。新しい方法によって、捨てられた滅びゆくたましいに達することはできないであろうか。
中風の者をかついだ四人が、これほどの勇気を示したのは、イエスがそこにおられたからであった。主は今も私たちのうちにおられないであろうか。私たちは今朝主の御顔を拝したであろうか。主のいやしの力をたましいのうちに感じたであろうか。もしそうであるなら、戸口からでも窓からでも屋根からでも、すべての障害を排して、たましいを主のみもとに連れて来よう。信仰と愛が真にたましいを救おうとする時、どんな方法でもよい。飢えた者がパンのために石の壁でも突き破っていくとすれば、まして救霊のために飢えている者はどのようなものによっても妨げられない。
主よ。罪の中にいるたましいに達する適切な方法を、ただちに見いだすことができ、あらゆる危険を冒しても前進することができるようにしてください。

 


ヨシュア記21章1-7節

2013年09月07日 09時19分44秒 | 聖書

21:1 そのとき、レビ人の一族のかしらたちは、祭司エルアザルとヌンの子ヨシュアとイスラエル人の部族の一族のかしらたちのところに来て、
21:2 カナンの地のシロで、彼らに告げて言った。
「主は、私たちに住むべき町々と、家畜のための放牧地とを与えるよう、モーセを通して命じられました。」


 カナンの地が征服されて、それぞれの部族に土地が分配されました。

しかし同時に、個別に特定な人々への土地の分配もなされました。

その1つが、指導者のヨシュアのための土地であり、次は、逃れの町の認定でした。

さらにこの箇所では、レビ人のための放牧地と、町の認定がされています。

レビ人は、幕屋や神殿で神様に奉仕をする民として選ればれた為、作物を生産するための相続地は与えられませんでした。

民が献げる献金の10分の1が彼らの収入となって、生活が保障されたからです。

しかしその彼らにも、住むべき所とそこに隣接する放牧地は与えられることが、主の言葉によって告げられていました。

そこで、その言葉に従って、自分たちへの分与をレビ人は求めました。

主が許されていたからです。