座間コミニティー

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◆私は眠っていましたが、

2013年09月24日 16時21分29秒 | 聖書

心はさめていました。(雅歌五・二)

クリスチャンの経験の中に逆説は無数にある。花嫁は眠っていたが、心は覚めていたとあるのは、その一つである。深い経験をもつ人にして、初めてこの信者のなぞを解くことができる。今夜の聖句の二つの要点は、悲しみに沈む眠りと、希望に満ちた目覚めである。
「私は眠っていました。」自分のうちに住む罪によって、聖なる義務を怠り、宗教上の働きを煩わしく思い、霊的喜びに鈍感となり、全く怠慢となり、不注意となる。いのちを与えてくださる聖霊の内住される者にとって、これは恥ずべき状態であり、きわめて危険な状態である。賢い娘たちも、時にはまどろむだろう。しかし、今はすべての者が怠惰を振り捨てるべき時である。サムソンが肉の安全のひざの上に眠っている間に髪の毛を失ったように、多くの信者が力を失っている。私たちの周囲の世界が滅びつつあるのに眠るとは! 永遠が間近に迫っているのに。それは愚かなことではないか。私たちのうち一人も、目覚めていなければならない時に目を覚ましていない。時には雷鳴が響くほうが私たちのためになる。そして私たちがただちに目覚めないならば、それをさまざまな形でもつことになろう。すなわち、戦争、疫病、愛する者との死別、損失などの形で。おお、肉の安楽の床を離れ、燃える明かりを掲げて、おいでになる花婿を歓迎したい。
「心はさめていました。」これは幸いなしるしである。いのちは衰え果てているが、全く死んではいない。新しくされた心が生来の重圧と戦う時、私たちはこの死のからだの中にも、いくらかの活力を残してくださる主権者の恵みに感謝すべきである。イエスは私たちの心に耳を傾け、私たちの心を助け、私たちの心を訪れてくださる。なぜなら、目覚めた心への「あけておくれ」という声は、愛する方の声だからである。聖なる熱情は必ず戸を開くであろう。
 お立ちになっておられる愛の御姿
 私のたましいはこの客をお迎えする
 すべてのまといつく罪を振り捨て
 開いた心と苦しむ手を伸ばして

 


ヨシュア記24章16-28節

2013年09月24日 09時35分50秒 | 聖書

24:19 すると、ヨシュアは民に言った。「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神である。あなたがたのそむきも、罪も赦さないからである。
24:20 もしあなたがたが主を捨てて、外国の神々に仕えるなら、あなたがたをしあわせにして後も、主はもう一度あなたがたにわざわいを下し、あなたがたを滅ぼし尽くす。」


先にヨシュアは民に向かって、誰に仕えるのかと問いただしました。

その時に彼らは皆、主にのみ仕えますと答えました。

ところがその返答に対し、ヨシュアの語ったことは意外な言葉でした。

あなた方は主に仕えることはできないであろう、と言ったのです。

それは、人というのは本来悪に染まっていて、真の神のみを礼拝するということに、心が向いていないからです。

従って、困難や利害関係のことが生じると、すぐに従うべき方を変えてしまいます。

民の後の歴史が、そのことを物語っています。

 ですから、主に仕えるということは、自動的になされえることではなく、常に心していなければならない各自の自覚と意思に関わることだ、と彼は告げたのです。


◆心 を 与 え よ

2013年09月24日 04時30分23秒 | 聖書

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。
あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言二三26)

文語訳では、「わが子よ汝の心を我に与え」となっています。私が、若い時から暗唱し、祈るたびに心に浮かんでくるようになった聖書のことばの一つです。
ヨハネは、「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです」(Ⅰヨハネ三16)と言いました。私たちのためにすべてを与えられたお方が、「わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ」と言っておられるのです。
私は、その人となりや人生から、平和とか喜びとか思いやりとかの圧倒的な力がにじみ出てくる人におめにかかったことがあります。そういうものは、教養とか財力とか権力ではなく、人生のほんものの力です。そんな人は、心を神に与えている人だと、私は感じています。旧約聖書に「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」(Ⅱ歴代一六9)ということばがあります。神に心を与えきった人には、力が与えられるのです。
その心を神に与え、その心が神と一つになっている人とは、どんな人なのでしょう。ヘブル語の原語から見て三つの意味があります。
第一に、神に対して全く平和になった心です。くだけきって、神に逆らう石の心の部分がありません。悔い改めて罪ゆるされたからです。
第二に、まるごと神に明け渡した心です。一部分でも私するところがありません。
第三に、ささげられた心です。神のみ声がかかったら、すぐに従って実行する心です。
神は全世界を見まわして、捜しておられます。そんな心を! そしてその人に、愛や喜びや平和の力を与えてくださいます。

 


◆私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。

2013年09月24日 04時29分24秒 | 聖書

私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。

(エズラ八・二二)

護衛は、巡礼の群れにとっては望ましいものであったろう。しかし、聖なる恥を知るエズラはそれを求めることができなかった。彼は、異教の王が、エズラの神に対する信仰告白を単なる偽善とし、あるいは、イスラエルの神はその民を守ることができないと思いはしないかと恐れた。明らかに主の用であることに、肉の武器を借りることはできなかったのである。それゆえ一行は、目に見える何の保護もなく、彼らの剣であり盾である神に守られて出発した。
神に対してこのような聖なる思いをもつ信者がほとんどいないことは、懸念すべきことである。ある程度まで信仰によって歩む人も、時によると人の助けを切に求めて、そのいのちの輝きをだいなしにする。財産も支えもなく、主にのみ支えられ、千歳の岩の上に堅く立つことは非常に幸いである。もし信者が、カエサルの助けを求めることによって主の御名が汚されることを思い起こすならば、まるで主が必要を供給することができない方であるかのように、自分たちの教会のために国家の寄付を求めるようなことはできない。ひたすらに主の御腕にのみ頼ることが主をあがめる道であることを思い起こすなら、なおろうばいして親族友人の援助を求めることはできない。
私のたましいよ。ただ、神にのみ仕えよ。ある者は言うだろう。「しかし手段もまた必要ではないか」と。しかり。だが私たちが手段をなおざりにすることで失敗することはほとんどない。むしろ神を信ぜず、手段を過信することで失敗する。人の助けをなおざりにしすぎる人はほとんどいない。多くの人はそれに頼りすぎている。愛する信者よ。手段を用いることによって主の御名を汚す結果となるならば、むしろ手段を放棄して神の栄光を現すことを学べ。

 


エステル記2章12節(エステル記1章)

2013年09月24日 04時27分32秒 | 聖書

★  おとめたちは、婦人の規則に従って、十二か月の期間が終わって後、ひとりずつ順番にアハシュエロス王のところに、入って行くことになっていた。これは、準備の期間が、六か月は没薬の油で、次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。

■O:今日のコラム

私達は、行いによってではなく、恵みによって救われました。

そして恵みは、どうしても主に従順出来なかった私達を、主に対して従順な者としてくれます。主の恵みは、私たちを整え、きよめられたキリストの花嫁とするために注がれ続けています。そして最終的には、目に見える形で私たちの行いを整えていくのです。

アハシュエロス王は、当時、王の王と呼ばれていました。つまりキリストの象徴です。この王の所に入っていくために整えられる期間は、キリストの花嫁として整えられる期間の象徴です。

12ヶ月の期間が持たれました。前半と後半に分けることができます。
1  没薬の油で = 没薬は葬りを意味します。油は聖霊様に満たされることを。つまり自分に死に、御霊に満たされることで整えられる期間です。
2  香料と化粧品で = 香は祈りを意味します。化粧品は私たちを飾るものです。それは行いを意味します。

『同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。』(テモテへの手紙 第一 2章9-10節)

黙示録で私たちを飾る白い亜麻布の服は良い行いです。

主は御霊で満たされている者を、さらに祈りに満ちた器とし、最終的には良い行いで飾ってくださいます。それらは、別々にではなく同時進行で進んでいきます。私たちの行いは、ますます主の前に好ましいものになっていくのです。全ては、主と結ばれるために。

また、違う側面から見ると、それは私たちの人格の完成とも言えます。新約聖書で言う完成は、完璧というより、成熟した、成人したという意味です。それは、御霊の実によって表されます。

9つの御霊の実の締めくくりは自制です。私たちが約束のものを得るために必要なのは忍耐(つまり自制)です。約束のものとは、御国とイエス様ご自身です。

忍耐の報いに関して、エステル記のこの聖句に結びついている興味深いものがあります。

『見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。』(ヤコブの手紙5章11節)

どこがエステル記と結びついているのか? と思われるかも知れません。
しかし、このヨブの忍耐の結末とはなんでしょうか?

ヨブは、失ったものの倍の祝福を得ました。しかし、それは、完全な結末とは言えません。

相続地を受け取る娘の話が出てきます。これは、御国を受け継ぐ花嫁のひな形です。彼女達の名前は、エミマ(鳩)、ケツィア(肉桂)、ケレン・ハプタ(化粧品)です。

鳩は、雅歌によると愛する女性の事。肉桂は、主に捧げる香の主成分です。

今日の聖句には、『次の六か月は香料と婦人の化粧に必要な品々で化粧することで終わることになっていたからである。』と書かれていました。
ヨブの忍耐の報いがキリスト花嫁として整えられる最終段階を意味しています。

■A:考えてみよう

今の自分の段階はどこだろう?
ただイエス様と結ばれる事を夢見て、主のお言葉の通りのこの身となることを求めよう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。